140 生まれ変わった世界の片隅で
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少女は目を醒ました。
そして、そのこと自体に驚いて跳ね起きた。
最高級のカナルヴァ織の寝具に、同じ生地職人の手によるカーテンと、花柄の壁紙が視界に飛び込んでくる。
あまりにもよく知っている光景だった。
そして絶対にありえないはずの景色でもあった。
慌てて寝台から下りる。
寝巻きにはお気に入りだったネグリジェを着ており、姿見に映してみても異常なところは何ひとつない。
だがそれこそがおかしい。少女は背筋がぞくりと震えるのを感じ、ともかく現状の説明を誰かに受けないと気が済まなかったので、そのまま部屋を飛び出そうとした。
しかし彼女の手がドアノブに触れる前に、真鍮製のそれがくるりと回る。
「……まあ、お嬢さま。おはようございます」
「おはよう……って、そんなことを言っている場合じゃないんです、わたしはいつ家に戻らされたんですか!?」
少女は必死に叫んだが、女中はぽかんとしてそれを聞いたあと、ふっと笑って答えた。
「何を言ってらっしゃるんです? スニエリタさまはずっとこの屋敷においでですよ」
まったく意味がわからない言葉だった。
スニエリタは呆然としたまま女中の手によって着替えさせられ、髪を整えられたうえで、両親の待つ食堂へと連れて行かれる。
その道中もあちこちを見回しては愕然とした。
間違いなくそこは、スニエリタの実家だった。
つまりここはマヌルド帝国首都アウレアシノンの高級居住地区、二重城壁の内側であるセルテメ区にある、クイネス将軍一家が暮らす大邸宅だったのである。
壁紙も調度品も何ひとつスニエリタの記憶と寸分違わず揃っている。
どんな悪い夢かと思ったが、現実だった。
出された朝食の味すら間違いなく専属コックの味付けだった。
「まあスニエリタ、顔色がよくないわね。何かよくない夢でも見たのかしら?」
同じテーブルで同じ朝食を摂る母は、少しばかり痩せたようだが、あとは少しも変わったところがない。
二ヶ月も家出していた娘が戻ってきたというわりに、あまりにも穏やかな態度で接している。
そしてそれ以上に、母の隣でむっつりとした表情で食事をしている父が、不気味なくらい何も言わなかった。
普段ならそれがいつもどおりだが、だから奇妙だ。なぜ黙って家を出たスニエリタに対して叱責のひとつもないのだろう。
ふたりにどういう心境なのか尋ねたかったが、あまりにも普段どおりにすごしているのが気味が悪く、両親のはずなのに別人と接しているような気分にさえ感じた。
結局朝食の間は何も言えず、スニエリタも黙って食べる。
おかしい、何かが絶対におかしいのに、このままではスニエリタまでもこの不可解な状況に飲み込まれてしまいそうだ。
それに──そもそもなぜ、スニエリタは眼を醒ましてしまったのだろう。
神の結界に囚われていたはずなのに。
最後のキノコを、半ば騙すような形でミルンに食べさせたのだから、スニエリタはもう二度とそこから出られないのではなかったのか。
あれからミルンはどうなったのだろう。そしてララキはどうしているだろう。
ふたりは再会して旅の続きを始めたのだろうか。
もしかしたらスニエリタは最後のひとりになったので、そこで試験は終了した扱いになり、それで故郷に戻らされてしまったのだろうか。
しかしそれでも、周りの反応が妙だ。
なぜ誰も家出の件に触れないのだろう。
もやもやしながら自室に戻ったスニエリタはまず手袋を手に取った。
そしてドレスを脱ぎ捨て、紋唱術の練習着──つまりは家出中の旅装束に着替え直し、自宅の別棟にある練習場へ行こうと考えた。
何にしてもふたりから学んだことは己の糧として、今一度しっかりと確認しようと思ったからだ。
支度を終えて部屋を出ると、ちょうどそこに見知った人が歩いていた。
ディンラル・ロンショット少佐。
父クイネス将軍の部下であり、スニエリタにとっては数少ない理解者である軍人だ。
「……ディンラルさん!」
「スニエリタさま、おはようございます。朝から練習ですか?」
「え、ええ……ディンラルさんは、こんな朝早くから父に呼ばれたんですか」
「いつものことですよ。では私はこれで……」
「ちょっと、ま、待ってください」
さっさと去ろうとするロンショットの袖口を掴んで引き止める。
どうやら急いでいるらしいロンショットは、困ったようすでスニエリタを見下ろして、なんでしょうかと尋ねてくる。少し驚いているようにも見える。
しかしこの人に訊かないで誰に訊けというのか、今のスニエリタには躊躇する理由はなかった。
「わたし、いつ帝都に連れ戻されたんでしょうか?」
「……はい?」
「ずっと家出してたんですよ、もう二ヶ月以上にもなるはずです、どうして誰も何も言わないんですか!?」
スニエリタの悲鳴じみた言葉にロンショットはますます困惑を強めた表情で、こう返した。
「私の知る限り、スニエリタさまは一度だって家出なさったことはありませんよ」
すみません、将軍がすぐに来いとのことですので、私はこれで失礼します──ロンショットがそう言って去っていくのを、スニエリタは無言で見送った。
誰が何を言っても信じられないつもりだったが、彼だけは絶対にスニエリタに嘘を吐かないと断言できる。
だから、スニエリタが家出をしていた事実が、消えているということになる。
もちろんそんなはずはない。
スニエリタはすべて覚えている。
すべてに絶望して城壁から身を投げたあと、ヴレンデールで眼を醒ましたスニエリタは、ミルンとララキとともに神の試験を受けながら西の国を横断してハーシ連邦へと向かったのだ。
そこでミルンの兄妹とも会った。間違いない。
ミルン。
ララキ。
ロディル、アレクトリア、ヴィトレイ。
出逢った全員の顔と名前をはっきり思い出せる。
何が起きているのだろう。
スニエリタはすぐさま近くで仕事をしていた女中を捕まえて今日の日付を尋ねたが、回答はスニエリタたちがキノコの森の試験を受けた夜から二週間半後になっていたから、時間が巻き戻ったというわけではないらしい。
ただスニエリタが家出していた事実だけが人びとの記憶から消えているのか。
それとも、あの旅の軌跡のすべても失われてしまったのだろうか。
とてつもない焦燥に襲われながら練習場に急ぐ。
もし後者なら、スニエリタはまた無能の術師に逆戻りしてしまうことになるし、せっかく契約した遣獣たちとも会えないことになるのだ。
鍵を開けるのさえもどかしく思いながら練習場に飛び込んだ。
まず、風の紋唱を。
「翔華の紋!」
……できた! そうしたら次はフランジェを呼べるか確めなくては。
スニエリタは緊張に震える手で彼女との契約の紋章を描こうとしたが、ふいに手がふわりと温かくなり、そしてまったく自由が利かなくなった。
誰かに手を握られているような感じがした。
驚いたが、不思議と嫌な感じはしない。
そのまま誰かはスニエリタの手を借りて見たこともない模様を描くと、ついでにスニエリタの口も借りて、やはり知らない招言詩を唱えたのだった。
「今は滅びし荒れ
神地にて呼び奉る……わたしの名は大河の許にあれど、かそけき
紋章は青紫がかった漆黒に揺らめき、そしてそこから、思いがけぬほど美しい獣が姿を現した。
鳥である。いや、よく似ているが少し違う。
色鮮やかな翼の先には脚に似た指と爪とが覗いているし、そもそも顔にあるべき嘴がない。
鳥の身体に爬虫類の頭を繋いだような、奇妙な姿の生きものだった。
その姿を見た瞬間、スニエリタの脳裏にある光景が蘇る。
風に包まれて落ちていく己の身体……遠ざかっていく空と意識、城壁の色……それは、今この瞬間まで完全に忘れていた、自殺を図った直後に眼にした風景だった。
落ちていくスニエリタに寄りそうようにこの獣が現れて、囁いたのだ。
──要らぬのならその身体、しばし私に貸しておくれ。
そのとき何と答えたかは覚えていない。
けれど、その結果は知っている。
「タヌマン・クリャ……」
スニエリタがその名を呼ぶと、神は返事の代わりににやりと笑んだ。
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