135 アレクトリア
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アレクトリアは台所の掃除をしていた。
一心不乱に何かを磨いたり拭いたりしていると、少しは気が紛れるからだ。
今はできるだけ何も考えずに手だけを動かしていたかった。
お陰で家の中はどんどんきれいになっていく。それなのに、アレクトリアの心は晴れない。
クロスを洗濯してテーブルを隅々まで拭ったあと、今度は陶製の水差しを磨いていると、急に家のどこかが騒がしくなった。
最初に聞こえたのは壁を殴るような激しい音で、続いて獣のような荒々しい足音。
ものが落ちるような音もした。
誰かが扉を勢いよく開いて、そのまま廊下をすごい勢いで走っている。
そう理解した瞬間アレクトリアの手から水差しが滑り落ちた。
粉々に割れて、床板にも傷がついてしまったけれど、そんなことはどうだっていい。
ヴィトレイはもう仕事に出かけた。ロディルは廊下を走ったりしない。
だから、あの足音は、ミルン以外にありえない。
アレクトリアは水差しの破片をそのままに廊下へ飛び出した。
ちょうどロディルが部屋から顔を出したところで、顔を見合わせるような恰好になった。
ふたりの間にはミルンがぶつかったのか、壁掛けの一輪挿しや絵葉書を入れた額縁が、床の上に無造作に転がっている。
それ以外にも消えかけたキノコの破片が点々と散らばっている。
廊下の突き当たりにあるお客さん用の寝室まで、まるでミルンの行き先を示すように。
ふたりは落ちたものを拾いながらそれを辿った。
もっとも、そんなものがなくてもわかったと思う。その客室はスニエリタに使わせていた部屋だから。
「……なんでだよ!」
部屋の前に着いたところで、耳に飛び込んできたのはそんな言葉だった。ひりつくような痛々しいミルンの声。
「なんで……こんな……、俺ッ……俺は……!」
客室を覗いたアレクトリアたちが見たものは、眠るスニエリタに縋りつくようにして、ぼろぼろと涙を零しながら叫ぶミルンの姿だった。
泣きながら彼女の身体を覆う苔を引き千切っては、やり場のない感情を投げ捨てるようにして床に放っている。
駆け寄ろうとしたアレクトリアを、ロディルの手が制した。
アレクトリアが振り向くと、ロディルは何も言わずに首を振って、そのままアレクトリアの肩を抱いた。
今はミルンに近寄るなと言いたいらしい。
一体夢の中でスニエリタと何があったのか、どうしてミルンだけが先に目を醒ましたのか、聞きたいことは山ほどあるけれど、アレクトリアは我慢した。
聞くに堪えないような兄の痛切な悲鳴に、つられてこちらまで泣きそうになりながら。
今のミルンは冷静ではない。まともに説明などできる状態ではないのは、アレクトリアにだってわかる。
彼がこんなに我を忘れて荒れ狂っているところなんて、初めて見たかもしれない。
数分後、ようやくミルンは落ち着きを取り戻したようだったので、アレクトリアは洗面所から持ってきた手拭いを渡した。ぬるま湯を入れたバケツも用意してある。
まだミルンの身体のあちこちにキノコや苔の名残が泥のように残っているので、ついでにそっちも拭いてあげるのだ。
着替えを持ってきてくれたロディルに、ミルンがやっとこちらに向かって口を開いた──ララキはどこだ。
「彼女は三日前に眼を醒まして、その次の日に出て行ったよ」
「行き先は?」
「カーイ社に行くように指示した。でもその先は、カーシャ・カーイのみぞ知る、だ」
「追う手段はある。……リェーチカ、なんか食えるもん持ってきてくれ。できるだけ保存が利くようなやつだ」
「うん……」
頷いて、台所へ行く。
たぶんそうなるだろうとは思ったけれど、やっぱりミルンはまた旅に出てしまうらしい。
せっかく眼を醒ましたのに、まだモロストボリに帰ってきてからひと月も経っていないのに、また遠くへ行ってしまう。
いつ戻るかわからない、果てしのない旅路に。
こんなことならロディルを連れ戻してなんて頼まなければよかった。
それとも、ロディルのことがなくてもミルンは旅に出る運命だったのだろうか。
主神であるカーシャ・カーイが旅人の神でもあるから?
よくわからない。ミルンが何のためにそんなことをしているのか。
この家に帰ってきたときだって、空から降ってくるという異常な形で、しかもみんな大なり小なり怪我をしていた。楽な旅ではないのはそれだけでよくわかる。
アンハナケウを目指しているとかララキは言っていたが、でもそれはおとぎ話に出てくる幸福の国のことで、ほんとうはそんなものどこにもあるはずがない。
田舎育ちで世間知らずを自認しているアレクトリアでも、幸福の国を信じていたのは片手で数えられる歳のころまでだ。
何でも願いが叶う、そんな素敵な場所が実在するのなら、とっくに誰かがその場所を見つけているはず。
誰も辿りついたことがない。それはつまり、そんな場所は存在しないという意味ではなかったのか。
でも、ミルンはそれを信じている。
そして実際、飲まず食わずで二週間も眠り続け、その間に身体からキノコや苔が生えるなんていう、常識では計れない事態にもなった。
ひいてはミルンやララキが語ってくれた夢みたいな不思議な体験談も、すべて実際に起きたことだったのだ。
なら、アンハナケウもどこかに存在するのだろうか。
ミルンはそこで何を手に入れようとしているのだろうか。
もしアレクトリアも紋唱術を習っていたら、一緒にその旅に連れて行ってくれただろうか……。
「リェーチカ、俺が出てる間、スニエリタのこと頼むな」
弁当と保存食の包みを受け取って、いつものようにアレクトリアの頭を撫でながら、ミルンはそう言った。
まるで二、三日で戻ってくるみたいな口調だった。
たぶんミルンはそうやって軽い調子で話すことで、アレクトリアにあまり心配をさせないようにしているつもりなのだろう。
頭を撫でるのだってそうだ。ミルンの中で、アレクトリアはずっと小さな子どもの扱いを受けている。
「……ミルシュコ」
「なんだ?」
「できるだけ、……早く、帰ってきてね」
「ああ、俺もそう思ってる」
泣きそうになるし、ほんとうは引き止めたかったけれど、ぐっと堪えて見送った。
ここで泣いて縋ったら、それこそ子どもみたいだから。
結局ミルンはアレクトリアにもロディルにもろくに事情を説明しないで出て行ってしまった。
ヴィトレイに至っては顔すら見ていない。眼を醒ましてから一時間経ったか経たないか、それくらいの早さだった。
どうしてそんなに急いでいたのか、それすらもわからないまま。
アレクトリアは取り残されたような気持ちで、台所に戻る。割った水差しをまだ片付けていないのだ。
破片を拾って箒で掃いているとロディルが入ってきた。
お茶を入れようか、と兄は言う。
アレクトリアは頷いて、りんごが入っているやつがいい、と茶葉の種類まで指定した。
アレクトリアが片付けをしている間に、ロディルはお茶の準備をしてくれた。三人の兄の中でそういうことをしてくれるのはロディルだけだ。
始末を終えてテーブルに着く。
湯気を立てるお気に入りのカップから、アレクトリアを慰めるような甘い香りがした。
このテーブルで兄妹四人でお茶を飲んだのが、まるで遠い昔のことのように思えた。
「ねえジーニャ。ミルシュコ、どれくらいで戻ってくると思う?」
一口飲んで喉を潤してから、向かいに座る次兄に尋ねる。
兄妹の中でいちばん状況を理解しているのは彼だと思ったからだ。
アレクトリアやヴィトレイは紋唱術のことなどちっともわからないし、神のことなどなおさらだった。
ロディルはカップを置いて、僕にもわからないよ、と静かに答えた。
「無事にララキに追いつけたなら、それがいちばん早く帰ってこられる方法だろうね。そうでなければ、……」
「もう二度と帰ってこない?」
「そうは言ってないけど、……まあ、限りなく遅くはなるだろうね」
「それってミルシュコが途中で諦めるってことでしょ? それじゃあ、ずーっと帰ってこないよ……」
ミルンの性格ならよく知っている。
それはロディルだってそのはずだ。だからアレクトリアにそれ以上反論してこないのだ。
「スニエリタちゃんも、それまでずっと眠ってるのかな」
「そうだね。そっちはララキがどうにかしてくれる可能性も残ってるけど」
「……ミルシュコはスニエリタちゃんのことが好きなんだよ。絶対そう。だからきっと、自分でスニエリタちゃんを助けたいって思ってるんだ」
それだけはアレクトリアにもよくわかった。
目覚めた直後のミルンの悲嘆ぶりは尋常ではなかったし、彼があんなふうに女の子の身体に縋りつくこと自体、今までなら想像もできなかった。
それだけ彼女に心を許しているということに他ならない。
今まで、そんな女の子はいなかった。
少なくともアレクトリアの知る限り、ミルンはたとえ誰かから好意を寄せられていても気づきさえしない、よく言えば硬派で真面目な男なのだ。
あまりに鈍くて乙女心に無知なので、アレクトリアは心配になって、いちばんよく知っているミルンの遣獣のクマさんに、女性関係に注意するようお願いしてしまったくらいだ。
スニエリタは見るからに育ちがよくて、美人で優しい。
我が兄ながらいい人を見つけたなと思う。同時に、そんなに好きな人と出逢えたのに、どうしてこんなことになってしまったのかと、可哀想にも思う。
たぶん急いで旅に出たのも、スニエリタのことがあったからなのだろう。
それが薄々わかったから引き止めなかった。
わかったけれど、それでもやっぱり、残されるほうは寂しい。
あんなに我慢していたのに、アレクトリアの視界はぐにゃりと歪む。
それを見たロディルが困ったように笑んだ。
ロディルだってまた旅に出るつもりのくせに。
知っている。荷物をぜんぜん解いていないどころか、台所から使っていない瓶や調理具を拝借していることも、長期保存できる常備菜を夜中にこっそり作っていることも。
あえて咎めないだけで、ぜんぶ知っている。
そしてこちらが知っていることを、ロディルのほうでも気づいているに違いない。
みんなアレクトリアを置いてどこかに行ってしまう。
待っているだけのこっちの気も知らないで。
ヴィトレイだけはずっとこの家に帰ってくるけれど、彼は毎日忙しく働いているから、家にいる時間はとても短い。
アレクトリアも紋唱術を習えばよかった。
ロディルはいくら頼んでも教えてくれなかったけれど、もっと強くお願いし続けるべきだった。
そうしたら無理やりにでもついていったのに。
ああでも、結局きっと同じだ。
そうしたところでロディルもミルンも、頭を撫でながらこう言うに違いない。
──リェーチカ、トーリィを頼むよ、と。
そしてたぶんアレクトリアも、長兄を置いて出ていくなんてできないのだろう。
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