136 少年の決意

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 たった二日で、地理に詳しいわけでもなければ移動向きの遣獣もなしに、そう遠くへは行けないだろう。

 追いつく余地は充分にある。


 ミルンは落ち着いて探索紋唱を行い、まずはララキのいる方角を調べた。

 そこから彼女が向かいそうな場所を地元民としての知識と勘とであたりをつけるのだ。


 このあたりは田舎ゆえ、それほど目的地となりうるような建造物はない。

 神社、遺跡、その他の史跡。ここで生まれ育ったミルンはそのすべてを知り尽くしている。


 しかし示された方角は、その何れとも関係のなさそうな山の向こうだった。


 別段大きな社も遺跡もない地域だ。どんな小さな集落でもカーシャ・カーイ関係の小さな祠は村ごとにあるが、モロストボリの社を訪ねたあとでわざわざそちらに行くとも考えづらい。

 だとしたら、あと考えられるのはそういう人の手で造られたものではなく、森や湖といった自然環境ということになる。


 状況はいまいち読めないが、探索紋唱で辿れる範囲内にいるのならたとえ山の中でも問題はない。

 ともかく紋章の示した方角へと進む。


 歩きながら、頭の中に浮かぶのは、スニエリタが最後に見せた泣き顔だった。


 他のことを考えようとしてもそれが消えてくれない。

 さようなら、という言葉が何度も耳の奥で繰り返されている。


 わけがわからない。泣くほど辛いならどうしてあんなことをしたのだろう。


 好きだなんて言葉で動揺を誘って、わざわざキスまでして、そうしたら自分は二度と現実に戻れないことを知っていたのに。


 一人で待っているのは嫌だと、シレベニでは真逆のことを言って泣いていた。

 それをミルンが覚えているかどうか確かめたりして、嬉しそうに笑ってさえいたスニエリタが、なぜ自分から孤独になる道を選んだのだろう。

 彼女ひとりが犠牲になる必要なんてどこにもなかったというのに。


 ──あの告白が、嘘じゃなかったとしたら。


 見上げた空は、結界の中で見たのとはまったく違う、冷たくて寂しい銀色をしている。

 雲が多くて青が見えない。

 今にも泣き出しそうなそれは、スニエリタを失った今のミルンにどこか似ている。


 こちらからは、好きだと言わせてくれなかった。

 抱き締めることすらできなかった。


 スニエリタは自分だけぜんぶを背負い込んで、ミルンが彼女を愛することすら優しく撥ねつけたのだ。


 自分のことなど忘れろと言わんばかりに。

 ひとり結界を出ていくミルンが、そこに未練を残していかないように。


 たった一度のキスだけを思い出に、スニエリタはこの世に別れを告げた気でいるのだ。


「……んなこと、認めてたまるかよ……」


 アンハナケウに着いたらまずあのキツネとタヌキの神に文句を言ってやる。

 そして絶対にスニエリタを取り戻してやる。


 そうしたら今度はこっちから、この想いの丈をぶちまけて、もう二度とひとりになんてしてやるものか。


 そんな想いを胸の内に滾らせながらミルンは進む。

 迷いなんてひとかけらもなかった。今まで必死に押さえつけていた感情が、少しでも外に溢れてしまったら、もうそれを止める手段はないらしい。


 ミルンは進む。

 木枯らしの吹き荒ぶ中を、獣の犇く山へ向かって。


 恐らくララキはこの先の湖のどれかにいる。

 ミルンの使う簡単な探索紋唱では上下関係まではわからないため、もう少し進んでみなければ山頂近くのカルデラ湖なのか、もしくは麓の湖群のどこかなのかはわからない。


 しかし山を越える最短の道でも今日中には抜け切れなさそうだ、とミルンは思った。

 かなり強い向かい風が吹いていることや、自分の足が、恐らく二週間以上寝ていた関係で思ったより満足に動かないことを鑑みての想定だった。

 ともかく行けるところまで進んで今夜は野宿をするしかない。


 秋とはいえ夜間はそのまま寝たらじゅうぶん凍死できる寒さだが、むろん対策はいくらでも知っている。


 ララキは大丈夫だったろうか、とふと思った。

 彼女はこのあたりの入り組んだ山道に慣れていないわけで、山向こうの湖群地帯に向かうのは易しいことではないが、地元民に案内を頼んだりしただろうか。うっかりどこかで死にかけていなければいいが。


 とくにこの時期の山はクマなどが冬ごもりの準備のためにうろうろしている。

 野宿しようとして呑気に焚き火なんぞした日には、襲われて食われる可能性もなきにしもあらずだ。


 もっともララキだってミルンとともに二ヶ月も旅をしてきた。紋唱術師としては出逢った当初を思えばかなり上達しているし、あっさりやられはしないだろう。

 しかも元から野生動物にも対峙しうる描速を誇っていたやつだったし。


 そのうち日が暮れ始めたが、ミルンは寝床を探して彷徨うことはしない。

 もっと効率のいい方法を知っているからだ。

 永らく親しんできた、しかし最近はしばらく描いていなかった紋章に、いつもの招言詩を唱える。


「我が友は喝采する」


 輝く紋章から出てきたミーは、かなり驚いたようすでミルンを見た。

 けっこう永いこと呼んでいなかったから、呆れられるか怒られるかすると思っていたのだが、どうやらどちらとも違う反応らしい。

 ここが彼女の棲む山で、こんな近い場所で呼び出すのも珍しいからだろうか。


 ともかくミルンはすぐに用件を切り出した。


「ミー、今晩ちょっとおまえの巣穴に泊まらせてくれ。俺ひとりくらいなら入るだろ?」

『……坊ちゃん……』

「あ、まさか一昨年までとぜんぜん違う場所に移っちまったか? たしかそのときは山のこっち側だっ──!?」

『坊ちゃん! わぁぁーっ!』


 突如、ミーが襲い掛かってきた。


 もとい彼女からすれば抱きついたつもりだったらしいが、成獣のクマの肉体と腕力をもって行われたそれは、人間からすれば襲撃以外のなにものでもない威力を振るった。

 ミルンはうしろにひっくり返って気絶したが、あとから思えばそれだけで済んでほんとうによかった。

 状況的には死んでもおかしくなかった。


 十数分後、いや数十分後だったかもしれないが、ともかくミルンは無事にふたたび眼を醒ますことができた。

 スニエリタが我が身を犠牲にして永遠の夢から醒ましてくれたのに、遣獣に突進されて今度こそ永眠なんてことになったら洒落にならない。


 どうやら希望どおりミーの巣穴に運ばれたようで、寒くないように木の葉を身体の上にたっぷりまぶされていた。


 それにしてもミーはなぜあんな真似をしたのだろう。

 まだ背中や肩がずきずき痛むのに閉口しながら、荷物から妹にもらった弁当を取り出す。ミーは外に出ているらしく見当たらない。

 炎の紋唱で温めたスープを啜っていると、やがて外回りを終えたらしいミーが戻ってきた。


『いろいろ拾ってきたんですけど、食べます?』

「いや、いいよ。おまえも冬眠だか冬ごもりだかで多めに食わなきゃいけない時期なんだろ」

『坊ちゃんがまめに呼んでくれるならしませんよ、冬ごもりなんて。あれは食糧が入らない前提の話ですから。

 ……それより坊ちゃんがご無事で安心しました……ほんとうにもう……』


 目元を拭うミーを見て、どうも自分の周りには人獣問わず涙脆い女が多いな、とミルンは思った。


『ララキさんから、もう二度と目覚めないかもしれない、なんて聞いたときはどうしようかと……』

「……会ったのか!」

『ええ、というかそのあたりでララキさんの匂いがしたんで驚いて追ってみたんです。そうしたらだいぶ登山道から外れたところで居眠りされていてヒヤっとしましたよ』

「あ、危ねえ……で、どこに向かってるとか、そういう話は聞いたか?」

『シャッペチャテ、……いえ、坊ちゃんたちの言葉で言えばオレヴィキ湖ですね。なんでもそちらにアンハナケウからのお迎えがいらっしゃるとかで』

「アンハナケウからの迎え!?」


 思わぬ言葉を思わず復唱してしまう。

 ミルンが離脱している間に、ララキの側では話が一足飛びに進んでしまっているらしい。 


 ミーもそれほど詳しくは聞いていないようだが、とりあえず満月の夜までにそこに辿り着かなければいけないのだと、ララキは語っていたそうだ。

 それでミーはその手前の雑木林の前まで送ってやったのだという。

 しかもそれが昨日のことだったらしい。


 となればララキはもうオレヴィキ湖には着いているはず。そして満月は明日だ。


 ミーに話を聞けてよかったとミルンは心から思った。

 知らずに追ったとしてもなんとか間に合いはするだろうが、具体的な場所や時間制限があることを知っているかどうかの差は大きい。


 オレヴィキ湖自体けっこうな広さがあり、水上移動のできる遣獣を持たないミルンには、その周辺を捜索する時間には少しでも余裕がほしいところだ。


 翌日に備え、その日はすぐに寝ることにした。

 隣にミーがいれば凍死の危険も野生動物に襲われる心配もないのでぐっすり眠れる。

 当人の巣穴以外でも、遣獣を野宿のお供にするのは古今東西の術師がやってきたことである。


 かくして翌朝、ミルンは夜明けとともに穴を出た。


 ミーはララキにしたのと同じように雑木林の手前までついてきた。

 そしてミルンの姿が見えなくなるまで、そこでずっと見送っていたようだったが、極力振り返らずにミルンは進む。


 昨日と同じく向かい風がきつく、寒いというよりはまるで細かな針で肌を刺されるような痛みがある。


 まるで神がミルンの歩みを拒んでいるかのようだ。

 そう思うと、あちこちの木陰からカーシャ・カーイに睨まれているような気持ちが湧きあがってきて、ミルンの膝ががくがくと震えた。


 これはほんとうに拒否されているのかもしれないなと思いつつ、それで諦めるミルンでは当然ない。

 ――うるせえ、おまえはハーシの主神だろうが。ねちねち拒んでないで加護とか奇跡を寄越せ――と乱暴なことを念じながらひたすらに歩く。


 そんなミルンの態度をどう思ったのか、ふいに風が緩んだ。


 これ幸いと駆け出した。湖は目前だ。

 厳密には、オレヴィキ湖を含む湖群がすぐそこに広がっている。


 オレヴィキという湖の名は、その中でいちばん面積の広いものを指す名称であると同時に、この大小合わせて二十を越える湖群全体を呼ぶのにも使われている。

 恐らくララキがいるのは最大にして本元のオレヴィキ湖だろう。


 改めて探索紋唱をしながら、湖のほとりを小走りに進む。

 湖同士が繋がって川のようになっているところもある。

 ララキがいるあたりに行くには何箇所か飛び石を越えなければならないところもあり、この季節では滑って着水でもすれば風邪は免れない。


 注意しながら進むと視界の奥に不自然な色が現れた。青と緑と少しの灰色ばかりで構成されたこの世界に、ぽつりと浮かぶ鮮やかなオレンジ色。


「ララキ!」


 思わず叫んだがどうやら聞こえていない。

 どうやって渡ったのか知らないが、湖の真ん中に浮かんだ小島に座り込んで、ララキはぼんやりと遠くを見ているようだった。


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