132 ひとりの旅路
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ララキはある場所の前に立っていた。
木造の古びた建物は、しかし何年も豪雪に耐えてきただけあり、かなり頑丈そうな造りをしている。
中に入るとまず眼を引くのは床に敷き詰められた真っ青な織物だ。
事前に聞いてきたとおり、靴を脱いでそこに上がり、奥へと進む。
突き当たりの壁には木彫りの面と、それに供物を捧げるための祭壇がある。こちらも年季の入った織物が掛けられていた。
都会にある聖堂などのように派手な金銀細工も献花もないけれど、温もりを感じる手製の道具たちからは、この町の人びとの深い愛情や崇敬の念を感じられた。
聖像代わりの面は、オオカミの頭部を模している。
ここはカーシャ・カーイの社である。
モロストボリにある唯一の宗教施設であり、ハーシ全国のカーイ社の中でも三本の指に入るほど古い建物らしい。
旅を続けるならまずここに寄りなさいとロディルに言われた。
ここで手応えがないようなら、今の季節から北端を目指すのは気候的に厳しいので、東に向かってオヤシシコロカムラギを尋ねるように、とも。
何から何までスロヴィリーク家の人間に世話になっている。
アレクトリアには朝、袋にいっぱい詰まったパンをもらったし、ヴィトレイには防寒具を一式出してもらった。
聞けばそれは彼ら兄弟が代々子どものころに使っていたもので、もちろん最後に袖を通したのはミルンだったそうだ。
それらをありがたく受け取り、ララキは今ここにいる。
ララキは祭壇の前に正座をして、ハーシ式に倣って両手を合わせ、眼を瞑って祈るように語り掛けた。
礼拝の作法も彼らに教わったものだ。ハーシではどの神に祈る際もこの形式でいいらしい。
深く息を吸い、そして吐きながら、頭の奥で強く念じる。
──ハーシの神カーシャ・カーイ。
あたしはこれからどこに向かえばいいの? それとも、何かするべきことがある?
カーシャ・カーイのことを考えながら頭の中に思い浮かぶのは、たった一度見ただけのオオカミの姿ではなく、何度か出逢った青年の姿のほうだった。
彼はどうして人の姿でたびたびララキたちの前に現れたのだろう。単なる気まぐれだったのだろうか。
やがて、かたん、と何かを軽く小突いたような音がした。
ララキは眼を開いた。
一見、何も変化はないように思える。結界に移動してもいないようだ。
ダメだったのだろうか。
カーシャ・カーイも盟主だというから、忙しくてそう簡単にはララキの呼びかけに応えてはもらえないのかもしれない。
諦めて立ち上がろうとしたが、そのときララキはようやく、何が起きているのかに気がついた。
『……よう、ララキ。辛気くせぇ顔してるな』
仮面が喋った。
厳密には仮面の向こうにカーシャ・カーイがいる。
姿はほとんど見えないが、何もないはずの仮面の眼窩に、あの血のように紅い瞳が見えるのだ。
その馴れ馴れしい話口調は、あの旅人のそれとそっくり同じだった。
「カーシャ・カーイ、なの?」
『驚くことはねえだろ、そっちが呼んだんで応えてやっただけじゃねえか。
そんでまあ、おまえさんとはこれが初対面ってわけでは当然ねえし、特別に我が名を省略して呼ぶことを許可しよう』
「あ、ありがと……あの、じゃあ、カーイ。その……ミルンとスニエリタはどうしてるの? 何か知ってる?」
『知ってるも何も、今は俺の懐に収まってるよ。大人しく結界で暮らしてる』
「……そう、なんだ……」
ふたりはとりあえず無事なようで、ほっと息を吐いた。よかった。
よくよく考えたら、お互い惹かれあっている者同士で残ったのだから、案外向こうは楽しくやっているのかもしれない。
こちらは恥ずかしいことに、ひとりで寂しくてさんざん泣き喚いてしまったが。
とはいえ、彼らには待っている家族がいるのだ。ずっとこのままにしていいわけがない。
アレクトリアやロディルやヴィトレイに約束したのだから。
それにスニエリタだって、彼女がどういう道を選ぶにしろ、一度は故郷でけじめをつけることも必要だろう。
だいいち今の状態ではふたりは死んでいるも同然ではないか。
ララキは意識して顔を上げ、カーイの眼をじっと見つめた。
そして改めて尋ねた。
「あたし、一刻も早くアンハナケウに行きたいの。そのために必要がことがあったら教えて」
オオカミの面がかたかた揺れて、まるで笑っているようだった。
『そう言うだろうと思った。そして、朗報だ。クシエリスルの意思はおまえさんを我らの国へ招待すると決定したぜ』
「……ほんと!?」
『んなもん嘘なんか吐いても仕方がねえだろ。
……ただ、相応の準備がいるんでな。これから俺の指定する場所に行って待機しろ。あんまり詳しくは言えねえんだが、満月の夜、迎えを寄越す手筈になってる』
そんな、そんな、そんな!?
ララキは信じられない思いで混乱しながらも、とにかく必死にカーイの指示を聞いた。
まさかこんなに早くアンハナケウへの道が開けるとは思いもしなかった。
よかった、これですぐミルンたちを解放できる!
思わず泣きそうになって、あたしもスニエリタのことを言えないな、と少し自嘲したりもした。
ああ、彼女に会えたらきっと笑い話にしよう。
社を飛び出し、そのへんを歩いていた町民たちを捕まえて、その場所について聞く。
カーイが口にしたのは湖の名前だった。
このあたりは大陸でも有数の湖水地帯らしいので、その中のひとつだろうとはわかったが、やはり地元民に確認したほうがいい。
丁寧にそこまでの行きかたを教えてもらい、お礼を言って別れる。
こんな時期に観光客なんて珍しいね、という声を背中で聞きながら、ララキは走った。
走りながら考えたのは、今日から満月まであと何日あるんだっけ、ということだ。しばらく夜空を見ていないから月の形がわからない。
その日は湖に辿り着けなかったので、雑木林の中で野宿をした。
寒さに震えながら食事の用意をする。
アレクトリアにもらったパンは石のように硬く、そのぶん日持ちがしそうだ。
手持ちの干し野菜と木の実のペーストで作った適当なスープに浸し、少しずつちぎって食べる。
はっきり言ってこのスープはララキ史上でも一、二を争う不味さだった。
適当に用意したとはいえ、あの草粥を越えそうな味に仕上がるとは驚愕だ。
ミルンたちがいなくてよかったと思う反面、あえてこの不愉快な味わいを共有したかったとも、少し思った。
きっとミルンはけちょんけちょんに文句を言ってくれるし、スニエリタは我慢して最後まで食べてくれる……かな?
ふたりの反応を想像すると、途端に寂しさが込み上げてくる。
なんだかんだでララキは一人旅をしたことがなかった。
最初からずっとミルンがいて、いつも誰かと一緒にごはんを食べていた。
それってほんとうに幸せなことだったんだなあと、今一度噛みしめる。
ふたりがいたら、きっとこんなに寒くもなかっただろう。風があんまり冷たくて歯ががちがちと音を立てる。
震えながら見上げた月は丸みを帯びてはいたが、満月までは何日かありそうだった。
(早くふたりに会いたい。もちろん、シッカにも)
ララキの孤独な旅はその後も続いた。
慣れない山道を無言で歩き通し、小川を辿って湖を目指す。
突き刺さるような冷たい風に、ひしひしと冬の接近を肌で感じながら、ひたすらに歩き続ける。
一時どうにも寂しくなって、それを紛らわせるためだけにプンタンを呼び出したりした。
しかし彼が南国に生まれ育ったカエルである以上、これほど寒い環境でいつもどおりの弁舌を期待するほうが無理というもの。
ちょっと喋っただけですぐ眠ってしまうので、それだけプンタンには負担が大きいのだとわかったララキは、それきり彼を呼ぶのをやめた。
やはり遣獣を増やすべきだったな、と久しぶりに思う。
もしこの山道で何かに出くわしたら、どんな猛獣でも迷わず挑戦させていただくのだが、そういう気合のあるときに限って何にも出会わないのだから不思議だ。
それにしても遠い。
最初に話を聞いた地元住民の話では、ここまで険しい道のりとは思えないような口ぶりだったのだが、やはり地元民と外国人ではいろいろ勝手が違うのだろうか。
疲れ果て、適当な場所に腰を下ろす。少し休もう。
しかし、ほんの少し座っているだけだったつもりだったのに、いつの間にかララキは眠ってしまっていた。
『……さん』
少しだけだが、夢を見た。
どこか知らない外国の街、それもすごく立派な都会の真ん中で、誰かを待っている夢だった。
こんな場所に知り合いなんているはずもないのに、夢の中のララキは何も不思議に思っていない。
背後から、足音がする。ひとりではないようだ。
話し声も聞こえる。
そのうちの片方が、ララキを呼んだ。
懐かしい、優しい声で、ちょうどこんなふうに──
『ララキさん。目を醒ましてください』
「……んあ?」
ぼんやりとした寝起きの視界に、茶色のものが蠢いている。かなり大きい。
だんだんはっきりとその姿が見えてきた。
クマがいた。大人のクマが、後ろ足で立ち上がり、ララキを見下ろしているのだった。
しかもその大きな手の鋭い爪が今にもララキに触れそうになっている。
この手に叩かれたら肉と骨が砕けて死ぬな、と本能的に理解したララキは、思わずひえっと声にならない悲鳴を上げた。
だが一瞬ののち、そのクマの姿に見覚えがあるのに気づく。
それに寝惚けた頭で声を聞いた気がする。
人間の言葉で、しかもララキの名前を呼んでいた、このクマは。
「み、ミーちゃん!?」
『はい。……それにしても、人間のあなたがこんなところで寝ていたら、凍死しちゃいますよ』
「起こしてくれたんだ、ありがと。でもなんでミーちゃんがいるの?」
『なんでって、この山は私の棲処なんですけど……』
よくよく考えてみれば当然の返答だった。
ミルンは故郷の周辺で遣獣たちを集めたと言っていたから、モロストボリの近くの山をうろついていたら誰かに出会ってもおかしくはない。もともと彼らはここに棲んでいるのだから。
ララキは納得したが、しかしミーはそうではないようだった。
『ところで、ララキさん。坊ちゃんやスニエリタさんは今どこにいるんですか?』
「あ、……その、それは」
『もう長いこと坊ちゃんに呼ばれていません。それに、私の中にある坊ちゃんと繋がっているところが、なんだか少しずつ細くなっているような気がするんです……人間が契約と呼んでいる部分のことですけど』
「……ごめんね、ミーちゃん。あたしたち、神さまの試験を受けてて、その、……いろいろあって、あたししか結界から出てこられなかった」
正直に話すと、ミーは眼に見えて肩を落とした。
『坊ちゃんはいつも……いちばん肝心なときに、私を呼んでくれないんですから……』
ミーの瞳からぽろりと涙が零れる。
そういえば、神の試験を受けているときに遣獣を呼んだことは一度もなかった。
最初のゲルメストラの試験のときは紋唱術自体が使えなくなっていたし、次のサイナの試験では遣獣を呼ぼうとして別の怪物が出てきたものだから、以降もなんとなく遣獣を頼らなくなっていた。
もしかしたら遣獣たちにとっては、それは寂しいことだったのかもしれない。
ともかくララキは、これからある湖に行かなければならないこと、そこでアンハナケウからの迎え役と落ち合うことを話した。
アンハナケウに行ったらミルンたちの救出も頼むつもりだということも。
ミーは頷いて、そこまでの案内を申し出てくれた。
獣だけが知る最短の道があるという。
むしろララキは途中で少し道を間違えていて、このままだと辿り着けないか、着けても遠回りになってしまうこともわかった。
どおりで時間がかかっていたはずだ。
ミーに会えてほんとうによかったと思いながら、彼女の先導に従ってふたたび歩き始める。
ミーはできるだけ歩きやすいところを通ってくれたし、ララキを背負って岩場を飛び越えてくれたりもした。
そのまま半日かけて移動し、ようやくララキは目指す湖の近くまで来られた。
あとは雑木林をまっすぐ抜けるだけです、とミーは言った。
この先はミーの縄張りの外なので、ララキはひとりで行かなければならない。
「ほんとにありがとう、ミーちゃん。絶対なんとかしてくるから、待っててね」
『……お気をつけて』
ミーに見送られ、ララキは雑木林へ入る。もう日が落ちかけているが、もう僅かな距離しかないそうなので、このまま湖まで進むつもりだ。
迎えにくるのは何者だろう。
神か、それとももう少し位の低い存在なのか。
どうやってアンハナケウへ連れて行ってくれるのだろう。
ララキの願いはどれくらい聞き届けてもらえるだろう。
いや、全部聞いてもらわなければ困る。
シッカもミルンもスニエリタもみんな助けてくれなくちゃいけないし、なんならついでにミルンに代わって水ハーシ族の地位向上を嘆願しておこうとさえ思っている。
あたしは全部が欲しい、とララキは思うのだ。
どれも捨てられない。
失くしていいものなんて何ひとつない。
欲が深すぎると言われるかもしれないけれど、ほんとうに心の底からの本音なのだ。
だって──物語はハッピーエンドで終わらなくては!
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