133 愛は乙女を強欲にする

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 ミルンとスニエリタは切り株に腰掛けていた。

 もうここにはララキはもちろん、キツネとタヌキの神々もいない。


 神が去ってから、森の景観はずいぶん変わった。


 まず闇の紋唱で暗くしたところがすべて明るく晴れ渡り、大量にあったキノコは夢のように消え失せた。

 足元はすべて枯れ草に変わり、たまに吹き込んでくる風に揺らされて、かさかさと乾いた音を立てる。

 その上に止め処なく紅色の葉が舞い落ちる。


 なんだか居心地がいいな、とスニエリタは思っていた。

 風が気持ちいい。


 時間の感覚はないが、とにかく今より少し前のいつかのこと、ここで三人は揉めに揉めた。

 もちろん黄金のキノコを誰が食べるべきかという議論である。

 三人が三人とも、自分以外のふたりが食べるべきだと主張したものだから、話し合いはいつまで経っても結論が出なかった。


 スニエリタは今でも、自分の意見がいちばん正しかったように思う。

 あらゆることに自信を持てない自分でも、これだけは絶対に譲れないと、生まれて初めて思えたくらいだ。


 つまり、キノコはララキとミルンが食べるべきだった。

 どちらにもアンハナケウを目指す大切な理由があるからだ。

 ララキはシッカを救わなければならないし、ミルンはアレクトリアのために水ハーシ族を救わなければならない、どちらも絶対に果たされるべき願いに違いないだろう。


 一方、スニエリタには何もない。ふたりと一緒にいられるだけで幸せだったし、ふたりが幸福の国に辿り着くための手伝いができるなら、もうどんな形だって構わない。

 それだけの恩をふたりに感じている。


 それに、なんとなればスニエリタはもう、一度この世界に別れを告げているのだ。


 とっくに死んだつもりだったのに、生き返らせてもらった。

 たくさんの言葉と励ましをもらい、初めて遣獣との契約ができたし、故郷にいたら絶対できない経験をして、楽しい思い出を作れた。


 充分だ。もう、これ以上は望んだら罰が当たるんじゃないかとさえ思う。


 だからスニエリタはキノコを手放そうとした。

 少しも後悔はなかった。


 だが、現実にはこうしてなぜか、スニエリタの隣にはミルンがいる。


 彼はどうしても、スニエリタをここに残すのを嫌がった。

 どうやら前の試験でスニエリタが生き埋めになったことを相当強く後悔しているらしいのだ。

 スニエリタが気にしていないと伝えても、ミルンは納得しなかった。


 それでどうなったのかというと、ミルンは無理やりララキの口にキノコを捻じ込んだ。

 しかも間髪入れずに水の紋唱を叩き込んで、有無を言わせずに飲み込ませるという荒業だった。ちょっとそれはやりすぎでは、とスニエリタは思ったが、止めることはできなかった。


 そのあとスニエリタとミルンでもキノコを食べる食べないでしばらく話し合いが続き、お互い譲らないので平行線のまま今に至る。


 そんなわけでしばらく沈黙が続いていた。

 いつの間にか神々は姿を消していて、なんとなくふたりで残るような状況が出来上がった。


 ひとつだけ残った黄金のキノコは、今はスニエリタの内ポケットの中に納まっている。


「これからどうなるんだろうな」


 ふいにミルンが口を開いた。

 彼の眼はじっと空を眺めていて、風が銀髪を揺らしている。


「それは、わたしたちのことですか? それともララキさんのことでしょうか?」

「どっちも。……まあ、ララキは今までどおりアンハナケウを目指すしかないよな。それにあいつはもう、ひとりでだって旅を続けていけるさ。

 となると残る問題は俺たちの末路だが……アルヴェムハルトもラグランネも何も言わずに消えちまったけど、俺らはいつまでここにいるんだろうな。永遠に出られないのか、外の身体が死ねばそこで終わるのか」

「そういえば、外のわたしたちはどんな状態なんでしょうね……」


 ずっとこの結界の中にいたのに、今さらそんなことに思い至る。


 もはや記憶がおぼろげで、連れて来られる直前にどうしていたのかなんて覚えていない。

 モロストボリのミルンの実家に居たことは確かだが。

 そのうち外のことを何も思い出せなくなるのだろうか、と少し思った。


 そしてこの状況は、まるで、話に聞いていたララキの過去にそっくりではないか。


 自分の意思では出られない結界の中で、何の感覚も活動もない、ただそこに存在しつづけるだけ。


 自分たちはふたりでいるから会話はできるが、ひとりぼっちで放り込まれていた彼女はどんなにか寂しかっただろう。辛かっただろう。

 それに比べれば、今のスニエリタはとても幸せだ。


 隣を見ればミルンがいる。

 ここには誰も入ってくることがない、完全にふたりきりの世界。


 彼の横顔を見つめていると、スニエリタの胸がとくんと跳ねる。

 女神に整えられた銀髪を見て、それはわたしがやりたかったな、と思う。

 紫紺の瞳は、それに見つめられることを思うと顔が熱くなる。


 前にララキとした雑談を思い出す。ララキがシッカの素敵なところをいかにたくさん知っているか、という話だ。

 今はあのときのララキの気持ちがよくわかる。


 誰かに聞いてほしい。スニエリタの知っている、ミルンという人の素敵なところを。


 つんとせり出した鼻の形、硬くしなやかな髪質。広い背中、しっかりとした胸板、スニエリタよりも頭ひとつぶん高い身長に、すっと伸びた長い脚。

 大きな手で、しかし驚くほど優しくスニエリタの頭を撫でてくれること。


 下手くそな紋唱術の練習に根気強く付き合ってくれること。

 少しでも成長が見られたら褒めてもっと伸ばそうとしてくれること。


 そして、悪いところはきちんとダメだと言ってもくれる。

 自分でも面倒くさいと思うほどのスニエリタの気弱さを、精一杯気遣って守ってくれるところもそう。

 それ以外でもありとあらゆる場面で三人の旅を牽引し、いろんなことを教えてくれた。


 極めつけが今のこの状況だ。スニエリタをひとりで残すぐらいならと、一緒に結界に残ってくれた。


 ああ、ほんとうなら、スニエリタは断固としてそれを拒まなければならなかった。

 ミルンにだって大事な目的があって旅をしていたのに、それをスニエリタも知っているのに、結局最後まで説得しきれなかったのは、内心では彼の決断が嬉しかったからだ。

 つまりスニエリタの心が弱かったのだ。


 きっともう二度と外へは出られない。そう理解したとき、スニエリタは自分のほんとうの気持ちを思い知った。


 ──わたしはもう、クイネス家のスニエリタではなくなった。


 人間としてのスニエリタ・エルファムディナ・クイネスは、恐らくもう死んだ。


 ここにいるのはスニエリタの魂だけで、それを縛るものは存在しない。

 肩書きも家も何もかもが、ここでは何の意味も持たない。


 それが、たまらなく嬉しい。


 やっとこの人とほんとうの意味で対等になれたのだと思うから。


「……ミルンさん」


 ミルンがこちらを見る。

 眼が合うと、胸が痛いくらいに高鳴って、もう息すらまともにできなくなる。


 この人が好き。


 世界中の誰より、ミルン・スロヴィリークという人が好き。


 もちろん尊敬や親愛の意味ではない。

 スニエリタというひとりの女性として、男性としての彼を慕っている。できることなら今すぐそれを伝えたかった。


 急にそんなことを言ったら驚くだろうか? どんな反応をするのだろう?

 すげなく拒まれるのか、それとも受け入れてもらえるのか。


 優しい彼のことだからきっと冷たい言葉では返さないだろう。


 閉じた世界にふたりきりという、この異常な環境では、むしろ受け入れられる可能性のほうが高い。


 それがずるい選択肢であることはスニエリタにだってわかる。

 ここにはミルンとスニエリタしかいないのに、このまま永遠にふたりきりかもしれないとなったら、否が応にも受け入れざるをえないじゃないか。


 叫びだしそうな心を一旦どうにか飲み込んで、それからまず、息を吐いた。


「ほんとうは、……ララキさんのこと、どう思ってるんですか?」


 どうしてそんなことを聞いたのか。


 わかっている。

 だってスニエリタの知っているミルンは、仲間想いで優しくて、少し不器用な人だから。


「……今ごろ、泣いてるかもな」


 ミルンは少し、つまらなさそうに答えた。


 彼は無理やりララキをここから叩き出した。

 そうでもしない限りララキが出て行かないことを知っていたし、言葉だけで説得しきれないこともわかっていたから。


 ララキは良い意味でとても感情的で、素直で、それゆえに優しくて、ミルンと同じくらい仲間想いな少女だった。


 彼女をたったひとりで外に送り出してしまったことを、ミルンもスニエリタも後悔している。

 今ごろ、といっても外でどれくらいの時間が経ったのかはわからないけれど、きっとララキは涙が枯れるまで泣き続けているだろうと想像がつく。


 スニエリタの胸ポケットにはひとつきりのキノコが眠っている。

 これをミルンに渡したら、今度は自分が食べさせられるとわかっている。


 ララキに辛い思いをさせていることを理解しながら、ミルンを出そうとも自分が出ようともしないのだ、自分はなんて薄情なのだろうとスニエリタは思う。


 恋は女の子をきれいにする、という言葉があるが、それは嘘だ。


 身勝手な恋は、女の子を醜くする。ずるくて卑怯で嫌な女に変えてしまう。

 肩書きや家名といった要らないものをすべて捨てて、なおかつ愛する人を独り占めにできるという特殊な環境を手に入れるために、スニエリタは大事な友だちを売ったも同然だ。


 ……友だち。


 スニエリタのことを友だちだなんて言ってくれたのは、ララキだけだったのに。

 それらしいことを言った人間は他にもいたけれど、ほんとうに心からの言葉をくれて、気持ちのいい距離で接してくれた人は他にいなかった。

 同世代の女の子の友だちがいないんだ、なんてよくララキは自嘲していたけれど、それはスニエリタも同じだった。


 たったひとりの、友だちだった。


「心配なんですね、ララキさんのこと」

「そりゃ多少は……気にはなるだろ。なんだかんだで二ヶ月以上も一緒にいたんだ」

「……ほんとうは外に出たいんじゃないですか?」

「そういうことを言うなよ」


 ミルンは頭をくしゃりと掻いて、遠くを見た。

 どんな答えよりその姿が雄弁に物語っている。


 当たり前だ。彼には目的があって旅をしていたのだ。

 それは今、スニエリタのわがままによって取り上げられている。


 今すぐここを出て、ララキを追いかけたいに違いない。

 出られさえすれば、ミルンは彼女と一緒にアンハナケウに行き、そこで求めるものを手に入れる。

 ……それには、スニエリタは必要ない。


 それにもしかすると、この人の心は、ララキに注がれていたんじゃないだろうか。


 だってふたりはあんなに仲がよかった。

 何年も前から一緒にいたみたいに、軽口を叩いて笑っていた。


 それはスニエリタには絶対にできない芸当で、もしかすると、スニエリタは自分でも気づかないうちにララキに嫉妬していたのかもしれない。


 ごめんなさい、とスニエリタは声に出さずに呟いた。


 ──せめてあともう少しだけ、この幸せな夢を見ていたいの。


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