138 彷徨える魂の運び屋
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その人はいつの間にかそこにいた。
湖のほとりでぼーっと座っていたララキの隣に腰掛けて、寒いですねえ、と呟いていた。
まっすぐ切りそろえられた前髪は赤に近い明るい茶髪で、歳は二十歳前くらいに見える。
あとはこれといった特徴もないふつうの人だ。だが、このハーシ連邦の辺境の地においては外国人というだけで充分に珍しい。観光客だろうか。
もしかして話しかけられたのかなと思ったララキは、たしかに、と適当に無難な言葉を返した。
これからアンハナケウに行こうとしているのだ。こっちは緊張の糸が張り詰めていつでもぷっつんしそうなので、あまり呑気に知らない人とお喋りを楽しむ余裕はない。
湖はしんと静まり返っている。
銀色の空を映しているから、そこにたまに鳥の影が泳ぐ。
隣の人はララキの返事に気をよくしたのか、勝手にひとりでぺらぺらと話し始めた。
「こう寒くちゃ敵わないや。寒い国ってのは嫌ですねえ、オレだって来たくて来たんじゃないんですよ、上司に言われて仕方なく」
「はあ、それはお気の毒」
「知ってます? このオレヴィキ湖群やティレツィ湖って、地下水脈でペル河と繋がってるんですよ」
「えっと、……マヌルドから、イキエスとワクサレアの国境あたりに流れてる河だっけ?」
「概ね当たり。でも支流がたくさんあるんでそれだけじゃないんだなあ。イキエス側にも流れてるし、ワクサレアを横断してヴレンデールまで届いてる部分もあります。ま、南の端っこのほうだけですけど」
なんか妙に河に詳しい人だな、とララキは思った。治水関係の仕事をしている人なんだろうか。
しかしなぜそんな話を見ず知らずのララキに向かってしているのだろう。
正直言ってララキは河にはまったく興味はないし、そのぶん知識もないので、この人の話も半分くらいしか理解できていない気がする。
話し相手がこんなんでもいいんだろうか、この人。
ララキの心配も空しく、その人はちっとも気にしたふうもなく話を続ける。
「地図上ではハーシの南東部に水源があるだけで、西ハーシにペル河は流れてません。
でも地中では網の目のようになってペルの水はこんなところまで届いている。だから、ペル河の生物がこの湖に辿り着くことも、絶対に不可能とは言い切れないわけです」
その人は手のひらでそっと湖の水を掬った。
透明な水が指の間から流れ落ち、ぴちゃぴちゃ音と立てながら湖へと戻っていく。
「……でもそれけっこうな距離あるよね?」
「ええ、まあ。それに網の目って言いましたけど、場所によってはこの小指より細いところもありますし、実際には迷路のごとく複雑怪奇に入り乱れている。あれを迷わずにここまで来られる生きものはいませんねえ」
さっき不可能とは言い切れないとか言ってなかったか、この人。五秒で矛盾したぞ。
それに妙な言いかたをする。上手く言えないのだが、なんというのか……地下水脈っていうものは実際に眼で見られるものではないはずだ。
調査とかをしてちょっとずつその存在を確かめて、それを積み重ねていって理論上にその姿を想像するのがせいぜいなのではないか、たぶん。よく知らないけれども。
それをこの人は、まるで直接見てきたかのように言った。
あれ、という親しみ深そうな声音でもって。
なんか変だなと思ったララキは、ひとつ尋ねてみることにした。
「お兄さん、マヌルドかワクサレアの人? どうやってここまで来たの?」
彼はちらりとララキを見て、笑む。その手に手袋は着けていない。
寒いと言いながら、よくよく考えたらこの人は、ろくに外套も着ずに丈の長いシャツとベストのみの軽装だ。
まともな神経をしていたらそんな恰好で出歩けない。今は秋、イキエスならまだしも、ここは木枯らしの吹き荒ぶハーシなのだ。
「もちろんその、地下水脈を通って来たんですよ。ここよりずっと温かいマヌルド南部から」
「……あなた、人間じゃないんだね」
「ええ。神名はティルゼンカークといいます。もちろんこれは仮の姿ですけど、オレもいっぺん呪われた民と話をしてみたくてね。
それにほんとうなら夜に間に合えばいいものを、ちょっと手違いがあって、こうして真昼間から顔を出す羽目になっちまった」
「手違い?」
「ここに来ちゃあいけない人間が向かってるんですよ」
そう言ってティルゼンカークが微笑むと、ララキの視界がくらりと揺れた。
あれ、なんだこれ、と困惑しているうちに揺れが治まる。
しかしすでに異変が起きたあとだった。さっきまでオレヴィキ湖のほとりにいたはずなのに、今は湖の真ん中に浮かぶ直径二メートルほどの小島に座り込んでいる状態だった。
ボートなどもなければ移動系の遣獣も持たないララキには、水に落ちずにここを離れる手段がない。
そのうえこの寒さでは泳ぐのは自殺行為だ。
つまり、やんわり閉じ込められたに近い状況だった。
ティルゼンカークとやらは何がしたくてこんなことをするんだ、とララキは腹立たしく思いながらさっきまで自分がいたあたりを振り返る。
そこに人間の姿はない。あるのは赤茶色をした毛皮の、胴が長いイタチに似た獣の姿だ。
泳いで来たっていうからラッコかカワウソかな、などとララキが思っていると、そこへ駆けて来る人影があった。
銀色の髪に長い外套姿の、あまりにもよく知る人の姿。
「ミルン!?」
間違いない。ミルンは息を切らしながらこちらへと向かっている。
どうしてミルンが起きているのだろう。というかいつ目覚めたのだろう。
それに、それなら、スニエリタはどうなったのだろう。
とてもじゃないがミルンが進んでスニエリタからキノコを受け取るとは思えない状況だったはずだけれど。
それにさっきティルゼンカークが言っていた言葉。──ここに来ちゃあいけない人間が……。
「ララキ! ここに、今夜、アンハナケウからの迎えが来るっていうのはほんとうか!?」
「えっ……なんで知ってるの?」
「ミーから聞いた! ところでおまえ、なんでそんなとこにいるんだよ」
「それは──」
ララキが答えるのを遮るように、ミルンが吹き飛んだ。
あまりに突然のことで何が起きたのかさっぱりわからなかったが、ララキ以上にミルンが驚いている。
数メートル後ろに転がる程度で済んだものの、その先には別の小さな湖などもあるわけで、一歩間違えば落水しかねない危険な状況だ。
辺りを見回しながら起き上がるミルンの前に、一匹の獣、いや、ひと柱の神が立ちはだかる。
『ミルン・スロヴィリーク、汝にアンハナケウ
神は冷たく言い放った。
彼の周りに水が球状になったものが、アーチのような形で浮かんでいる。
「カワウソの神……マヌルドのティルゼンカークか。
どういうことだよ。アルヴェムハルトとラグランネの試験なら、こうして俺だって突破してきた。それじゃあまだ何か足りないってんなら教えてくれ」
『誤解するんじゃない。もう少し噛み砕いて言うとだなぁ、きみには許可が下りないんですよ。
というか本来ならどんな人間もお断りなんだけど、彼女だけはヌダ・アフラムシカのことがあるんで仕方なく……まあ、ほら、なんとなくわかるでしょ? 要はそういうことなんです』
「……どういうことだよ! ぜんぜんわかんねぇよ!」
苛立っているのか噛みつくように返すミルンに、ティルゼンカークはやれやれと肩を竦める。
ララキにも彼の言うことがよくわからなかった。
理解できないという意味ではなく、理解したくないという意味でだけれど。
どんな人間もお断りなんて言うなら、シッカのことがあるだけで特別にララキを許したなら、今までララキたちが受けてきた数々の試験は何だったんだ。何の意味があったというのだ。
ミルンはあの結界を出てきた。
そこで何があったのかはわからないが、どんな事情にせよスニエリタを犠牲にしたのは間違いない。
たぶんミルンの怒りの源泉はそこだ、とララキにはわかった。
彼はきっと不本意な形で目覚めたのだ。
スニエリタに押し切られたか、あるいはどうにか彼を外に出したかったスニエリタが何らかの手を打ったかしたのだろうが、たぶんどんな方法でも、それはミルンの心をずたずたに傷つけたはずだ。
だって彼は、ずっと彼女のことが好きだったのだから。
旅の間じゅう彼女を護るような立場にいたのだから。
そうまでして現実に返ってきたミルンはもう、アンハナケウに行くことでしか報われない。
本来の目的を果たすのは当然として、なんとかしてスニエリタをあそこから救い出さないことには、彼自身が彼を永遠に許せなくなってしまう。
でも、そんなこちらの事情を、異国の神は汲んでなどくれないのだ。
『クシエリスルにもいろんな神がいる。全員が納得できる理由を持たない者には道はなく、また、そんな理由は人の身に用意できるものではないんですよ。
それこそ地下水脈を越えるくらいに困難なんだなあ。
ついでに言うとオレが今ここにいるのは、こうしてきみを説得して家に帰らせる役も兼ねてんですよ。
どうしても抵抗するなら多少痛めつけてもいいとは言われましたけど、
「断る!」
「あたしからもお願い! ミルンだってアンハナケウに行かなきゃいけない大事な理由があるんだよ!
それでずっと一緒に旅をしてきたのに、ここでお別れなんてそんなのひどい!」
ミルンがいなかったら、ララキはいつどこで死んでいてもおかしくはない。
誰がどう考えてもララキの旅における最大の功労者であり貢献者であるのは彼だろう。
納得できない神がいるというなら行って説得すればいい。端から拒むなんてひどすぎる。
それともこんな考えは甘いのだろうか。
ちっぽけな人間の二ヶ月ちょっとの旅なんて、神からすれば欠伸ほどの短い時間に過ぎないのだろうか。
それならどうしてアンハナケウのことを『幸福の国』なんて名づけたんだ。
誰も幸せにしてくれない理想郷なんて、それなら初めから存在していないほうがマシだった。
『……やっぱり説得なんて無理じゃないすか。ほんと損な役回りだ』
ティルゼンカークは人間たちの叫びに答えるでもなく、ぼそりとそうひとりごちて、それから尾で地面を一度叩いた。
すると頭上の水の球がひとつ飛んでミルンに叩きこまれる。
手のひらほどの小さな球が当たっただけなのに、ミルンは大袈裟に思えるくらいの勢いで吹き飛ばされ、湖のほとりにある茂みに突っ込んだ。
そしてミルンが立ち上がろうとすると、それを許さないとでもいうように第二波が飛ぶ。
ミルンは諦めずに茂みを這い出る。
だが水の球は絶えずティルゼンの周りに創られ続け、ミルンが少しでも動くたびに彼の全身を狙撃した。
這い蹲ったまま攻撃を受け続けるミルンをララキは小島から見ているしかできない。
「ミルン! ……やめて、ティルゼンカーク! もうやめてよ! どうしてこんなことするの!?」
『オレたちクシエリスルの神はね、オレたちなりに、人間の領域ってのを守らなきゃあいけないんですよ。"原則"ってのはそのためにあるもんなんです。
……おや、やっと大人しくなってくれた』
「えっ、あ、ミルン……!」
『気絶してるだけですよ。大した怪我もさせてないし、そのうち眼を醒ますでしょ』
茂みからわずか数メートルもいかないところで、ミルンは完全に動かなくなっていた。
死んでしまったかとすら思ったが、ティルゼンカークはこともなげにそう言って、彼にくるりと背を向ける。
そして湖にひょいと飛び込み、そのままララキのいる小島まで泳いできた。
『やれやれ、どうにか月の出に間に合ったか。じゃあ行きましょう』
「ちょ、ちょっと待ってまだ日も暮れてないよ! それに気絶させたミルンを放っておくの!?」
『彼のことはカーイがよしなに計らってくれますって。
今日の月の出は午後十五時三十八分、ちょうどこれからです。べつに日没を待つ必要はありませんよ……ちょっと伝達に手違いがあるとか、まあよくある話じゃないですか』
ティルゼンカークはからからと笑って言った。
冗談じゃない。どうにかしてミルンを連れて行けないかと、ララキは立ち上がろうとした。
だが、そこで小島が揺れた。
立ってると危ないですよ、というカワウソの声がしたが、危ないどころの騒ぎではなかった。
小島の周りの湖水が噴水のように膨れ上がって噴出し、視界のすべてを多い尽くす。
水で小島ごとララキを包んだのだ。
もう外がどうなっているかは見えないし、震動がひどくてまともに身動きもとれない。
眼を開けているのすら難しい。
とてもじゃないがここを抜け出してミルンを引っ張り込むなんて芸当はできそうにない。
ララキは這い蹲るような体勢のまま、心の中でミルンに謝った。
──ごめんなさい、さんざん助けてもらっておいて、あたしだけ行くなんて。
せめてミルンの願いは代わりにララキがアンハナケウの神々に伝えなければ。
もうそれくらいしか、ミルンに対してしてあげられるようなことがない。
しばらくして急に水が引いた。
激しい揺れも嘘のように治まり、ララキはゆっくり顔を上げる。
あまりにもあっけない、旅の終わりがそこにあった。
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