097 残響
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それはロディルにとってもぎりぎりの賭けだった。幾つかの始末を終えるために、どうしても何回かは相手の攻撃も受けなくてはならない。
さすがは帝国学院始まって以来の秀才と名高かったヴァルハーレだ。こんなに苦戦させられる相手には久しぶりに会った。
できれば相手にも同じように思ってもらえると嬉しいが、そもそも人間として同格とすら思っていなかっただろうから、きっと向こうの精神状態はそれどころではあるまい。
彼の世界においては遥かに格下だったはずのロディルに競り合われて、きっと屈辱的だろう。
だが、それくらいでは、こちらが味わってきた辛酸の一部でも理解できまい。
踏みつけられ虐げられて、果ては人間としての尊厳さえ奪われかけた"彼女"の苦しみはそんなものではない。
好んで人を憎みたくはなかったが、生来温厚で優しすぎるとまで言われて育ったロディルであっても、一片の悪意をも抱かずに対峙するのは不可能だった。
できるならもっとこの男を辱めてやりたかったが、さすがにロディルにはまだそこまでの力がなかった。
だから今の自分にできる最良の方法で追い詰めることにした。
痛みは当然ある。
直撃していたら手足の数本は簡単に失えるような暴力を、緩衝材越しとはいえ何発も受けている。
肉は裂けたし血は吹き出ている、中には被害が骨に達したものもあるだろう。
だが腕はまだ取れてはいない。
充分に肘も指も動かせるし、視界もしっかりしていて描き損じの恐れもない。
口も多少は血で粘ついているが発声がままならないほどではない。
あと一発。それで終わりにしよう。
そう決めたらあとは腹を括ってわざとかすかな隙を作る。
もちろん相手はそれを見逃さない、それだけの度量がある男と認めているからこそ、こういう手が使えるというものだ。
失敗したら逆にこちらは死ぬだろうが、だからといってもう逃げられる段階はとうに踏み越している。
受けるのをやめたとしても死ぬのが遅くなるだけだ。
それなら、生き延びて一矢報いることに賭ける。それに失敗することなんて初めから考えるだけ無意味だ。
この戦いは、彼女のためのもの。
しかも弟が見ている前で兄が無様に負けるわけにはいかないだろう。
「
炎の槍、いや、槍と呼ぶには太すぎるものが、ロディルを貫かんと迫ってくる。
重ね描いた別の術もそのうしろから畳み掛けられている。
ロディルはそれを確認してから遅すぎるくらいの反応速度で指を振る。すでに向こうが次の攻撃の準備をしていることは承知の上だ。
息を吐き、深く吸いなおしてから、……描いたのとは別の紋章を叩いた。
「
ロディルの周りには小さな紋章が多数浮いている。いや、空中だけではなく地に落ちているものもある。
もはや途中から数えるのをやめているが、体感としてはざっと百五十くらいは描いたはずだ、それらが一斉に光を放つ。
淡い紫色に光って、それが川のようにヴァルハーレの足元にまで続いている。
気づかなかったはずだ、泥水と雪とで隠して少しずつ運んでいたのだから。
重低音を響かせて大地が揺れる。
紋章の数だけそれが繰り返される。
ひとつの紋章につき数十回から百回以上にも及ぶ。
ヴァルハーレが足場を失って転倒したと同時に、ロディルはさっき残した紋章をようやく発動させた。
「対連円、
地鳴りと地割れ、それらを引き起こした紋章の光を拾い上げて、鏡を造る。
防ぐだけではなく反射させるために。
炎の槍も雷の刃もロディルを刻むことはもうない。それらはすべて巨大な円形をした鏡面へと吸い込まれて、それからそれらを生み出した主のもとへと返っていく。
ヴァルハーレはそれらを防ぎたくても今は立ち上がることさえできないし、激しい地鳴りの中で紋唱を行うのは不可能だ。
それでいい。丸腰で這い蹲って屈辱に震えろ。
ヴァルハーレが叫んでいるのが聞こえる。
ロディルはそれを安全なところから見下ろしている。地割れも何も関係のない浮遊する岩の上で悠々自適に術を組みながら、万が一ヴァルハーレが反撃してきた場合に備えることもできる。
炎の槍が着弾したところで凄まじい爆発が起こり、彼の怒号を飲み込んだ。
続けざまに返された術のことごとくがヴァルハーレのいたあたりに殺到し、そこにさらにロディルが別の術を叩き込んだこともあり、轟音が鳴り止むことはしばらくなかった。耳がおかしくなりそうだ。
身体じゅうの痛みに意識が落ちそうになりながらも、両脚に力を入れてなんとかその場に踏み留まる。
見届けなければならないからだ。最後まで気は抜けない。
あたりが静まり砂埃のすべてが地に還るまで、ロディルはそこに立ち続けた。
しばらくしてようやく風の音が聞こえるようになってから、ロディルは岩を降りた。
ヴァルハーレは地面に倒れている。踏み潰されたカエルのように無様な姿で、はっきり言って胸がすっとした。
それでも確かめるために彼に歩み寄る。彼がどんな顔をしているのか知りたかった。
ロディルがすぐ傍まで行っても彼はぴくりとも動かず、死んでいるかのようだった。
だがそれはありえないので、ロディルはその肩を掴んで無理やり仰向けにさせた。
その瞬間こちらも腕などにかなりの痛みが走ったが、向こうも同じように呻き声を上げた。
女子の羨望の的だった顔は傷だらけ、髪もぐしゃぐしゃになったヴァルハーレは、涙の滲んだ眼でロディルを睨む。
「な……んだ……最後の……あれは……」
「緩衝になる術を挟まないと、さすがに死ぬだろうからね……かろうじて生きてるね、よし、よかった」
「ふざけるな、貴様なんぞにこんな……、もう死んだほうがマシだ、クソ……」
「そうだろうとも。生きてなきゃ屈辱は感じられないものな……だから生かすんだよ。生きて、反省するんだ。自分の不用意な言動がどれだけ人を傷つけられるのかってことを二度と忘れるなよ」
「……ナスタのことなら、あれは僕のせいじゃ……」
「間接的な原因はきみだろ。そして、そのあとどうなったか知っても止めなかった……!」
そのときロディルは、きっと地獄の鬼のような顔をしていたに違いない。ヴァルハーレはひっと息を呑んで、それ以上何も言わなかった。
ロディルは彼をその場に放置すると、ふらりと立ち上がって、そこから離れようとした。
だが、身体がもう限界を迎えていた。
意識が遠のき、脚から力が抜け、……そのあとどうなったのかはわからない。
恐らく倒れたのだと思う。
光も音も感覚もない世界に、転がり落ちた。
そのまましばらく暗闇に沈んでいたが、いつの間にか周囲で、がさがさと耳障りな音がすることに気がついた。
明るい光が差し込んであたりを照らす。広々としたきれいなホールと、豪奢な生地を使った衣装に身を包んだ男女の群れ。
夢を見ていることにはすぐに気づいた。
なぜならそこは、マヌルド帝国立紋唱学術院の大広間だったからだ。
年に一度、生徒と教員、そしてそれ以外の従業員を含めた学校関係者が一堂に会する儀礼がある。
普段は制服を着ている学生たちも、その日だけは正装で登校する決まりになっている。
だがもちろんハーシ人であるロディルはマヌルド人の正装──つまりマヌルドの伝統衣装など持ち合わせていない。
このために一式買うのもおかしいので、腹を括ってハーシの民族衣装を着た。
襟の形も肩口の形式も素材も何もかもマヌルドのそれと違い、そして長い銀の結髪のこともあり、案の定ものすごく浮いた。
さすがに恥ずかしかったので、ロディルは自然と広間の端っこに佇むことになった。
あとは儀礼が終わるのを待つしかない。授業は制服に着替えて受ければいいから、この時間さえ早く終われば。
そんなことを思っていたら、同じように端っこで小さくなっているどう見てもハーシ人の女の子がいたので、ロディルは心底驚いたのだ。
故郷にいたころなら考えられなかったが、ロディルは自ら彼女に近寄って声をかけた。
慣れない行為にものすごく緊張したが、よりによってその子がとてもかわいかったので、顔を見るなり余計に緊張で身体が震えた。
『わ、私以外にハーシ人なんていたんだ……! あ、ごめんなさい、驚いちゃって大きい声が出ちゃった……』
『いや、その、僕も驚いたよ……その服、花ハーシ?』
『そうよ。刺繍、かわいいでしょ? あなたは……青ハーシかしら、糸の色』
『いや、水です。こればっかりは服だけじゃわかんないよね』
『え、水ハーシ? 初めて会ったかも……すごいなぁ、まさかマヌルドまで来て水ハーシの人に会うなんて……西部はほとんど行ったことないんだけど、どんなところ?』
『僕の故郷に関して言えばすっごい田舎だよ。湖がきれいだから、水が苦手でなければ一度おいでよ』
『うん、ぜひ』
信じられなかったが、そこが異国で、自分たち以外に同胞がいないという特殊な環境だったせいだろうか、初対面の女の子相手に驚くほど会話が弾んだ。
花ハーシ族はハーシ東部の少数民族だ。
赤ハーシから派生したと考えられ、花柄の美しい刺繍を得意とすること、また風光明媚で春などに花の咲き乱れる平原に暮らすことなどが、部族名の由来になったという。
少数派と言っても水ハーシほどの小ささでも貧しさでもないが、ともかく国内においては多数派ではないのは事実で、そのせいか彼女も水ハーシ族に対する偏見は見せなかった。
苦痛だったはずの儀礼の時間が楽しいものに変わった。
そのあとも、所属しているクラスはどこかとか、苦手な授業は何かといった、とりとめもない話題が尽きなかった。
ふたり並んで学長の話を聞き、あっという間に儀礼が終わる。こんなに短く感じるとは思ってもみなかった。
『じゃあまたね。……あっ、やだ、名前聞いてなかった』
『あはは、ほんとだ。……僕はロディル・スロヴィリークっていいます。みんなはジーニャって呼んでる』
『私もそう呼んでいい? 私はナスタレイハ・コワチです。えっと、……ターリェカって呼んでくれると、嬉しいな』
その日から、ロディルの学生生活は幸せなものになった。
机と椅子がなかろうが、通りすがりに脚を引っ掛けて転ばされようが、教科書を隠されようが、それが落書きだらけになって戻されようが、何にも感じなかった。
ナスタレイハに会えばすべてが吹き飛んだ。彼女も似たような目には遭っているらしくて、ふたりにとっては共通の話題のひとつでしかなかった。
ナスタレイハと一緒にいるときは、そこだけ周りから隔絶されている気がした。
悪い意味ではなく、周囲からの悪意や煩わしいものすべてが入り込めない聖域が作られて、そこで互いに護りあっているような心地がした。
殴られて痣ができたところに、彼女に治癒の紋唱をかけてもらったこともある。
彼女はずいぶん心配してくれたので、ちょうどいい練習台ができたと思ってよ、なんて茶化したところ怒られた。
ナスタレイハは真面目な娘だった。
もちろんロディルも一般的には真面目な部類だったが、ナスタレイハといるときは少し違った。
普段言わないような冗談を言ってみたりして、彼女を笑わせたがった。
別々にいるときがあまりにも辛いから、一緒にいる間だけは笑顔でいてほしかった。
水をかけられようが制服の裾を焦がされようが、殴られようが蹴られようが罵られようが、ふたりでいる間はそれを忘れて安らいでほしい。
自分もそうでありたかったから、努めて笑うようにした。
授業が終わってからはどちらかの部屋に行き、故郷の話をしながら、それぞれの郷土の料理を食べた。
彼女は料理が上手で、なんでも故郷にいたころは仕事で忙しい両親に代わって家事を担当していたらしい。
ナスタレイハは三人姉妹の長女だそうだ。こちらも弟と妹がいるので、きょうだいの話でも盛り上がった。
こんな喧嘩をしたことがあるとか、下のきょうだいたちの仲裁に苦労したとか。共感できる話もそうでないものもあったが、内容なんてどうでもよかった。
お互いに、相手の中に故郷の幻想を見ていたのだろう。
懐かしくて、寒くて、でも温かい場所のことを。
ある日、ナスタレイハがふとこんなことを言った。
『ねえジーニャ、私たち、一緒にいないほうがいいかもしれないね』
『どうして?』
『だって、こうしてると温かすぎて、離れるのがすごく寂しくなっちゃうんだもの』
確かにね、とロディルも返した。
彼女と知り合ってから、教室でひとりで授業を受けているときは、自分でも生きているのかどうかわからないと感じていた。
所属するクラスが違うのだから日中は一緒にいられなくて当たり前だが、彼女がいない間のロディルは無感動の人形のようになる。
それは周りの悪意から身を護るためでもあるが、ともかく言えるのは、ふたりでいるときとそうでないときの差が激しすぎる。
でも、だから会うのを止めるのかと言われたら、それは絶対になしだ。
ロディルはナスタレイハを抱き締めて、彼女もそれに応えた。
どちらが好意を口にしたわけでもなかったけれど、自然とふたりの指は絡み、くちびるは重なった。
たぶん最初は愛情より依存に近い感情だったような気がする。
異国の大都市で、周りから拒絶され続ける環境で、ふたりだけ放り込まれた異物同士、そうやって慰めあうしか道がなかったのだ。
互いの存在を支えにしていなければきっと耐えられなかった。
いや、それすらいつか限界が来ることを、そのころのロディルは知らなかっただけだった。
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