134 幸せな悪夢の終わり

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 ここに閉じ込められてからどれくらいの時間が経つのだろうか。


 何もすることがない。

 腹が減らないから食糧の調達も必要がないし、眠くならないから寝ない。

 あまりに暇なので寝転がってぼうっとすることはあるが、目を閉じても眠ることができないのが、これほど不気味な感覚だとは知らなかった。


 ララキはこんな環境で何年も過ごしたのかと思うとぞっとする。

 よく正気を保っていられたものだ、ミルンなど今にも気が狂いそうだと感じているのに。


 幸か不幸か、隣にはいつもスニエリタがいる。


 他に誰もいない、外にも出られない、この究極的に異常な環境にあって、すぐ傍に好意を寄せる相手がいるというのは精神衛生上とてもよろしくないことだった。

 むろん、だからといって邪な気持ちに支配されるわけではない。そこまでミルンは堕落してはいない。


 ただ、こんな状況だからこそ、いっそう彼女に近づくことを躊躇った。


 好きだと思うから、不用意なことをして傷つけたくない。

 もはや唯一無二の隣人となってしまった彼女から、もし嫌われたり拒まれることがあれば、あとに待つのは絶対的な孤独だけだ。


 だから思わず離れる。

 それでもここにはふたりしかいなくて、自然と寄り添いあおうとしてしまう。


 ふたりの間には、だからいつも妙な距離感がある。


 離れがたいのに、近寄りがたい。


 たまにぽつぽつ話をしていても、ミルンは途中でふらりと立ち上がり、彼女を置いてその辺りをうろうろ歩き回ることが多くなった。


 スニエリタのことを考えまいとして、外のことに思いを巡らせると、今度は妹のことを考えて苦しくなる。

 アレクトリアはどうしているだろうか。もしもう外で何年も経っていたらどうしよう、結局ミルンは妹のために何もできないまま人生を終えてしまうことになる。


 兄たちのことも考える。ロディルは野望を果たせただろうか。ヴィトレイは苦労のあまり病気をしてやしないか。

 父は、母は、首都で元気にやっているだろうか。ミルンが帰らなくなったことを知っただろうか。そのことで悲しんだり苦しんだりしていないだろうか。


 そして、ララキのことも考える。彼女の旅はどうなっただろう。


 ミルンがいなくても、ちゃんとひとりで旅を続けていけるのだろうか。

 きちんと行き先のことや交通手段を調べて、無駄な金や行程を省き、安定した旅の計画を練れているだろうか。

 ……いやそれは無理だろうな、彼女はそういう性格をしていないから。


 心配するなと言うほうが無理がある。

 彼女はスニエリタとは別次元で危なっかしくて涙もろい。


 さすがに面と向かって言うのは気恥ずかしいが、もちろんミルンだって、きちんとララキのことを、旅の相棒だと思っていたのだから。


 そして、そのことを最近なぜか、スニエリタによく追求される。

 いや、もともとミルンとスニエリタの共通の話題が他になかっただけかもしれない。

 折に触れてはララキのことを思い出し、今ごろどこで何をしているだろうか、という話をするだけだ。


 そのたびに、スニエリタが聞いてくる。

 ──ララキさんのことが気になりますか? 心配ですか?


 ミルンはそれらの問いに、静かに頷く。事実なんだから否定しても仕方がない。


 ここを飛び出してララキを追いかけたいという気持ちがないわけではない。

 自分自身の旅があまりにも中途半端なところで終わってしまったから。

 恐らくララキがアンハナケウに着いたら、多少なりとこちらのことも気を遣ってくれるだろうとは思っているが、できるなら自分の手でかたをつけたかった。


 でも、それでもここに残る選択をしたのもミルン自身の意思だ。そこに後悔はない。


 アレクトリアのことはララキに委ねる。

 あるいは、ロディルが彼の旅を終わらせたときに、マヌルド帰りの才子として水ハーシを盛り立ててくれることを祈っている。


 しかし自分のことは諦めがついても、スニエリタのことになれば話は別だ。

 どうにかして彼女をここから出してやりたいが、肝心のキノコはスニエリタ本人が所持していて、しかも食べる気配はない。

 何度も言ったがこればかりは聞く耳を持たなかった。


 いつの間にそんなに意志が強くなったのかと驚くくらいだった。

 出逢ったばかりのころの気弱な彼女なら、ミルンが強く言えばきっと素直にキノコを食べただろうに。


 スニエリタは、ミルンが出て行くべきだという。

 その理由も自分自身のことだからよくわかる。


 スニエリタを連れて出られるのなら今すぐそうするところだが、出られるのがひとりである以上、ミルンは大人しく頷くことはできない。

 本来ならミルンたちの旅に無関係だったスニエリタをこんなところに置き去りにするくらいなら、どんなに居心地が悪くても一緒にいることを選ぶ。


 わかっているのだ。これはミルンの単なるエゴで、スニエリタはそんなことを望んでいないことくらい。


 それでも嫌だ。彼女を殺して生きるくらいなら、一緒に死ぬ。

 極端な喩えに聞こえるかもしれないが、この状況は、突き詰めて考えればそれと同じことだろう。


「今日は、空が明るいですね」

「……そうかな。俺にはずっと同じに見えるけど」


 時間の感覚はないけれど、会話を重ねるごとに内容が薄くなっていくのはわかる。


 きっといつかお互いに口も聞かなくなるんだろう。

 もともとそんなに会話が弾むような相手ではなかった。


 ミルンは寝転んでいて、スニエリタはその横に座っている。ここ最近はずっとこの位置だ。

 空を見上げているふりをして、彼女の横顔を眺める。


 このごろスニエリタが何を思っているのかがよくわからない。

 思えばここに取り残されてからずっと、スニエリタは自分の気持ちを語るよりも、ミルンの心境を尋ねてばかりだった。


 閉鎖空間にふたりきりで取り残されたのでミルンに興味を持ってくれたのだろうか、なんて精一杯好意的に捉えてみようとする。


 きっと彼女のほうでも不安なのだろう。

 いくら一緒に旅をしてきたとはいっても、ミルンとスニエリタでは性別も身分も違う。

 そんな相手とふたりきりで、何かあっても逃げられない状況ともなれば、非力な彼女にできることは、できるだけ相手の気分に沿って波風立てずに生きることだけだ。


 ミルンに彼女を支配する気があるかどうかはこの際関係がない。

 もちろん何かを強要しようだなんて思いもしないけれど、そんなことすら、きっと言葉に尽くさなければ伝わらない。


 けれどもそれ以前の問題として、ミルンはまだ彼女の本心を確かめてはいなかった。


 ほんとうはどうしたいと思っているのか。

 ミルンの手前ここに残っているが、ほんとうは今すぐにでも出て行きたいのか。


 たぶん聞きたくなかった。何もかもが自分にとって都合が悪い真実を孕んでいる気がしてしまって。


 でも、そうやって背をそむけたままで、ともにここで果てしない時間をすごすのは、あまりにも悲しい気がする。

 いつまでも逃げているのは、スニエリタに対して誠実とはいえない。


 だから訊こうと思った。

 きちんと声に出して、知ろうとする姿勢を見せよう、と。


 不器用さを自覚しているミルンだからこそ、変に飾らず、遠回しにせず、まっすぐな言葉で。


「なあスニエリタ」

「はい、なんでしょう」

「おまえは今、どういう気持ちなんだ? たとえば……結界の外に出たいとか、少しでも思ってるか?」

「……いいえ」


 スニエリタがミルンを見下ろして、微笑んだ。その顔を見るとなんだか無性に泣きたくなるのはなぜだろう。


「ミルンさん……前に、わたしがシレベニで言ったことを、覚えてますか?」

「うん? ……悪い、どれだ? あそこには一週間くらいいただろ」

「ふふ、そうですよね。……わたしが言いたいのは、ひとりで部屋で待っているのは嫌だと言ったことです」

「……ああ、言ってたな。覚えてるよ」

「よかった」


 何がいいのかはわからないが、スニエリタは満足げに頷く。

 ミルンには、だからやはりここに彼女を置いていくのは悪いことで、こうして一緒に残るのが正しい選択だったのだと、ようやく肯定されたように思えた。


 なぜかそれから、スニエリタは思い出話を始めた。意外にもそれはここに来てから初めての話題だった。


 今からすればひどく懐かしい、ヴレンデールでの日々。


 スニエリタがタヌマン・クリャの束縛を逃れてから、シレベニまでの道のりの異様な遠さ。

 紋唱車の運転にミルンが凝っていたこと。


 スニエリタにとってはシレベニでの売り子が最初で最後の仕事になった。

 あのときの服装を思い出すと今でも恥ずかしくなる、のは恐らくお互いにだろう。


 サーリの街でヴァルハーレたちに追いつかれたこと。そういえば彼らは今どうしているのだろう。


 スニエリタ以外の全員が大なり小なり怪我をして、あのときは大変だった。

 ロディルたちがスニエリタに食事の介抱を受けているのを見て少し嫉妬したのも今ではいい思い出だ。ロンショットは元気でやっているだろうか。


 そこから急にハーシに連れて行かれて、眼を醒ましたらモロストボリの家にいたのにはほんとうに驚いた。

 アレクトリアは大騒ぎするし。何も知らないで帰ってきたヴィトレイがミルンたちを見て眼を丸くしていたのは、珍しいものを見られたと思って面白かったが。


 けっこう楽しい旅だったよな、と改めて思う。

 もうしばらくそれを続けたかった。


 それにまた約束を果たす機会を逃してしまった。

 この試験が終わったら、なんて、まさかあのときは永遠に出られなくなるとは思いもしなかったのだ。

 迂闊だったというべきか、不運だったというべきか。


「ミルンさん」


 スニエリタはまだミルンを見下ろしている。

 彼女の柔らかなロングヘアの毛先が、さっきから頬を撫でてくすぐったい。


「わたし、……ミルンさんのことが、好きです」


 そんな言葉が聞こえたと思った次の瞬間、視界から、スニエリタが消えた。


 代わりに胸のあたりに重みが加わる。

 寝転んだままのミルンに添い寝するような体勢で、スニエリタがこちらの胸に顔を埋めていた。


 突然のことに頭が真っ白になる。思わず浮いた両腕が、そのまま彼女を抱き締めたものか、それとも一旦引き剥がしたものか、どっちつかずに宙を彷徨った。


 好き、と、言われたのか? 聞き間違いじゃなく?


 それは、……その、つまり、恋愛的な意味合いの好意だと、受け取ってもいいのだろうか?


 返すべきなのか。

 自分もずっと同じ気持ちだったと。


 たぶん初めて逢ったときから、一目惚れだったと。


 これまで必死に抑えてきたが、今なら許されるだろうか。

 田舎者と伯爵令嬢ではなく、ただの少年と少女として、触れ合うことを望んでもいいのだろうか。


 この想いを吐露したらミルンのどこかが外れてしまわないだろうか。


 まるで身体がまるごと心臓になったみたいに、全身がばくばくと激しく脈打っている。

 身体じゅうの血が沸騰して毛穴から吹き出そうだと思う。

 顔どころか腕や脚まで熱い。息が苦しい。


 そんなミルンの鼓動の上に、今スニエリタのそれが重なっている。

 ぴったりくっついているから、なんとなく胸の柔らかさとか、太腿の細さなんかもわかる。


「スニエリタ、俺──」


 何を言えばいいのかもわからずに開いた口を、スニエリタの細い指が触れて制した。


 もう一度顔を上げたスニエリタが、白かった頬を今はばら色に染め上げて、泣きそうな瞳でミルンを見つめている。

 その眼差しを見つめ返すだけで頭がおかしくなりそうだ。


「何も……言わないで……」


 ゆっくりとスニエリタの顔が近づいてくる。


 小さな手のひらがミルンの真っ赤に滾っているであろう頬に触れて、そこだけがひんやりと冷たい。

 指先が少し震えているのがわかる。


 鼻の頭がこつんと触れる。互いの吐息が重なる。


 そして視界が暗くなったかと思うと、しっとりしたものがミルンの口に触れる。

 それがスニエリタのくちびるだと気づくのに数秒要した。


 とても信じがたかったが、スニエリタのほうからキスしてきたのだ。


 いつかの人工呼吸など比べものにもならない。

 砂糖菓子よりも甘く柔らかなその感触に、ミルンの脳は熱に浮かされて、どろどろに溶けた。


 夢かとさえ思ったが、ここは結界の中だ。眠れるはずがない。

 それともこれは人が死ぬ直前に見るという幻か?


 もうなんでもいい。頭がくらくらして何も考えられない。


 ちゅ、と名残惜しい音がしてスニエリタが離れていくのを、まだ呆然としながら眺めた。

 触れる直前は果てしなく永く感じたのに、終わるのは一瞬だった。


 それと同時にミルンの顔に何かがぽたぽたと落ちてきた。


 目の前にあるのは、泣き顔だった。


 どうしてだかわからないがスニエリタは泣いている。

 涙を拭うことすらしないまま、彼女は震えて掠れた声で言った。


「……さようなら──割葉の紋……ッ」


 何が起きたのかわからなかった。

 キスがあまりにも甘かったせいで、口の中の違和感に気づけなかった。


 スニエリタの手のひらにはいつか見た紋章が描かれていて、そこから出た吹き降ろす風の術が、ミルンの口内に潜まされていた米粒ほどに小さなキノコを喉の奥へと押し込んだ。


 どうして気づかなかったのだろう。

 一時的に物質の大きさを変える術くらい、学院卒のスニエリタなら知っている。


 一瞬だった。目の前が真っ暗になって、それ意外の感覚も崩れるように失われていく。



 薄れていく意識の中で、大好き、という声が聞こえた気がしたけれど、それはミルンの願望が聞かせた幻だったろうか。


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