139 アンハナケウ

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 ララキは呆然としてそこに立っていた。


 深い森の奥のようなところだ。

 周りは樹々が鬱蒼と茂ってほんの数メートル先も見えないほどなのに、ララキが立っている広場だけは柔らかな草や苔に覆われている。


 そこにひとつだけある大きな切り株を取り囲むようにして、多種多様な獣たちがずらりと並んでララキを見ていた。


 圧巻というか、壮観というか、凄まじい光景だった。

 彼らはすべて神や精霊なのだろうが、これだけ集まれば視線だけでちょっとした暴力だ。


 眼差しの威圧に耐えかねたララキはへなへなとその場にへたり込む。


 ここがアンハナケウ、幸福の国と呼ばれている場所なのか。


 想像していたのとはだいぶ違うな、とララキは思った。

 おとぎ話の絵本なんかでは、国というだけあって壮麗な石造りの神殿がある大都市として描かれることが多い。

 たいていそこには招かれた人間や人の姿をした神々が暮らしていて、彼らにはいつも豊かな農作物と水産物が供されている、そんなイメージだ。


 実際はなんというのか、そう……結界のようだと思う。

 神々の結界は、なんとなくその持ち主の生活環境を感じさせる景観をしているが、ここはいかにも獣たちの暮らす原生林という感じがする。


 神々はみんな獣の姿のままでいる。彼らにとってはそれがいちばん自然なのかもしれない。

 人を招いたからといって、そのために姿を変えるというのはあくまで人間側の発想なのだろう。


 人が期待するほど神々は優しい存在ではないということは、もう充分理解した。


 ここへララキを導いたティルゼンカークにしても、どうしてもミルンを連れていけないのなら、せめてもっと穏やかな方法をとれたはずなのだ。

 神の力を以てすれば人間ひとりくらい眠らせるとかどうとかできただろう。

 それを、あんなふうに嬲って、ぼろぼろにして。


 スニエリタだってそうだ。

 二度と出られない結界に閉じ込められたままで、何の解決策も示されていない。


 神々のそうした行動の裏には何か理由があるのかもしれない。

 いや、きっと何かそうする必要があってしたのだとララキも思いたい。誰でもいいからそれを教えてほしい。


『よく来ましたね、ララキ。ティルゼンカークもご苦労さまでした』

『いえいえ。──あ、カーイ、あなたのとこの少年ですけど、ちょっと寝かせておきましたよ。あとお願いします』

『おう』

『ララキ、きみはこっちへ来て!』


 砂混じりの風がララキを包んで立ち上がらせる。

 いつの間にかララキの横にフォレンケがいて、彼に運ばれるようにして切り株のところまで歩いた。


 切り株は脇のところから枝が一本伸びていて、そこに鉦がひとつぶら下がっている。それを鳴らすための棒などは見当たらない。

 ララキはフォレンケに言われて、鉦があるのと逆側の縁に腰掛けた。


『む、かような日にパレッタは欠席でござるか』

『どうもオヤシシコロの都合らしいよ。まあ気にすることはないさ、司会ぐらい誰にだって務まるし、爺さんへの用件はおれが代わりに聞くことになってるから』

『ほう、アニェムイが代理とはな。それは尚更不安に思う者が出てもおかしくはない』

『あなたは相変わらず嫌味ね、ゲルメストラ……』

『サイナ、来てたのか。代わりにまたガエムトはいないんだな。まあいつものことだが』

『あらぁ、アフラムシカが来るからわざと呼んでないんじゃないの~?』

『ラグ、言いかた。……でもたしかに、余計な揉めごとは起こさないほうがいいだろうな。とくに人間がいる前では』

『しっかしアフラムシカに会うのも久々だなぁ! 元気にしてたかな?』

『いや元気じゃないから呼ぶんだろ。それよりオレ、仕方なくカーイの民を甚振ったんだけど、もう極力優しくしたんだけど、それでもあとで怒られると思う? あの人そういうのうるさいじゃん』


 神々はまだララキをつま先から頭のてっぺんまでじろじろと眺めながら、あれこれ好き勝手に雑談している。


 ほんとうにイメージとぜんぜん違う。


 まず前から薄々思ってはいたことだが、この大陸の神々はなんというか……感情が豊かというか、ある意味人間くさい。

 力を使ったり結界に引きずり込んだりすれば神らしい振る舞いも見せるものの、こうしているとただの喋る動物の集団という感じだ。


 知っている神もそうでない神も、ずいぶん和やかな雰囲気で過ごしている。

 彼らがかつて大陸で激しい勢力争いを繰り返した荒神たちの生き残りとはとても思えない。


 そして、あまりにも数が多い。多すぎると言ってもいい。

 ざっと見回した辺り一面に数え切れないほどの神と精霊がいるのに、これでもまだ全員は集まっていないのだという話が聞こえたので、ララキはちょっと眩暈を感じた。

 たしかにガエムトはいないようだ。


 ともかくシッカとスニエリタのことを彼らに嘆願しなければ。

 と、さきほどから思ってはいるものの、あたりが騒がしすぎてララキの声は誰にも届かなさそうだ。


 それにまさかこの全員が納得してくれなければ願いが叶わないなんてことはないだろうな、と少し不安にもなってきた。


 しかしここまで来たのだ。

 やるべきことはやらなければと、ララキは口を開く。──だが。


『あー、静粛に!』


 ララキより先に誰かがひときわ大きな声を上げた。

 途端に全員がしんと静まり返る。


 よく見ると、切り株を取り囲む集団から少し離れたところに、恐らく盟主たちと思われる神々が並んでいる。


 ララキから見て左から、カーシャ・カーイ、ルーディーン、そして恐らくガエムトの代理であろうフォレンケ。

 その隣にいる大きな魚の神はたぶんペル・ヴィーラだろう。

 そして南部のヒヒの神ドドと、これまた南部でシッカの代理を務めているらしいヴニェク・スー。


 神々の中でも有力な存在だけあり、彼らの纏う威圧感は、切り株の周りの有象無象とは天地ほどの差がある。

 そうした神々が一堂に会しているのだからこれまた壮観だ。


『これよりヌダ・アフラムシカの解放を行う。


 えー、諸君らも知ってのとおり、本来ならこれは、しかるべき贖罪を以て実施されるべきことであった。

 が、彼の消耗衰弱が我々の想定を越えており、"罰"の効果はすでに充分であったと判断された。


 未だ納得できぬ同胞もいるだろう。だが、クシエリスルという我らの悲願を恒久のものとするためにも、ここは堪えてほしい。

 そして繰り返すが、罰は充分であったのだ。

 これ以上彼を苦しめることは世に正しいとは言えないだろう。


 本日この刻を以て、我々七柱の盟主の名のもとに、アフラムシカの罪は赦された!』


 ドドはよく通る声でそう演説し、そして、ララキを見た。


『旧き民の少女ララキよ。ようこそアンハナケウへ、よくぞ参った。

 ここは幸福の国。汝には永遠の僥倖と安らぎを与えよう』


 そこまで言って、ドドはその長い両腕をばっと広げた。


 神々から拍手が巻き起こる。毛深い獣の手で行われる拍手は、人間のそれとは違い、ばたばたという鈍い音に時折爪をぶつける音が混じるものだった。

 また一部の感極まった神が高らかに咆えもした。


 なんて賑やかなんだろう。ララキが呆気にとられていると、勝手にララキの手が持ち上がる。


 誰かが何かしたようすはない。

 だが、手袋をしたララキの手のひらから淡い橙色の光が漏れており、ララキの意志を無視して両手が前へと突き出された。

 手のひらは揃えた状態で、前方へ向けられている。


 そしてそこから、ララキもよく知る紋章が滲むように現れた。


 シッカを呼び出すときに使う紋章だ。

 紋章は紅く輝くと、そこからあふれ出した虹色の光の中に、ライオンの姿が見えた。


 果たして彼がアンハナケウの地を踏むのは何年振りのことだろうか。


 紅蓮の身体を持つ神は、ゆらりと現れ、そしてそのまま地に崩れ落ちる。


 ララキはしばらく呼んでいなかったが、その間にも衰弱し続けていたらしい。もう立っていることもできないらしい彼の姿に、ララキは堪らず立ち上がった。


 だが、駆け寄ろうとするララキを近くにいたトカゲの神が制した。

 南部の神のヤッティゴだ。


「シッカ……」

『見てなよ、枷を外すところを』


 シッカに歩み寄ったドドが、倒れ伏す彼に向けて手のひらを翳す。


 するとシッカの身体の表面に鎖が浮かび上がり、そしてドドがその手を振ったところで、鎖はばらばらになって外れた。

 そして地面に吸い込まれるようにしてすっと消えてしまった。


 ドドはそのままシッカに手を差し伸べ、彼を立ち上がらせる。


『久しぶりだな、アフラムシカよ。……おめぇさんとは永いことやりあってきたが、いざいなくなっちまうと、どうも己は張り合いがなかったぜ』

『……ああ、そのようだな、ドド』


 シッカは頷き、返事をした。


 それを見ているだけでララキは頭がどうにかなってしまいそうだった。


 シッカの声だ。

 もう何年も聞いていなかった、夢にまで見たシッカの喋る姿。


 もう矢も盾も堪らなくなってララキは駆け寄った。


 ヤッティゴやその他の神が制止しようとするのも振り切り、シッカのもとへ。


「シッカ! シッカ!!」


 思い切りその首筋に抱きつく。

 まだ身体がふらついているらしいシッカはよろめきながらも、なんとか踏ん張ってララキの突進を受け止めてくれた。


 大事な鬣をララキは涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしてしまったが、それを気になどとめていられない。


 このために旅をしてきたのだ。

 ララキの人生のすべては今、報われたのだ。


 きっとこの瞬間のために生きてきたのだと、心からそう思った。


『ララキ……』

「シッカぁぁ……っ会いたかった、またお喋りしたかったよ……! よかったっ……ほんとに、よかったぁッ……!」

『……苦労をかけたな。すまなかった』

「ううん、ごめんね、あたしのせいで今まで、辛かったよね……ッ、うぅぅ~」


 泣きじゃくるララキを宥めながら、シッカはぐるりとあたりを見回す。


 ララキはそれどころでないので気づいていなかったが、このとき周囲の神々は、それぞれララキを鋭い眼差しで見つめていたのだ。


 本来の目的であるヌダ・アフラムシカを復帰させることはこれで完了した。

 そうなれば、彼をここに連れてくるために呼んだ"呪われた民"は、クシエリスルの神からすればもはや存在させる必要がない。


 もっとも近くにいたドドもまた、冷たい眼でララキを見下ろしていた。

 この神がほんの少し手を動かせば簡単にララキを殺すことができる。


 シッカはそれを牽制していた。弱っているとはいえ、神としての格はシッカのほうが上だった。

 枷を外された今、いくらドドでもそう易々とシッカを無視して凶行に走ることはできない。


『誰もこの娘に手出しをしてはならない』


 静かな声で、シッカはそう告げた。そこでララキも状況の変化に気づいて顔を上げる。

 周りの神々がこぞって自分を睨んでいるのを見て、ララキは背筋がぞっとした。


 もしかするとシッカしか味方がいないのだろうか。

 シッカがどんなに立派な神でも、その他の全員を黙らせるのはさすがに容易ではないだろう。


 さすがに恐ろしくなってシッカに抱きつく腕に力が入る。


 ああ、でも、シッカがまたみんなの敵に回るようでは意味がない。

 必要ならララキはこの身を差し出さなくては。


 覚悟はしていたつもりだったが、いざ殺されるのかと思うと歯ががちがち鳴った。


 ララキを見据えるあの獣の牙で噛み殺されるのか。

 それともあの爪で引き裂かれるのか。

 あるいはあの角で貫かれるのか。

 もしかしたらあの尾で絞め殺されるのかもしれないし、あの脚で踏み砕かれるのかもしれない。


 恐ろしい想像がララキの脳裏を駆け巡り、血の気がさあっと失せる。


 すると対峙する二柱の神のもとへ、ゆっくりと歩み寄ってきた女神がいた。

 その姿は純白のヒツジ──初めてララキと対話をしてくれた、あのルーディーンだった。


『ララキを、あなたの信徒として受け入れる案があります、ヌダ・アフラムシカ。あなたがそれを認めたならば、我々も彼女を害する必要はなくなります』

『……それは……』

『なんだ、何か不都合でもあるのか? アフラムシカよ』


 ルーディーンの隣に進み出たカーシャ・カーイが、どこか嘲笑うような口調で言った。

 女神は少し困ったような仕草でカーイを見やったが、オオカミの神はそれを少しも気にせず、さらに続けた。


『もしかしてその都合っつーのは、おまえがその娘を庇う理由とも関係があるんじゃねえのか……?』


 ララキには、その意味がわからなかった。

 そしてたぶん他の神にも。


 ただシッカだけはじっとオオカミを睨み返しながら、ぎり、と歯を食いしばっているようだった。


 図星なんだとララキにもわかった。

 どういうことかはわからないけれど、シッカにとってはララキが彼の信徒にならないほうがいいのだ。


 どうすればいいのだろう。

 シッカにとって都合の悪い選択はララキもしたくはないし、かといって死なずに済むのなら、そのほうがありがたいに決まっている。

 シッカに限定せずともクシエリスルの神々のうちの誰かを信仰すればそれでいいのなら、それでシッカも困らないのなら喜んでそうするのだけれど。


 とりあえずそれを伝えてみようと、ララキはシッカの耳元で囁こうとした、そのときだった。


「ねえシッカ、あたし──ッ!?」


 地面が揺れた。


 いや、地面だけでなく、天も、轟音とともに歪んだ。


 何が起きたのかわからなかった。

 ララキだけでなく周りの神々のすべても慌てふためきながらあたりを見回し、そして気づけば全員の視線が、空へと注がれていた。


 異常な光景だった。


 そこには、巨大な紋章が浮かんでいた。


 雲ひとつない真っ青な空を、真っ白な線で描かれた紋章が埋め尽くしている。


 複数の紋章を組み合わせたもののようだが、何をどう表したものなのかはわからない。

 まず全体を見渡すことすら困難な大きさであるし、構成している紋章のひとつひとつがかなり複雑で、それが数え切れないほど無数にあるのだ。


 何柱かの神が、大紋章、と言ったのが聞こえた。


 恐らくクシエリスルの神々にとっては重要な意味を持つものなのだろう、その声には恐怖に近い感情が滲んでいた。

 でもなぜ突然そんなものが空に浮かんだのだろう。さっきまではこんなものはなかった。


 がちん、と硬いものを擦り合わせたような不愉快な音がして、空に浮かぶ紋章のひとつが動いた。

 がちん、さらに隣の紋章も動いた。

 がちん、がちん、がちん、がちん、とその音が続いていく。


 神々から悲鳴が上がる。怒号に近いものもある。


 そして、ララキは急に、身体がかあっと熱くなるのを感じた。

 熱い……そしてなんだか、痛い。


 お腹の奥が冷たい手でぎゅうっと絞られるような、そんな異様な痛みだった。


 思わず痛むところを押さえてうずくまる。

 熱いのに、同時に寒気も襲ってきて、身体ががくがく震えて止まらない。

 全身から脂汗がどっと噴出し、耳鳴りがする。


 意識が、遠のいていく。


『──やめろ!』


 シッカが叫んだ。誰に向かってそう言ったのだろう。

 もうよく見えないけれど、シッカが吠え立てる先に誰かが立っている。


 闇のようなどろどろの漆黒の光を纏ったその影は、ララキのかすんでぼやけた眼には、ヒトのような形に見えた。





 ……。

 ララキの物語は、これでおしまい。


 そんな名前の呪われた民の少女は、これきり世界から姿を消した。

 そして彼女のことを知る人間ももうこの世のどこにもいない。


 世界は新しく生まれ変わり、これよりこの大陸は、人間の姿をした神を絶対唯一の信仰の対象として崇めていくのです。


 え? そんなのおかしいって?

 あれだけたくさんいた獣の神々はどこに消えたのかって?


 そんなこと、どうでもいいじゃないか。このほうが平和ってものだろう。

 神がいくら大勢いたって、人間は幸せになどなれないのだからね。


 とにかくそういうことなので、汝も今日からを祀りたまえ!


 礼拝方法は一日三度、祝詞を捧げること。

 とくに二度は私の像の前に跪礼するのが好ましい。


 祝詞は以下のとおりなので必ず一言一句違えず覚えるように。


『偉大なる全知全能の神クシエリスル、あなたの慈悲と恵みに感謝致します』


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