123 きょうだいの心

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 朝食を摂っていると、髪がくいと引っ張られた。

 そんなことをする人間はこの家に一人しかいない。


 案の定、振り向こうとしたロディルを小さな手が制し、前向いてて、という妹の声がした。


 くしを通される感触がなんだかやたらに懐かしく思えた。

 自分でもいてはいたが、人にやってもらうのとではずいぶん違う。

 絡まったり髪を傷めないよう、毛先のほうから少しずつ丁寧にくしけずっていく優しい手つきに、アレクトリアも女の子なんだなあとしみじみ感じた。


 妹もいつかは誰かと恋をするだろうか。そのときもこうして、その人の髪を梳くのだろうか。


「……よーし! もう、ジーニャったらずっと頭ほったらかしだったでしょ? くしゃくしゃだったよ」

「ありがとね。まあここ何日かは寝たきりだったし」

「あ、まだ動いちゃダメだってば。結ったげるからじっとしてて」

「……いいよ」

「ダメ。下ろしっぱなしじゃみっともないでしょ。ほんっともう、ジーニャもミルシュコも身だしなみが適当なんだから」


 ぶつぶつ言いながら、アレクトリアはロディルの髪を編み始めた。


 髪くらいロディルだって自分で結える。忙しい両親に手間をかけないよう、物心ついたころから自分で身支度を済ませていたし、なんなら弟妹が幼いころは手伝ってやっていた。

 今アレクトリアがやっている髪の編み込みだってかつてロディルが教えたものだ。


 あえて髪を放っておいたのは、ナスタレイハの指の感触を忘れないでいたかったからだった。


 彼女は結局ロディルの髪を結い上げる前に帰郷してしまった。

 それからずっと、編んだところが自然に解けていくのをそのままにしながら、いつか元気になった彼女にまた結ってもらうことを願掛けのように祈っていたのだ。


 しかしそんなことを妹に説明するのも気が進まないので、今日は好きにさせておく。

 それにさんざん迷惑をかけているのも事実なのだ。家にいる間くらいは彼女の指示に従うべきだろう。


 身体は着実に回復している。

 もう少し楽に長い距離を歩けるようになったら、ロディルはまた家を出るつもりだ。


 どんなに遅くとも、雪が降り始めるまでには。


「ところで今日はミルシュコたちを見かけてないけど、朝早くからどこかに出かけてるの?」

「ううん、三人ともまだ寝てる。さすがにちょっと遅いね」

「……だいぶ遅いね。リェーチカ、起こしにいっておいで。あとは自分でできるから」

「うん」


 もう半分以上結い終わっている髪を自分の膝の上に持ってきて、続きをする。

 ひと編みごとに胸の奥がじりじりと痛んだ。


 ほんとうはきっと、こうして辛くなるのがわかっていたから、自分では結いたくなかったのだろう。


 この髪に彼女の手が触れることはもう二度とないかもしれない。

 サーリの秘薬が効くかどうかもわからないし、たとえそれで病は快癒したとしても、それだけではロディルは彼女を迎えにいけない。


 もっと強くならなければ。今度こそ彼女を守れるような男になって、それでやっと会いにいける。


 果たして自分の思考がどれくらいまともなのか、ロディル自身よくわからなくなっていた。

 傍から聞いたらおかしなことを考えているのかもしれない。

 会いたいのなら会いに行けばいいと考える人もいるだろう、病気さえ治せばそれで充分彼女を幸せにできると言う人もいるかもしれないが、ロディルにはどうしてもそう思えなかった。


 強い術師にならなければならない、という観念にとり憑かれている。

 それがナスタレイハの望みだったからか、自分でそうなりたくて戦うのか、あるいは身体を傷つけることで心のどこかを癒しているのか。


 わからなかった。


 一体自分は何を得た時点で満足できるのか、彼女を迎えにいけるようになるのか。


「……ジーニャ!」


 ぼんやり物思いに沈んでいると、血相を変えたアレクトリアが戻ってきた。


 生来泣き虫な妹はすで半べその状態だったが、まだ涙を零していないだけ成長しているように感じる。


「どうしたの?」

「三人とも、揺すってもつねっても起きないの。それにずっとうなされてるの……!」


 なるほど穏やかではない状況らしい。


 念のため、ロディルもようすを見にいくことにした。

 といっても歩くのさえまだ楽ではない身体だし、女性の寝室に入るのは気がひけるので、とりあえずミルンの部屋へ向かう。


 机の上には山ほど資料が積み上げられていて、どうやら寝る前に今後の予定でも考えていたらしいことが伺えた。

 その脇の寝台に横たわった弟は、小さく呻き声を上げ、たまに顔をしかめている。

 一応額に触れてみたが熱があるわけではないようだ。


 少し考えて、ロディルは机の上にあった弟の手袋を拝借し、紋章をひとつ描いた。


「──我が友は潜考する」


 光を放つ紋章から、するりと獣が顔を出す。


 横向きの瞳孔がロディルを見、そして室内を見回して、少し戸惑うような仕草で残りの身体を引っ張り出した。

 暗褐色の長い毛に覆われた胴と四肢、それから頭部に立派な角のある牡ヤギだった。


 ヤギは角を周りにぶつけないように気を遣っているようすで、見るからに窮屈そうにしながらロディルの隣に降り立つ。


 ロディルはまず、ヤギの首筋のたっぷりとした毛に指を滑らせた。

 彼はここを撫でられるのを好むのだ。


「悪いねグリューエル、狭いところで呼び出して。ちょっと弟のようすがおかしいんで見てほしい」

『承知した』


 グリューエルと呼ばれたヤギはミルンの顔や胸あたりに鼻先を寄せ、匂いを嗅ぐような仕草をする。


 獣の中には相手の持つ紋章の状態を嗅ぎ分ける能力を持つものがいる。

 種族的なものではなく、自然の中で偶然にその個体だけが生まれ持つ特殊な才能だそうだが、数が少ないためそのあたりの研究はあまり進んでいない。


 このグリューエルもロディルが旅の間に偶然ワクサレア北部の山岳地帯で出逢った、そのような能力のあるヤギである。


 もともとはナスタレイハの治療に役立ってもらえるのではないかと考えて契約を結んだ。

 今のところ、ロディルが花ハーシの里を訪れていないこともあって、もっぱらロディルと他の遣獣たちの補佐として力を発揮している。


 しばらくヤギはミルンの匂いを嗅ぎ続けていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。


 獣は表情がわかりにくいものが多いが、ヤギもそうである。

 眼が顔の両側に離れているせいかもしれない。


 弟の状態が良いものなのかそうでないのか、その表情からはわからないので、ロディルはじっと言葉を待った。


『……不明瞭な状態だ。ロディル、このような者を、私は初めて嗅いだ』

「と、いうと?」

『まるで死んでいるように何も感じられない。だが、見たところ彼は生きている。確かにそこに紋章はあるようだが……ちょうど紋章だけが何かの膜に包まれているようにも思える』

「ふむ。その膜っていうのは、何らかの結界と考えることもできそうか?」

『ああ、まさしくそうだろう。別の力に覆われている』


 グリューエルはもう一度その匂いを嗅ぎなおし、


『かすかだが、獣の匂いがある。肉食か雑食のようだ。……単なる獣ではない、高次の存在だ。精霊か、あるいは』

「神か」

『……その可能性も否定はしない』


 なるほど状況は読めてきた。


 三人同時に昏睡状態に陥ったことからしても、全員でどこかの神の結界に攫われているということだろう。

 グリューエルの嗅覚を以て食性が嗅ぎ分けられないということは相手は複数いるかもしれない。


 何かの対話に臨んでいるのか、あるいは試験とやらを受けているのか。

 どのみちロディルにできることはないと判断し、ロディルはグリューエルに礼を言って帰した。


 対話しているだけなら放っておいてもそのうち眼を醒ますだろう。

 試験だというなら、それも彼ら自身の力で乗り越えるしかない。どんな内容のものかは知らないが。


 ミルンの部屋をあとにして、一旦台所へ戻る。


 片付けをしていたアレクトリアがロディルに気づいてぱっと顔を上げた。

 よほど心配なのだろう、もう眼が真っ赤になっている。


 果たしてこれも自分の役目だろうかと、ロディルはなんとか彼女の隣まで歩いていって、精一杯優しい言葉で伝えた。


 三人は、昨夜話していたような冒険を夢の中でまだ続けているようだ。

 それが一段落するまでは眼を醒まさないだろう。

 いつまで眠ったままかはわからないけれど、きっとそう長くはかからないはずだから、信じて待っていてあげよう、と。


「大丈夫なの?」

「これまでもいろんな試験を受けてきたって、夕飯のときに聞いたろう。今度もなんとかするよ。大丈夫」

「……どうしてミルシュコはそんな大変な旅をしてるのかなぁ……っ」


 やっぱり泣き出してしまった妹の、頭を撫でて宥めてやる。

 兄ばかり三人がかりで少し甘やかしすぎたか、歳のわりに幼いアレクトリアは、嫌がりもせずに大人しくロディルにくっついていた。


 おまえのためだろうね、とは、もちろん言わない。


 ロディルにとってはミルンもアレクトリアも下のきょうだいで、どちらもずっと守り慈しむ存在だった。

 だが、ミルンにとってはアレクトリアだけがたったひとりの妹で、上ふたりと違って里や水ハーシ族への貢献を第一に考えて生きなくてもよかったぶん、彼の関心と意識はすべてアレクトリアに向けられていた。


 最低限の学歴だけで、自分のやりたいことなど考えもせずに家に入った妹。

 都会の女性たちが享受している楽しみの一切を知らず、代わりに水ハーシ族に対する世間の偏見と悪意をも受けず、この狭い町だけを己の世界として生きているアレクトリア。


 妹に広い世界を教えてやりたい。

 でもそれにはまず水ハーシ族の環境を改善しなくてはいけない。


 たったそれだけために、よりによって神の紋唱などという尊大な野望を抱くような人間は、世界中探しても他にはいないだろう。


 留学先で出逢った少女にすべてを捧げたロディルより、ミルンのほうがずっと家族思いだ。

 それもある種、呪いとも呼べるほど強固な感情に縛られた、不自由で哀れな愛を背負っている。


 フィナナでロディルと再会したときに見せた弟の表情を、ロディルは今もはっきりと覚えている。

 あんな顔をさせてしまったことに良心が痛まないと言えば嘘になる。

 そしてこんな裏切り者のロディルを、まだ兄と慕ってくれていることに感謝している。


 だからせめて彼らが眼を醒ますまでの間は、彼の代わりにアレクトリアの傍にいようと思う。


 それが最低限の兄としての務めだ。


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