131 夜明け前
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なぜか、三人ともララキを責めなかった。
アレクトリアはせっせとララキの身体を拭いてくれたし、その間にロディルはスープを温めなおしてくれた。
ヴィトレイはしばらく姿を消したかと思えば、風呂の準備をしてくれていたらしい。
ララキは涙に圧されてろくに説明もできないありさまだったのに、目覚める気配のないミルンとスニエリタのことを誰も問い詰めることなく、ララキが落ち着くのを待ってくれた。
その優しさが今は胸に痛くて、ララキは黙ったままスープの湯気を見つめている。
お腹は減っているけれど食べる気がしなかった。スプーンを持とうとしても手が震えて落としてしまう。
何度か落としたところで、もうスプーンを拾うのも諦めたくなった。
なめらかなミルク色のスープの液面に、ひどい顔をしたララキが映り込んで、じっとこちらをねめつけている。
泣きすぎて頭が痛い。どうすればいいのかわからない。
もう、何も考えたくない。
誰かの手がテーブルの上に転がったままのスプーンを拾う。
その人はララキの手にもう一度スプーンを握らせて、そしてもう落とさないように上からぎゅっと握った。
白くて大きな手は男の人のそれだろう、のろのろと顔を上げると、ロディルと眼が合った。
「食べなきゃいけないよ。きみはもう、二週間も何も口にしてないんだから」
「……でも」
「残したらリェーチカが悲しむ。だから食べなさい」
ロディルはララキの手を握ったまま、スープをひと匙掬って口許にそれを運んだ。
優しい、甘い匂いがふわりと鼻腔に流れ込む。
ララキはやたらに時間をかけながら、なんとか一口だけそれを口にした。
熱い液体がじりじりと喉を
「う」
もう一口食べる。
柔らかく煮込まれた根菜を奥歯で潰し、飲み下す。
「う、うう……っ、う、うぅ……」
食べるほどに、枯れたはずの涙がふたたび溢れ出た。
それくらい美味しいスープだった。
こんなに美味しいものを、どうしてたったひとりで食べているのかと思うと、辛くて頭がどうにかなりそうだった。
ほんとうなら隣にミルンがいるはずだった。
スニエリタがいるはずだった。
彼らも一緒にこのスープを味わっているはずだったのに。
ロディルの手が離れても、泣きながらでも、ララキはひたすら食べ続けた。
一緒に出されたパンも、涙が混じってしょっぱくなっていくスープに浸して食べた。
最後まで、食べる手を止めなかった。
止めてはいけない気がした。
いつしかスープ皿が空になって、スプーンがからんと小さく音を鳴らす。
食事を終えたララキの隣にロディルが座る。
アレクトリアは食器を回収して流し台に行き、ヴィトレイは少し離れたところに座っていた。
話さなければならないのだと、ララキにもよくわかっていた。
食事の前に比べたらずいぶん気持ちは落ち着いているし、今ならなんとか話せそうだとは思ったが、いざ口を開こうとすると言葉が出てこない。
一体何から話せばいいのだろう。どう言えばちゃんと伝わるだろう。
許してもらおうなんて思わないけれど、最低限、誤解がないようにしたい。
なんて考えるのは愚かなことだろうか。
「ララキ、ゆっくりでいいから、最初からすべて話してくれるかな」
ロディルがそう言って、ララキの言葉を促す。さっきからずっと彼に助けられてばかりいる。
「……最初、から」
「うん。僕らが知っているのは、二週間前からきみたちが眼を醒まさなくなったってことだけだ。僕の遣獣に少し調べさせて、たぶん神の結界に攫われていたんじゃないかな、という予想を立てはしたけどね。
だから、実際のところは何があったのか、きみの口から聞かせてほしい」
それはつまり、未だ目覚めない弟たちはどうしているのか、と尋ねているのと同じことだった。
ララキは頷いて、震える声でどうにか話し始める。
今となっては悪夢としか言いようのないあの試験のことを。
キノコだらけのおかしな森で、目を醒ましたこと。
そこにミルンとスニエリタもいて、それからキツネとタヌキの姿をした神が現れて、試験を始めると宣言されたこと。
初めは知らなかった。
ただ言われるがまま、逃げる神を追いかけたり、指定されたキノコを探したりした。
地図を作ろうなんて無駄なこともやろうとした。
とにかく目の前の問題を少しずつでも解決していけば、今までのようにちゃんと合格できるはずだと思っていたから。
ところが蓋を開けてみると、試験に合格できるのはふたりだけだと初めから決められていたのだ。
試験というより罠と言ったほうがいいくらいかもしれない。
そのような内容であることを、アルヴェムハルトやラグランネは最後まで黙っていたのだから。
ララキは結界から出るための大切なキノコをスニエリタに渡してしまっていた。
でも、それはいい。それ自体は間違ってはいないし、後悔もしていない。
ミルンもひとつキノコを持っていた。
一度はララキに渡そうとしてきたが、ララキはそれを突き返してしまった。
それが問題だった。
そのままミルンが食べてくれればよかったのに、彼は手にしていたキノコを無理やりララキに食べさせた。
ちょうどララキが、どちらかを置いて出るなんて嫌だ、と叫んだその瞬間のできごとだった。
それも周到なことに、ミルンは予め握り潰しておいたキノコをララキの口に突っ込んだ挙句、ララキが咄嗟に吐き出そうとするより先に、水の紋唱術で無理やりそれを胃まで流し込ませたのだ。
そして、気がついたら苔まみれで寝台に横たわっていた。
ララキはひとりで現実に戻ってきてしまった。
眼を醒ましてからもう数時間経っているが、ミルンかスニエリタのどちらかが起きてくる気配は今のところない。
きっとふたりとも相手を残すのを嫌がっているのだろう。
キノコはスニエリタが持っているから、彼女が折れるまではずっとこのままだ。
少なくとも、ミルンが目覚めることだけは、ない。
「……ララキちゃん」
気づけばララキの背後にアレクトリアが立っていた。
ララキはすぐさま立ち上がり、彼女に向き直る。
大きな瞳いっぱいに涙を浮かべた少女は、きっと心の底ではララキを罵倒したいに違いなかっただろうに、しかしララキの腕を掴んだだけだった。
ロディルとヴィトレイもそうだ。彼らにとってもミルンは大事な弟なのに、どうして一言もララキを罵らないのだろう。
むしろ、彼らは口を揃えてこう言うのだ──ミルシュコらしいな、と。
それを聞いてまた泣きそうになる。
ララキもそう思うからだ。思えば出逢った日からずっと、ミルンはそういう人だった。
憎まれ口を叩きながらもララキを見捨てないで、ララキの術師としての腕前がひどかったころは熱心に練習に付き合ってくれて。
スニエリタに対して過保護だとさんざん揶揄してきたけれども、彼はちゃんとララキに対しても優しかったのだ。
扱いは雑だったけど、むしろそれが温かかった。
彼はそういう人だった。
「事情はわかった。それで……きみはこれから、どうするの?」
「……それは……」
「ここで旅を諦めて故郷に帰るかい? それともひとりでもアンハナケウへの旅を続ける気はあるか?」
ロディルの問いにララキが答える前に、腕を掴んでいるアレクトリアの手にきゅっと力が入る。
答えは決まっている。
こんなに胸が痛いのに、この痛みを分かち合える人間はララキの傍にはいない。
頼りになる仲間や友人を失った今、この先も旅を続けていくのなら、今までよりずっと苦労することになるだろう。
目の前にどんな困難が待ち受けていたとしても、これからララキはそれを自分ひとりの力だけで乗り越えなければならないのだから。
何かあったとき、ララキを助けてくれる人はもういないのだ。
逆にララキのような大して立派でもない人間を頼ってくれる人も。
手を差し伸べてくれる人や、気遣って声をかけてくれる人や、ちょっとした失敗を笑い飛ばしてくれる人や、くだらない雑談に付き合ってくれる人は、もう。
それでも、──もちろん、答えは決まっている。立ち止まっても仕方がない。
歩き続けていくほかにララキの選べる道はない。
何をしてでも、どんな犠牲を払ってでも、必ず彼を助けると決めているから。
そしていつかは、誰も傷つけないで済むような、そして傷つけてきた人たちを救えるような、強い術師になりたいと思うから。
「旅、は、続ける」
アレクトリアの両肩に手を置いて、じっと彼女の眼を見つめる。
ほんとうにこの眼はミルンのそれとそっくりだ。色も形も彼のとまったく同じだ。
だから今ララキはきっと、彼の妹を通して彼に向かって誓うのだろう。
「アンハナケウに行く。そこで、ミルンとスニエリタのことも、お願いする。ふたりを返して、って」
「ララキちゃん……」
「……レーちゃん、それからロディルさんとヴィトレイさん。ほんとうにごめんなさい。
でも、絶対にふたりを取り戻すから、もう少しだけ待ってて」
ふたりはララキが巻き込んだようなものだから、責任はララキがとる。
もしふたりをこの世に返すのに、何かの代償を支払う必要があるのなら、それは何年かかってでもララキが背負う。
絶対にふたりのことを諦めない。だからそのためにも、旅は続ける。
ララキの瞳に力が戻ったことを見とめ、ロディルは頷く。
次男の反応を見て、長男は納得したという顔で息を吐き、末の長女は目頭を拭った。
もう、この家に長居はできない。
明日の朝にでも出立しよう。
少しでも早くアンハナケウに着くために、一秒たりとも無駄にはできない。
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