143 スロヴィリーク家

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 少年にとっては、それはいつもどおりの朝だった。

 寝台を下りて寝巻きの上に一枚羽織り、廊下を渡って台所に行くと、いつもの場所に座る。

 テーブルにはすでに朝食が用意されていて、紅茶は自分でポットから注ぐ。


 斜め向かいに座った長兄はもう食事自体は終えていて、お茶を飲みながら新聞を読んでいた。


 やがて調理場にいた妹がテーブルへとやってくる。

 今日は朝から機嫌がいいらしく、歩いている間から鼻歌混じりだった。


 そこで用意された皿がいつもより少ないことに気づき、妹に尋ねる。


「そういやジーニャは? まだ寝てんのか?」


 次兄の分が用意されていないし、そもそも本人の姿も見当たらない。

 ロディルの性格や普段の生活態度からして、少なくともヴィトレイより先に起きて朝食を済ませているとは思えないので、ミルンはそう訊いた。


 するとアレクトリアは眼を丸くして、何言ってるの、と返してきた。


「ジーニャなら一足先にカルティワに行くって、昨日出てったでしょ」

「……あれ、そうだっけか。でもなんでまた?」

「もーミルシュコ寝惚けすぎ。もちろん、結婚式の準備に決まってるじゃない」


 け、っこん、しき。


 思わぬ単語が出てきたのでミルンはしばし呆然とした。

 それは何のことだったっけ、と記憶を一生懸命にほじくり返してみる。


 ……ああ、そういえばたしか、ロディルの恋人は花ハーシ族だと言っていた。


 なんでもマヌルドの学校で知り合ったとか。

 彼女が難しい病でそう長くは生きられないからと、急いで一緒になることを決めたのだ。


 ひいては彼女の治療のために、ハーシ国内ではもっとも医療設備が整っている首都カルティワに移ることにしたとかどうとか。

 たぶん両親が住んでいる家に間借りするのだろう。


 うん、そんな話をしていたような、気がする。


 ほんとうに寝惚けているらしく、ミルンの記憶はどれもこれも曖昧なものだった。

 昨日何をしていたのかもよく思い出せない。


 とにかく朝食を済ませ、ヴィトレイが置いていった新聞を読む。

 とくに目ぼしい話題も事件も載っていない。平和なもんだな、と思いながら頁をめくる。


 カルティワにもしばらく行っていないが、なにせ首都だから、行くたびに景観が変わってしまっている。

 前来たときにはなかった建物が増えたり、あるいは古びたものを建て替えたり。

 紋唱術の発達により建築工事の所要時間が短縮されたこともあって、あちこちの都市で定期的に建築ラッシュが起きたりしている。


 そのわりにモロストボリだけは何年も変わらない。

 田舎すぎて、紋唱建築の建物など一軒もない。


 カルティワの大神宮で改修工事が始まります、という旨の記事を読んで、ミルンは深いため息をついた。

 そんな金があるなら少しはこっちに廻してくれと思わずにいられない。

 まあ実際には工事費用を税金だけでは賄いきれないのか、寄付の募集広告も兼ねている記事だったが。


 ──偉大なる世界神クシエリスルに寄進を。受付はこちらから。


「……」


 なんだかもやっとする文言だな、と思った。

 自分でもその理由がよくわからないのだが、なんというか本能的、生理的な部分で、いまいち納得のいかない言葉選びのように感じるのだ。


 なんだろう、世界神にわざわざ『偉大なる』とかつけてる部分が冗長というか過剰だからだろうか。


 まあ、あれこれ考えたところでどうせ寄進する金などないので無関係だ。


 次の頁をめくる。経済情報の欄で、新製品が紹介されていたが、その大半は国外から輸入されたものだった。

 まだハーシには自力で新しい技術や機構を作り出せるような紋唱術師が育っていないのだ。


 ワクサレアで製造されたという湯沸し器の紹介記事が眼に飛び込んできて、なぜかミルンは動揺した。


 なんの変哲もない、ただボタンを押せば紋唱が作動して湯が沸くというだけの装置だ。

 正直誰がそんなものを買うのか、ヤカンを火にかける手間を惜しむような人間がいるのかは謎であり、商品そのものに心惹かれたというわけではまったくない。


 だが、その文言を見た瞬間、ミルンの心臓がどきりと跳ねた。


 なぜ見たことも触ったこともない機械相手にこんな気持ちにならなければならないのだろう。

 わけがわからないが、不可解な動悸はすぐには治まらず、ミルンはひとまず新聞を置いて立ち上がった。


 胸が痛い。まるで見てはいけないものを見てしまったような背徳感と、かすかな興奮が背筋を駆け上がってくる。


 妹が不思議そうな顔をしているが、構ってはいられない。

 そそくさと台所をあとにして自室に戻った。



 アレクトリアに言われ、式に出席するための準備をする。


 儀礼用のちゃんとした衣装ひと揃いを箪笥の奥から引っ張り出している間に、さすがに動悸その他は治まったものの、ミルンの心中は穏やかではなかった。

 さすがに機械の紹介文にどきどきするのは変態じみていると自分でも思ったからである。


 何かの間違いか気のせいだ。でなきゃいたずらで新聞に変な紋唱が仕込まれていたんだと思いたい、ありえないけど。


 シャツがよれて刺繍もほつれかかっているのに気づき、アレクトリアの部屋へ持って行く。

 アイロンぐらいなら自分でもできなくはないが、裁縫やら刺繍なんかは妹にしかできない。


 妹はというと寝台の上にベストを何枚も並べ、どれがいいかしらと呻っていた。

 自動的に持ちものの大半が兄たちのお下がりになるミルンと違い、紅一点の妹は衣装持ちである。ついでにお洒落にもなかなかうるさい。


「リェーチカ、ちょっといいか。これ直してくれよ」

「えーっ……どうしてこんなになるまで放ってたの!? やだもう貸して!」

「もしかするとトーリィも似たようなことになってんじゃねえの? そもそもジーニャは大丈夫なのかよ」

「ジーニャは新郎だから貸衣装だし、トーリィのはちょくちょく着てるから大丈夫だもん。ほら、こないだだって隣町だったかの式に呼ばれてたでしょ、族長として」

「そうだっけ?」


 本格的に頭がやばいかもしれない、とミルンは思い始めてきた。そんな話さっぱり覚えていない。

 このあたりに大きな病院はないし、カルティワに行ったらついでに医者で見てもらうか、などと真面目に考える。


 そんなミルンの苦悩を露知らず、アレクトリアはせっせと刺繍を直していた。

 いつもやっているだけあってさすがに手馴れている。


「それよりミルシュコ、腰帯ベルト貸してよ。貝の飾りがついてるやつ。そしたらベスト、茶色いのにするから」

「なんだそれ。どういう話の流れだ」

「だって結婚式ってことはお祝いの席なんだから、明るい色のほうがいいじゃない? でも私の赤い腰帯に茶色のベストだと色合わせがいまいち決まんないの、かといって黒いベストはやっぱり……」

「……よくわからんがまあいいや、取ってくる」

「だって向こうは花ハーシだもん、きっとみんな刺繍すっごいやつ着てくるんだよ……せめてこっちも色味くらいは」


 アレクトリアはまだ何かぶつぶつ言い続けていたが、ぜんぶ聞いていたら夕方になりそうだったので早々に廊下に出た。


 たしかに花ハーシといえば刺繍が豪華なことで国内では有名なので、なんとなく妹の言いたいことはわからなくもない。

 向こうの親族はさぞ華やかな衣装で来るだろう。


 しかし挙式の費用はどこから出すのだろうとミルンは訝った。少なくともこの家にさほど余裕はないし、近しい親族のみで内内に済ませるのだろうか。


 まあ多少赤字でも、曲がりなりにも族長一家であるからには、町内からささやかな祝い金という名の寄付は受けられる。

 ロディルなら町のみんなからの信頼も篤いしヴィトレイの補佐としてよくやっているから、出納長も融通してくれるだろう。

 族長本人でないため国からはそうした名目の金品はいただけないが。


 とりあえずミルンが心配する必要はないだろうと思い直し、腰帯を引っ張り出した。

 ……これも貝飾りが取れそうになっていた。



 自分たちの支度を日中に終えたミルンとアレクトリアは、夜にはヴィトレイの帰宅を待って彼の準備を手伝った。

 アレクトリアが言うとおりヴィトレイの礼装一式は状態にも問題はない。

 色合わせだけ妹にあれこれ口出しされながら、ともかく三人分の衣装を旅行鞄に詰め込む。


 その日は早々に就寝し、翌朝早くに出立した。


 ミルンひとりならアルヌに運んでもらってもいいが、さすがに彼も三人を運ぶのは骨が折れる。とくに長兄は典型的にでかくてごついハーシ男だ。


 三人は徒歩で近隣の都市を目指す。

 そこからなら首都まで列車が通っているのだ。

 ワクサレアと違って便数も路線も少ないが、あるのとないのとでは雲泥の差である。


 もちろん、いつかは水ハーシ族の町々にも小さくてもいいから駅を置きたいと、兄もミルンもずいぶん前から思っている。


 しかしそれにはまずこの道をどうにかしなければならない。

 相変わらず整備の遅れた峠道は、そのへんの樹から落ちてきた枝やら、崖の上から降ってきたであろう岩やらの障害物には事欠かない。

 そもそもの道自体が起伏が激しくて通りにくいのもある。


 これで冬になれば大量の降雪と吹雪に塞がれて、通るだけで生死の危険を伴う難所と化してしまうのだ。


 ミルンは都度、紋唱術を駆使して障害物などを処理するため、ずっと先頭を歩いていた。

 枝くらいなら拾えばいいが、たまに持ち上げられない大きさの岩が転がっていることもある。

 そういう場合は砕くか削るかして、最低限その脇に人が通れる幅の道を確保するか、岩そのものを階段状に加工してその上を渡っていけるようにするのだ。


 面倒だが、岩と格闘するミルンを妹は楽しそうに見物していた。

 また自分も習いたいとか言い出しかねないが、まだその時期ではない。あまり期待を持たせないようにしなくては。


 ……まだ、って何だろう。

 自分で思ったことなのにミルンはそこでひっかかってしまった。

 まるでこれから変化があるか、あるいは変化を起こそうとしているような発想だ。


 もちろんそんな大それたことは思ってはいないし、大体どうすればいいのかも見当もつかない。


 変えようがない。

 水ハーシは貧乏で、道の整備もままならなくて、外の人間には馬鹿にされている、それが現状だ。


「便利なもんだな」


 ふと兄がそう呟いた。


 ちょうど岩を退けられたところだったので、ミルンはそれ以上考えるのをやめた。

 楽しくも建設的でもない思考だったからだ。


 その後、どうにかガレドフスクという街まで行き、三人は列車に乗った。


 待ち時間と移動時間を含めて半日かかり、カルティワに着けたのはすっかり日が暮れたあとだった。

 馬車ならこの倍はかかることを思うとやはり列車は便利だ。


 さすがにすっかりくたびれ果てていたので、駅から両親の暮らす郊外の家までは市内馬車を使う。


 途中、新聞で見た大神宮の前を通ったが、暗くてあまりよく見えない。

 御者に訊いてみたところ、工事が始まるのはまだ先だそうだが、その間は立ち入りができない区画ができるので、全体を参拝するなら今のうちがいいとのことだった。


 ミルンはとくにそのつもりはなかったが、アレクトリアは行きたそうにしている。


 妹はわりと信心深い。

 たぶん子どものころロディルやミルンがしょっちゅう外遊びで怪我やらなんやらしていたので、そのたびに祈っていたのが今でも癖のように残ってしまっているせいだろう。


 安くはない馬車代を支払い、小さな屋敷の前で降りる。

 車輪や蹄の音が聞こえたのだろう、すぐさま玄関から母が飛び出してきて、彼女はまず子どもたちを抱き締めた。


「まあリェーチカもミルシュコも、少し見ないうちにまた大きくなって! トーリィも元気そうね、いつも手紙をありがとう。

 さ、ここじゃ冷えるから早く中に入りなさい!」

「ねえお母さん、ジーニャのお嫁さんはもう来てるの?」

「ううん、明日ご家族と一緒にいらっしゃるわ」


 カルティワの家に来たのもずいぶん久しぶりに感じる。

 都内の学校に通っていたときはこの家に住んでいたというのに、卒業してからは一度も来ていないかもしれない。


 こちらのほうが生活のあらゆる面において便利だとよくわかっているが、卒業と同時にすぐ実家のほうへ戻ったあたり、やはりミルンはモロストボリが好きなのだろう。


 しかし、まだミルンの頭は惚けているらしい。

 故郷に戻ってからの約二年間、何をやっていたのかよく思い出せなかった。


 まあ何もない田舎ではそう印象的なできごとも少ないし、誰かの畑や漁を手伝ったりしているうちに漫然と日々がすぎていったので、何もしていないように感じるだけかもしれない。


 でもそろそろ就職くらいしたほうがいいかな、と思った。

 両親にも兄にも何も言われていない気がするが、安くはない学費を出してもらったのは事実だし、ちゃんと働いて返さなくては。


 一足先にこちらに来ていた次兄は居間で父と何やら話し込んでいる。

 そこへ長兄も加わり、ミルンはそれとなく会話が聞こえる位置に座った。


 妹と母はお茶の用意をしながら式についてあれこれ雑談しているが、主な話題が花嫁衣裳というあたりが、やはり妹も女なんだなとミルンも思った。

 アレクトリアもいつか誰かのところに嫁に出す日が来るのである。

 あまり考えたくはないことだけれども。


「状況はどうだ? 場所とか」

「区の神社にお願いしてある。上手いこと混む時期は避けられたから、わりとすんなりだったよ」

「借りられる備品は椅子とテーブルぐらいだがね。花やなんかは母さんに任せたんでなんとかなるだろう」

「あの……父さんもトーリィもごめん、忙しいときに」

「またそれか! 構わんと言っとるだろうに。それにこういう時こそ堂々と休暇の申請ができるってもんだぞ、なあトーリィ」

「ああ。それに春よりはましだ。冬の用意も粗方終わらせてあるし、族長がいなきゃ回らんような仕事はない」


 いつもは眉間にしわを寄せてあれこれ悩んでいることが多い父も、さすがに祝いごとの話をしているときは明るい。

 ヴィトレイも心なしか普段より声が柔らかかった。


 こうして家族全員が揃うのもいつぶりだろう。


 居間には時折和やかな笑い声が響き、夜は更けていった。


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