105 欠けたる月は望(もち)を恋う

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 ヒツジの女神は泉のほとりに佇んでいた。

 静かな水面を眺めながら、彼女は何を思うのだろう。

 美しいルーディーンは何をやっても絵になるが、何もしていなくても充分に玲瓏で、溜息が出るほど羨ましかった。


 どうして自分はこうなれないのだろう。


 わかりきっている、生まれた場所と名前のせいだ。


 昔はその姿が見えるほど近づくことさえ容易ではなかったルーディーンに、今は簡単に駆け寄れる。

 あのときこうだったらと思わないではいられない。


 あのころ──まだがこのワクサレアにいて、ペル河の下流を支配していたころに、こうだったら、きっと彼女も自分と同じところまで堕ちていただろうに。


 この世は神に満ちているが、神の運命を決める者がもしもいるのなら、そいつは最低で悪趣味だ。


 どうしてこんな女神の傍に自分を創ってしまった。

 しかも自分の意思でここを離れることができないのだから、未来永劫この女神ひとを妬みながら生きていけというのか。


「……ラグランネ、何か用ですか?」


 ふとルーディーンは顔も上げずにそう言った。まあこちらも気配を隠してなどいないので、草陰からそろりと姿を現す。


 ちっぽけな黒い身体。面白くもない顔の隈取。

 泉に映る己の姿にラグランネはまた溜息をつく。


「別に対した用でもないわよ。でも、ほら、盟主サマには定期的に顔見せって規則でしょ」

「ああ、そうですね。それで何か変わったことなどもないのですね?」

「そうね。……しいていえばぁ、この前あなたに見られた件で、ちょっと言い訳させてもらってもいいかしらぁ」


 わざとねちっこい言いかたをしてルーディーンを見る。


 彼女がどんな反応をするのか見たかった。少しくらい顔色を変えてくれるかな、という淡い期待は、予想外の表情に裏切られた。


 今までルーディーンのこんな顔は見たことがない。こんな、険しい面差しは。


 草食動物相手に噛みつかれそうだと思ったのも初めてだった。

 それを目の当たりにしたラグランネの胸はぎりぎり痛んだが、それは決して、ルーディーンに対する恐れや後悔からではない。

 そうだったらまだよかった。ほんとうに心からそう思う、せめてこの辛苦が彼女への悔恨だったならどんなによかったか。


 ラグランネだって、ルーディーンのことが嫌いなわけではなかった。


 近しい地に生まれた女神の先達として、尊敬しているし、憧れているし、できるなら彼女をよき友として仰ぎたかった。

 でもそれは無理だ。こんな環境でまっすぐにそう思えるほど、ラグランネは強くはない。


「……別に信じてくれなくてもいいんだけど、カーイは無理やり付き合わせただけだから……」


 まるで懺悔のような暗い声音でそう告げる。

 信じてくれなくてもいいなんて嘘だ。誤解されたままのカーシャ・カーイのことを思うと、信じてもらえそうになくても言わずにはいられない。


 我ながら愚かな女だと思っている。

 こんなことなら、初めから何もしなければよかった。


「あのね、うち、彼の秘密を知ってるの。彼が誰にも知られたくない秘密よ」

「つまり……あなたはカーイを脅しているの?」

「そう、そういうこと。だからね、あの日だって彼は嫌々、しぶしぶ、仕方なくって感じで……」

「それを私に話して何になるというんですか」


 ルーディーンは呆れたようにそう言ってふいと顔を逸らした。

 まるでカーイのことなんてどうでもいいと言わんばかりの態度だが、内心そうではないことはさっきの顔からしても明らかだ。ルーディーンだってカーイのことを意識している。


 おかしいなあ、つい最近まではぜんぜんそんな素振りなかったのに──ラグランネは心の中で自嘲した。


 だからちょっとだけ、彼女にできないようなことをしてみたかった。

 カーイがいくらルーディーンに心酔していても実際に彼女に触れることなんてない、肩を抱くのがせいぜいで、それ以上の接触を彼は躊躇っている。

 だから今でもルーディーンは不可触の女神のままなのだ。


 ルーディーンがカーイを相手にしていないから、安心してちょっかいを出せた。

 そのはずだったが、どうやらそんなモラトリアムももう終わりらしい。いざ終わってしまうとひどく短かったように思えてならない。


「何にもならないのはわかってるわよ。言いたいから言っただけ。……あとの解釈は好きにしてちょうだい」

「まったく何かと思えば……。

 でも、いい機会ですから私からも言わせてもらいますよ。あなたの普段の態度には問題があります。ラグランネ、あなたもワクサレアの一柱の女神として、もう少し節度を持ってもらわないと」

「……はい、気をつけますわ」


 そろそろ自嘲から苦笑に変わろうとしているのを感じながら、ラグランネは努めて平静に応える。


 ルーディーンはさも話題をずらしたように見せているが、結局言いたいことが変わっていない。次にあんな真似をしたら許さない、ということだろう。


 だって、今までラグランネがあちこちの男神と絡んでいるのを彼女はずっと黙認してきた。もし内心で良くないと思っていたならもっと早くに言っていたはずだ。

 それにこの件に関してどこかから苦情が上がってきたとは考えにくい。

 男神たちは良い思いこそすれ、ラグランネに対して悪感情を抱くことはないのだから……そうなるように振舞ってきたのだから。


 ラグランネのような力の弱い女神がなんとかして生き延びるためには、こういう生活をするしかなかった。

 他の女神はそんなことないじゃないか、という声もあろうが、こっちは生まれからして違う。


 ともかく媚を売ることに関してラグランネの右に出る女神はいないだろう。


 むしろ今さらラグランネと気安く猥雑な関係を築けない、これまでのように誘いに応じないとなったら、不満に思う男神さえいる。

 戦乱の時代を生き延びた神のほとんどが男神だったため、数少ない女神に餓える神は少なくない。


 カーイやドドのように地位が高く能力に優れている神なら幾らでも女のほうから寄ってくるが、中堅以下の神はそうではない。ラグランネと触れ合って初めて女を知った神もいる。


 確かにラグランネは傍から見たら尻軽の下品な女神だろう。でも、そんなラグランネを必要とする男神がいる。

 需要だけでいったらルーディーンのような気高いばかりの女神よりずっと高い。


 だからあえてそういう地位に甘んじているのだ。

 どうせ元から汚かった身体を今さら大事にしても仕方がないし、それならラグランネは求めに応じ、もちろん代わりに受け取るものもある。

 彼らの力の一片であったり、あるいは政治的な協力関係であったりする。何か優遇してもらったり意見を支持してもらうこともある。


 彼らはそれだけでなく、ラグランネを褒めてくれる。優しくしてくれる。

 かわいいよ、きれいだよと心づくしの言葉をくれて、彼らなりにラグランネを愛でてくれる。


 唯一何もないのはカーイだけだ。何も得られず、乱暴で冷たい行為だとわかっていて強請る。

 百万の褒め言葉よりもそのほうが欲しかったから。

 誰に何を言われても意味がない、罵倒でもいいからカーイの口から出た音が欲しいのだ。


 でも、それも終わり。


 ルーディーンに直接咎められてはこれ以上わがままも言えないだろう。盟主に楯突くような度胸はラグランネにはない。


 ぼんやり思う。泣きたくなったら誰のところに行けばいいのかな、と。

 悲しいことに当てだけはいくらでもある。そのどれもが決定的に慰めに欠けることが、今は空しい。


「ねえ、ルーディーン……ほんとうは──」


 言いかけたところでルーディーンがぱっと顔を彼方に向けた。

 つられてそちらを見ると、青青とした草原には似つかわしくない砂混じりの乾いた風が吹き込んで、背の高い草を揺らしているところだった。


 ややあって風から金色の獣が飛び出す。

 いいなあ、きれいな色と模様で、とラグランネは思う。


 フォレンケは着地するなりラグランネの姿を認め、明らかに困った顔になった。


「あ、……やあ、ラグランネ。きみもいたんだ」

「何よぉその顔。ルーディーンに用事?」

「うん、まあ」

「……うちがいると困るような話をしたいんだぁ、へーえ、ふぅん……」

「ちょ、ちょっと誤解しないでよ? べつにラグランネに聞かれたって構うような内容じゃない……と思うから……たぶん」


 言いよどむフォレンケに、何かあったんですか、とルーディーンは尋ねる。

 とたんにフォレンケの表情から強張りが解け、ヤマネコはいつもの朗らかな声音でそれに答えた。


「カーシャ・カーイからの通達だよ。オーファトのところにいるララキ一行についてなんだけど」

「……それがなぜ彼から?」

「え、何その顔……簡単に言うとスニエリタがマヌルドの家に戻るかどうかで揉めてて、今はみんな怪我して寝込んでる状態なんだけど、彼女の背にはタヌマン・クリャが唾つけてるだろ。それで……ええと、ヴィーラに任せるより自分が面倒みたいってカーイが」

「あー、ヴィーラはものぐさだもんねぇ」

「そうそう、そんな感じ。だからカーイが直々に出向いて三人だけ保護しようとしてるんだけど、先にクシエリスル全体に通達して許可とってる暇ないから、とりあえずオヤシシコロとヴィーラ以外は事後報告で済ませるって」

「相変わらず行動が破天荒というか、自由な神ですね」


 ルーディーンの深々とした溜息にフォレンケの苦笑が重なる。ラグランネとて、ここまで人間に対して柔軟な対応ができるのも、神多しと言えどもカーイくらいなものだろうと思う。

 クシエリスルにおいては極力人間の生活に介入しない方針が定められているからだ。


 介入しない、というのが具体的にどの程度かは明記されていない。

 原則として、人の生命に触れたり歪めたりすることは大罪とされているが、それ以外については規定がない。

 簡単に言えば神の都合で人の生死を左右してはいけないというだけだ。


 あとはそれぞれの神が良識に基づいて人間たちとの適切な距離を保つこと、というのがヌダ・アフラムシカの考えだった。


 もともと神によって人間に対する態度は異なる。

 積極的に神託を与えてあれこれ指示を出したがる者もいれば、基本的にほったらかしにしておく者、戦争や商業など特定の分野に注力する者、もしくは普段から人間に混じってその生活を間近に観察するのが趣味という者もいる。


 それらを否定せず、最低限の枠組みだけ作ってその中では自由にしてもいい、とアフラムシカは考えた。

 その枠を担うものがクシエリスル合意なのだ。


 数多の神々をまとめるにあたり、あまり制限をつけて縛りすぎるとどうしても反発が増えてしまうから、そうならないために極力緩やかな策をとらざるをえなかったのだろう。


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