106 渇望する獣たち

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「了解しました。オヤシシコロとヴィーラへもあなたが連絡を?」

「ううん、それはカーイが自分でするってさ。……さっきも嫌そうな顔してたけど、ルーディーン、カーイと何かあったの?」

「……いえ、別に何もありませんよ」


 言いながらルーディーンはちらりとラグランネを見た。


 釘を刺されたようだったので、余計なことなんて言いませんよ、というつもりで肩を竦める。

 こっちだって進んで話したいことは何もない。


 そんな女神たちのやりとりを見て何か思うところがあったのだろうか。フォレンケは訝しげな眼でふたりを交互に眺めたが、それ以上は追求してこなかった。


「まあいいや、とにかく連絡は以上です。

 あと……えっと、ラグランネ。わかってると思うけど、他の神にはこの話、まだしないでおいてよ」

「どして? あとであれこれ言われなくて済むじゃない」

「そのほうがカーイにとっては楽だからだよ。どっちにしても文句言うやつはいるだろ、先に知ったら口出しだけじゃ済まないことだってあるんだし……」

「ああ、面倒は最後にまとめて、ってことなのね」

「そういうこと。じゃ、ボクは帰るね」


 ふたたび砂風に包まれて消えるヤマネコを見送って、ラグランネもルーディーンの御前を辞することにした。


 涼やかな草原を抜けて中央東部の雑木林へ。

 寂しくて湿った己の棲処へ戻るのだ。


 帰路でぼんやりと考える。

 ルーディーンのこと、カーイのこと。フォレンケから聞いたこと。


 昔だったら、反対した者を力ずくで潰してしまえはそれで終わりだった。

 今はすべての神に自分の意見を述べる権利があり、誰かが何か大きなこと、とくに自分の信仰領域外にも影響が及ぶようなことをする際には、アンハナケウに集まってすべての神から承認を得なくてはならない。


 カーイにとっては今のほうがやり辛いのかもしれない。他の盟主も、ルーディーンのような平和主義者は別として、以前の実力だけがものを言う世界のほうが性に合うだろう。

 実際そこで頭角を現したからこそ今の地位がある。


 でもラグランネのような力の弱い神にとっては、そこは地獄のようだった。


 近くに自分より強い神がいたら逆らえない。喰われるか殺されるか、あるいは好きなように弄ばれるか。

 その神の性格にもよるだろうが、ラグランネの前に立ち塞がっていたは、考えうるかぎり最低で最悪な神だった。

 邪悪だったと言ってもいい。


 まだ幼い精霊で、ようやく自我に目覚めたかというころ、ラグランネはそいつに見つかってしまった。


 ……そのころのことは思い出したくもない。

 ただ言えるのはそいつが幼いラグランネに一切の容赦をしなかったということと、命だけはとらない代わりに他のすべてを奪ったことだけだ。


 その地獄を終わらせてくれたのが他ならぬカーイだった。


 あれは、まだ彼が神格を持っていたかどうかわからないころ、あちこちで無差別に神を喰い漁って、恐怖とともにその名が知られ始めたあたりだろうか。

 地神の恐怖政治のもと、外界との接触もままならなかったラグランネはまだ彼のことを知らなかった。


 たぶんそのときカーイは、気まぐれに南方にでも出向いて神を喰った帰りだったか、あるいはルーディーンの姿でも遠目から眺めに来ていたのかもしれない。

 ともかくラグランネを支配していた地神と出くわしたのは偶然だった。


 そして彼はその異名のとおり、眼を合わせたそいつを骨まで貪り喰ったのだ。


 凶行はラグランネの目の前で行われ、あまりの恐ろしさにすぐ草陰に隠れたラグランネの耳には、そいつの悲鳴と断末魔と喰われている間の骨や肉が軋み千切れる音まで、はじめから終わりまですべて届いていた。


 耳は塞がなかった。

 恐ろしくはあったが、嬉しかったからだ。大嫌いなあいつが殺されていると思うとたまらなく嬉しかった。

 果たしてこれで自分は解放されるのか、新しい主に慰み者にされるのか、あるいは喰われることになるのだろうか、入り混じる数多の感情で震えながら終わるのを待った。


 あたりが静寂に包まれてから、ラグランネがそっと顔を出すと、もうそこには何もなかった。

 地神は毛の一本さえ残らず喰い尽くされており、カーイはどこかへ去ってしまっていた。


 それからずっと、あのオオカミが何者なのかを知るために生きた。

 地神を失った地方は代わりにラグランネを新しい神として迎え入れたので、神格を得、神として相応しい力を得るためにも奔走した。

 手段は選べなかった。そして、悲しいくらいラグランネが知っている方法はひとつしかなかった。


 カーイと再会できたのはクシエリスルが発足してからだ。ルーディーンを通じてワクサレア国内の神がまとめて勧誘されたとき、盟主の座につまらなさそうに腰掛ける姿を見て泣きそうになった。


 ああ、あの獣だ、あのときのオオカミはこんなに立派な神になっていたのだ。


 彼はあのとき草陰で震えていた小さなタヌキのことなんて覚えていないけれど、それはどうだっていい。

 ラグランネが一生忘れることはないのだから。


 果たしてこの感情は恋か、愛か、崇拝か、あるいはもっと薄汚いものか、ラグランネ自身よくわからない。

 ただカーイの傍に行きたくて思いつく限りのことをした。

 その結果、知るつもりもなかった彼の弱味まで握ってしまった。


 そのせいで思い知ったこともある──彼の心は限りなくルーディーンに注がれていて、彼の思考はいつだってルーディーンを取り巻いていて、彼の行動はすべてその先にルーディーンを見据えている。

 ラグランネが知る彼の弱味とは、すなわちルーディーンを手に入れるために彼が吐いた嘘だ。


 気がつくと、ラグランネの足は雑木林を通り抜けていた。


 このままずっと東に向かえばマヌルドに入る。ペル・ヴィーラのところに行けばカーイに会えるかもしれないけれど、今はきっとそのほうが辛い。

 会いたいけど会いたくない。

 だから、こういう気分のときはいつもさらに東を目指す。


 大陸東端の神アルヴェムハルト。

 なぜかわからないが、最後はいつも彼に会いに行くような気がする。




   : * : * :




 あんな態度をとられたのは初めてだった。


 ヴァルハーレは不自由な身体をどうすることもできずに横たえながら、天井の模様をぼんやりと眺めていた。


 木目が人の顔のように見える。

 誰に似ているでもないそれが、たまに見知った誰かのようにも思えるのが不思議で、そんなくだらないことを考えられるくらい今は暇だった。


 朝からスニエリタとはほとんど口を利いていない。ロンショットが傍に控えているので、何か頼むときは彼を呼びつけている。


 実際ひとりで立ち上がることもできない男の世話なんて、自分よりひと回りもふた回りも小柄なスニエリタにはできるわけがないので、彼女に頼めることはあまりない。

 せいぜい水を持ってこさせるとか、その程度だ。

 ただ、その程度のことすら頼むことを躊躇われるほどに、今朝のスニエリタの態度は冷たいものがあった。


 具体的に何かされたわけではない。むしろ食事の手伝いをしてくれて、その手際にも問題はなかった。


 ただ、その間一度も眼を合わせてはくれなかった。

 ヴァルハーレはずっと彼女を見ていたので、つまりスニエリタが一度もヴァルハーレの顔を見ようとしなかったのだ。


 彼女の視線はずっと手元の粥の入った器と匙に注がれ、それ以外のものを極力見ないようにしているような、あるいはそれに集中することで別のものから意識を逸らそうとしているような感じがした。


 意識しているのか無意識かはともかく、スニエリタはヴァルハーレを避けている。

 最低限の看病と世話はするが、それはあくまで他に動ける人間がいないからで、だから仕方なくやっている。


 そのあとも彼女はずっとハーシ人とイキエス人の傍にいるか、あるいはこの部屋を出てどこかに行っていることが多かった。

 少なくとも自分からヴァルハーレの近くには来ない。

 最初のうちは怪我人が三人もいて忙しいのかと思った、いやそう思いたかったヴァルハーレだったが、昼すぎには彼女が明らかに自分だけを避けていることを認めざるをえなくなっていた。


 そして今は、ずっとその理由について考えている。


 正直わからなかった。

 そもそもヴァルハーレの二十年あまりの人生において、女性からこのような扱いを受けたことがこれまでほとんどなかったからだ。


 恥ずかしがって眼を逸らしてしまう女ならいたが、どう考えてもそれとは違う。

 スニエリタが発しているものは照れや恥じらいなどではない。

 何の温度も持たない冷たい拒絶が、壁のように彼女とヴァルハーレの間に立ち塞がっているようで、そもそもスニエリタの感情が見えてこない。


 そんなにマヌルドに帰るのが嫌なのだろうか。それとも無様に負けたヴァルハーレの姿に愛想を尽かしたのだろうか。


 この世で唯一僕に冷たくする、なんて冗談を出立前に口にしていたが、それでも以前はここまで冷たくはなかったはずだ、とヴァルハーレは思った。

 もし肩を抱いたら、前まではそのままじっとしていたが、今のスニエリタは何か理由をつけてすぐ腕を解いてしまいそうに思える。


 視線を天井から、部屋の入り口付近に向ける。


 スニエリタは昼食の片付けをしに出て行ったまま戻ってきていない。ロンショットも彼女についていった。

 イキエス人の少女も出て行っているが、そちらは掃除をするとかなんとか言っていた気がする。


 気づいたら残っているのはハーシ人の兄弟だけで、なにやら孤独だとヴァルハーレは思った。


 ここに自分を理解してくれる人はいない。

 一体どこで何を間違ったのだろう、あれこれ苦労して下げたくない頭まで下げてマヌルドを出てきて、やっとスニエリタを見つけたと思ったのに。


 どいつもこいつも勝手な理由で邪魔をして、挙句の果てにスニエリタからこの扱いだ。


 わけがわからなかった。こんな気持ちになるのは何年振りだろうか。


 スニエリタに、嫌われたらしい。

 こっちはふた月近く他の男とふらふらしていたことを水に流すと言ったのに。

 一般的に考えても相当な譲歩だろう、他の男なら発狂して彼女を殺してもおかしくないほどの暴挙じゃないか、それをこちらは眼を瞑ってあげると言ったのに。


 意外なことに、今は怒りはそれほど感じなかった。

 忌々しい敗北から日が浅いせいか、それよりヴァルハーレが求めているのは、誰かの優しさと癒しだった。


 下手な慰めの言葉ならいらない、ただ誰かの柔らかい身体を抱き締めて眠りたい。

 今それを叶えられるのはスニエリタしかいないのに、彼女はヴァルハーレを避け、あまつさえ冷たい態度を示す。


 まるで、とヴァルハーレは声を出さずに呟いた。


 真上の天井にある木目が見知った誰かの顔になる。

 見るたび変わるそれが、今はその人に見える。


 ──まるで、母さんのようだ。


 ヴァルハーレが幼かったころ、母は優しかったし父とも仲が良かった。

 いつからか両親の仲は険悪になり、母は父を嫌うのと同時に息子にも冷たい視線を向けるようになった。


 かつては褒めるために使われた、お父さまにそっくりね、という言葉が、いつしか罵倒のために用いられるようになった。


 今では両親は別居している。相続などの問題で離婚はしていないが、夫婦が顔を合わせることはほとんどない。


 強い男になりなさいと、父は言った。

 優しい男になりなさいと、母は言った。


 そのどちらも叶えたはずだ。

 マヌルドでは誰より強い紋唱術師になったと自負していたし、多くの女に優しくして、全員を愛して幸せにした。

 努力は惜しんでいないのに、なぜハーシ人などに負けたのか。


 なぜスニエリタだけは自分を愛してくれないのか。


 どうしてこんなに上手くいかないのか。

 わからなくて、悔しくて、やるせなくて、涙が出そうだった。男としてこんな状況で泣くわけにはいかないと、必死に目頭に力を入れて堪える。


 歯を食いしばりながら、おかしいなあと、内心で自嘲している部分もあった。


 スニエリタのことなんかどうでもよかったんじゃなかったのか、と自分に語りかける。

 とにかく結婚さえできればいいと思っていたのに、今は嫌われたことにショックを受けているなんて。


 もし彼女のほうから婚約の破棄を言い出したとしたら、まあよほど将軍は認めないとは思うが、ヴァルハーレにはそれを止める力はない。


 ──でも、それは、さすがにないよなあ。


 強張っていたヴァルハーレの顔は次第に緩み、最終的に薄ら笑いに変わった。


 仮にも婚約者であるヴァルハーレのことをないがしろにし、ハーシ人なんかとうろうろ二カ国も旅をしていた挙句、婚約を解消しようとなんて、できるはずがない。

 あのスニエリタにそんな度胸はないはずだ。


 だが、だがもし、ハーシ人に変な入れ知恵をされていたら。


 ああ、思えば昨日のスニエリタはいつになく強情だった。もう素直で無知でおとなしい少女ではなくなってしまったのかもしれない。

 ヴァルハーレを捨てて他の男をとるかもしれない。


 そんなことが、あっていいはずがない。


 もしそうなったら、ヴァルハーレはきっと、スニエリタを殺してしまう。


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