141 唯一神クシエリスル

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 かつてスニエリタの身体を操り、家出させてヴレンデールまで運んだ『クシエリスルの外の神』ことタヌマン・クリャは、ララキにとっては恐怖と憎悪の対象であったらしい。

 そしてもちろん世界にとっての敵でもあった。


 しかし、唯一例外的に彼のことを恐れも憎みもしないのが、乗っ取られた張本人であるスニエリタだった。


 彼女にしてみればこの神こそ辛い実家から逃がしてくれた恩人のようなものだったし、彼がララキを追ったからこそ、スニエリタはミルンと出会うことができた。

 背中につけられた模様は醜いが、それ以上に得られた恩恵のほうが大きいのだ。


 それゆえスニエリタは目の前に顕現したそれを恐れるでもなく、じっと動向を見つめていた。


 それに神との出逢いを思い出したと同時に他のことも蘇ってくる。

 ジャルギーヤというワシを自らの遣獣としたときのことも、彼に乗ってイキエスへ渡り、ララキを観察しながら自然を装ってロカロで出逢ったことも。

 出逢った直後のミルンの反応が今からでは考えられないもので、少し笑ってしまいそうになる。


 その後、一旦彼らと別れながらもひたすらようすを見続けた。

 ミルンの過去の動向を調べたクリャの指示で、スニエリタは先んじてフィナナの地下クラブへ行き、彼と戦う。

 より自分を印象付けてその後の展開をやりやすくするために。


 再戦までの間、スニエリタはクラブで戦い続けた。

 クリャも人間の身体を使って戦うのには慣れていなかったため、彼らと本格的に合流する前に、肉体感覚やスニエリタの技術のほどを確認しなければならなかったのだ。


 思い起こせばこの神は、なんとも不器用で回りくどいことをしていた。

 しかもそれらをいちいち楽しみながら。


『久しいな、スニエリタよ。やはりおまえに印を残して正解だった』

「ええ、お久しぶりです、クリャ。……またわたしを利用してどこかへ向かうつもりですか?」

『概ねそのとおりだが、以前とは少し趣が異なるぞ。あの壁の彫像を見てみろ』


 クリャにそう言われてスニエリタは壁を見た。


 そこにはアウレアシノンの大多数の家で信仰されているマヌルド人の主神、ペル・ヴィーラの姿を模したとされる魚の彫刻がある。

 紋唱術は神と繋がる行為と考えられているマヌルドでは、こうした練習場や学校、図書館など、術に関連する場所には必ず神の姿か紋章が刻まれているものなのだ。


 しかしスニエリタの眼に飛び込んできたものは、幼いころから幾度も見てきたあの彫像ではなかった。


 まずそれは魚の形をしていない。

 すらりとした両手と両足のある、そして体毛らしい表現はほとんど省かれた、細長い布を優雅に纏った者の像だ。

 どう見ても人間を模しているが、そんな神は聞いたことも見たこともない。


 もちろん獣の神がときに人の姿で描かれることがあるのは知っているし、実際にオオカミの神カーシャ・カーイが人の姿をしているのも見たことがある。

 ルーダン寺院のように神像を人型で造ることもある。


 だが、マヌルドにおいては滅多にあることではない。少なくともクイネス家にはない。


 そもそも、これは一体誰の像なのだろう?


『クシエリスルさ。今やこの大陸の唯一神』

「……どういうことです?」

『もともとクシエリスルというのは、過剰に力を蓄えた一部の神の増長を抑えるのが目的でなァ。ヌダ・アフラムシカが言い出して、何百年もかけて大陸中に浸透させていった……初めは私もそれを受け入れた』


 クリャは語る。どこか懐かしむような、寂しげな声音で。


 今までにない画期的な仕組みを広めるのは途方もない困難と苦慮の道だったが、アフラムシカはやり遂げた。

 それだけガエムトの存在が各地の有力な神々をも脅かしていたということでもあった。

 そしてまた、自分の身を護ることすら覚束ない小さく弱い神々にとっては、これほどありがたい施策は他にない。


 クシエリスルの制定にあたり、アフラムシカは各地方の神に監視役を任せた。

 彼らは早い段階でクシエリスルを受け入れた有力な神から選ばれたので、盟主と呼ばれるようになった。


 地方ごとの施政は自由、また個々の活動についてもほとんど制限を設けないことにし、また他の神によってそれが阻害されることがないよう、すべての神は平等であると定めた。

 その他、神を悪戯に増やさないこと、また減らすことも禁じ、人や獣の生命を神の都合によって歪めないことなど、いくつかの原則が盟主たちの話し合いにより決定された。


 もし原則に抵触するような場面があれば、その是非は必ずクシエリスル全体で話し合う体制も整えられた。


 そしてそれらの決まりごとは、すべて幸福の国アンハナケウに設置された大紋章によって規定され、大陸全土に発効された。

 盟主全員の同意がなければそれをいじることはできないし、誰も『編み定められたものクシエリスル』を変更しようとは思わないだろう。


 しかし、それを逆手にとろうと企んだ者がいた。


 大紋章にはクシエリスルの神全員の紋章が組み込まれ、『クシエリスル』という名の実体のない神格を構成している。

 その神が全員の力を自分のところへ一旦集約し、そこから均等に再分配する、という論理で成り立っているのだ。


『その神は実在せず、機構の中にだけ役割として記述されているにすぎない。それゆえ外見も性質も何も定義されてはいない。

 巨大な機能だけを背負った、中身のない空虚な神格……。


 そして"裏切り者"は考えた。己の神格とそいつを入れ換えることができれば、自分が世界の神になれる、とな』

「それがあの人の姿をした神ですか?」

『ああ。神格をすり替えたんでもとの形を保っていられなかったか、気まぐれなのかは知らんがねえ』

「……それで、あなたはわたしにそんな話を聞かせて、何がしたいんですか?」

『私は一度は受け入れようとしたクシエリスルを、他でもないアフラムシカの頼みで捨てた。彼にはいつか誰かがこのような企みを抱くことがわかっていて、それを止める手段がないのも知っていたから、いざというときに備えてクシエリスルの外にも神を置こうとしたのさ。


 私にとっても辛い選択だったよ。他のすべての神を敵に回さなくてはならない。

 その代わり、私はどんな手段を使ってでも生き延びること、それこそ原則など無視して生きものの命を啜ることすら許可を受けた。


 だから私は消えるわけにはいかないんだ。それなのにが見つからない』


 クリャは自分の手で頸を掴んで、そのままありえない方向へぐにゃりと曲げた。

 スニエリタは悲鳴を上げそうになったが、すぐにクリャは頸から手を離し、何事もなかったように元通りになった。


は傀儡にすぎない。本体とは離れて行動できるし、自分でものを考えることもできるが、それでも本体に何かあれば簡単に崩れて消えてしまう。

 逆に言えば本体さえ安全ならそれでいい。

 だが、やつがクシエリスルを乗っ取った瞬間から、傀儡われわれは誰ひとり本体の居所を掴めなくなってしまった。


 それに見つけたところで、あの子は私の言葉には耳を貸さないだろう。だからおまえの協力が要るんだ。

 スニエリタ、もう一度私と旅に出て、そしてララキを見つけておくれ』

「ど……どうしてそこでララキさんの名前が出てくるんです!?」

『それはもちろん、あの子がたったひとりの私の民の生き残りだからだよ』


 ララキ。

 もう長いこと会っていないような気がする、スニエリタのたったひとりの友だち。


 一体、彼女がどのような形でクリャの本体と関わっているのかはわからないが、クリャはなぜそんなことをスニエリタに頼むのだろう。


 スニエリタはこうして実家に戻されているのだし、ララキもそうではないのだろうか。

 仮に彼女が行方不明だったとして、どこにいるかもわからない彼女を探すのに、半人前のスニエリタには一人旅は難しいだろう。


 それこそ以前のようにヴァルハーレたちが追ってくるだろうし、そうなったらすぐ連れ戻されるだけだ。

 野宿のしかたも食事の作りかたも、お金の稼ぎかたもわからないスニエリタなど、まずマヌルドから出られるかも怪しい。


 それに、そもそもスニエリタには、クリャの頼みを聞いてやる義理はなかった。

 身体を借りられたことで多くのものを得られたが、それはあくまで結果論だ。

 ララキのことが心配ではないと言えば嘘になるが、だからといってすぐ家を飛び出せるほどスニエリタは強くない。


 ましてや世界全体に起きている異常になど対処しようとも思えなかった。

 あまりにもことが大きすぎる。


 それに、神がひとつになってしまったことで、人間にも何か不都合があるのだろうか。

 神々にとっては大問題なのかもしれないけれど。


 頷く気配のないスニエリタを見てクリャは呆れたように息を吐いた。

 そしてまた何か言おうと口を開いたが、彼ははっと扉のほうを見やってから、煙のようにその姿を消してしまった。あとには羽根一本すら残っていない。


 そのあとすぐ、扉がばたんと開いた。

 スニエリタは気づかなかったが、クリャにはその人の足音でも聞こえていたのだろう。


 そこに立っていたのはヴァルハーレだった。


 彼はスニエリタを見て満足げな顔をし、名前を呼びながらこちらに向かって歩いてくる。

 サーリの町で別れる直前までの余所余所しさは微塵もなく、恐らく彼の記憶もなくなっているのだろうとスニエリタは思った。


「スニエリタ、日取りを決めよう!」


 歩み寄ってきたヴァルハーレは、スニエリタの肩を抱くなりそう言った。


 何の話かとスニエリタがぽかんとしていると、彼はさっとその場に片膝を衝き、そしてスニエリタの手を取った。

 そして手袋の上からキスを落とす。


「もちろん僕らの結婚式だよ。お義母かあさまには春まで待てと言われたけど、なんだか気が急いてしまってね。一刻も早くきみの夫になりたいんだ。

 約束するよ、スニエリタ。必ずきみを帝都でいちばん幸せにする」


 ヴァルハーレは自分の台詞に酔っているのか、うっとりしながらそう言った。


 実際かなり熱烈な求婚の文句だろう。この美丈夫にこんな形で言われたら、きっと大半の女性は笑顔で頷くか、同じように陶酔してしまうに違いない。


 しかしスニエリタはひどく冷静にその言葉を聞いていた。

 それどころか心の奥底のほうで、冷たく凍りついたものすら感じた。


 なぜならもう知っているからだ。この人と結婚しても、絶対に幸せになんてなれないことを。

 以前のスニエリタならまだしも、今はもう、スニエリタは知ってしまった。


 恋の甘ったるさと薄汚さを、そしてそれを教えてくれた人の温かさと、鼓動の音と、そして塩辛いキスの味を。


 できることなら拒絶したい。

 今すぐこの手を振り払って、北の国へと飛んでいきたい。


 そうできたらどんなにいいかと思いながら、けれどもスニエリタは、わかりました、と答えるしかなかった。

 父が許してくれるはずがない。

 それに、ミルンとは、恋人だったわけではない。


 それどころかミルンはもう何も覚えていないかもしれない。


 薄々だが、スニエリタにだけ記憶があるのは、きっとクリャが何かしたせいなのではないか、と思い始めていた。

 背中のあの紋章に何かそういう力があったのかもしれない。


 ミルンがスニエリタのことを忘れてしまって、もしかすると今ごろ、別の女の子と一緒に笑っている可能性だってある。

 そう思うと胸の奥がぎりぎりと痛んだ。


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