098 哀婉

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 留学も二年目を迎えたころ、ナスタレイハは眼に見えて痩せはじめた。

 もともと細かった身体がより華奢になり、ふっくらしていたはずの頬が少しずつ削れてゆき、言葉数が少なくなった。


 ロディルといてもあまり笑顔を浮かべなくなり、黙ったまま胸に顔を埋めてじっとしているだけの日も少なくなかった。

 どうしたのかと尋ねても、彼女は首を振って応えない。


 だが、直接聞かなくてもすぐに理由がわかった。

 彼女に対する周りの態度が前年に比べて悪化していたのだ。


 逆にロディルのほうは、何をしてもあまりに無反応なので嫌がらせをするのも飽きたらしく、相変わらず机や椅子がないぐらいで大した被害は受けなくなっていたから、彼女のほうだけひどくなったのはおかしい。


 悪化した理由はわからないが、ロディルはナスタレイハの周囲に眼を配ることにした。


 授業が終わったらできるだけ早めに彼女を迎えに行くようにして、彼女がひとりになる時間を作らないようにしていたが、クラスが違うため居場所がわからない日も多い。

 かといって誰に尋ねてもまともに会話をしてさえもらえなかったので、ひたすら自分の足で歩き回って探すしかなかった。

 幸い授業で使う教室はクラスによって決まっているので、何箇所かを回ればたいていすぐに見つかった。


 その日も彼女を探してとある教室へ向かった。

 他の場所はすべて探してそこが最後だったが、教室はもぬけの殻だった。


 だが、教室の隣にはたいてい準備室と呼ばれる備品などを置いておく部屋があり、そこから人の声がしたのだ。

 嫌な予感がしたロディルは準備室のほうへ急いだ。

 密室で何をやっているかわかったものではないからだ。


『このクソ女! 思い上がってんじゃないわよ、ハーシのブタのくせに』

『クラリオさまの前で土下座したって許さないから』

『反省させてあげるわ……一生、男と縁がなくなるようにしてね』


 果たして、ロディルが扉をわざと大きな音がするようにして開け放つと、そこにはナスタレイハを取り囲む女子生徒たちがいた。


 ナスタレイハは数人がかりで押さえつけられ、服を半ば脱がされている状態だった。


『……何をやってるんだ!?』


 ロディルの人生でもっとも大きな声が出た。何をしようとしていたかなんて一目瞭然だ。


 怒りで身体じゅうの血液が沸騰しそうだった、

 心臓がどくどくと激しく脈打って呼吸すら苦しくなり、ただ驚いて突っ立っている女子生徒をひとりずつ殴り倒したい衝動に駆られた。

 握った拳が震え、噛み合わせた歯ががちがち鳴った。


 その剣幕を見て女子生徒たちは震え上がり、こちらが一歩踏み出すと蜘蛛の子を散らしたように慌てて準備室から逃げていった。ほんとうに殴られると思ったのだろうか。


 ただひとり、恐らく主犯格らしい女──あとから気づいたが、上流階級の子女だった。この学校では家の階級が生徒たち同士のヒエラルキーと比例している──だけは落ち着いて歩み去り、ロディルの隣を通った際、耳障りな声で言い放った。


『わかってるでしょうけど、誰にも言わないことね』


 ……ことの始まりは、ヴァルハーレが彼女に声をかけたことらしい。


 彼はここの卒業生で、女子生徒の間で崇拝に近い支持を受けていた。

 その彼がナスタレイハにこう持ちかけた──僕と遊ばないか? なんなら恵んでやってもいいよ。


 女遊びが激しいことでも有名な男で、遊ぶというのはつまり、身体の関係を持つことを意味していた。


 ナスタレイハは同国人としての贔屓目を抜きにしても美人だ。

 普段見下しているハーシ人でも、かわいくて女なら相手をしてやってもいい、ということだろう。


 もちろん生真面目なナスタレイハはそれを丁重にお断りした。

 もともとロディルという相手がいたし、それでなくともマヌルド人に対する慢性的な不信感の中にあって、向こうがどんな目的でそんなことを言い出したのかわからなかったからだ。

 そう言って何かひどいことをするのでは、新しいいじめなのではないかと思うのは当たり前だろう。


 だが、それがヴァルハーレの取り巻きの女子生徒に伝わったことで、状況は急激に悪化した。

 彼女らにとって彼に声を掛けられることは大変な名誉であり、誘いを断ることは彼に対するこの上ない侮辱だったからだ。

 そもそも見下していじめていたハーシ人がヴァルハーレの眼に留まったというだけで、彼女らの嫉妬と怒りは凄まじく、もうナスタレイハに何をしても満足できないほどに膨れ上がった。


 それまで物を隠すとか汚す、頭から水を被らせる、陰口を聞こえるように言う程度だったいじめが、暴力や苛烈な罵詈雑言に変わった。

 そしてその果てにあの準備室で行われようとしていた行為にまで及ぼうとしたのだ。


 ふつうなら、ここまでされたら学校に訴えるべきかもしれない。

 ロディルは女子生徒たちが誰かわからなかったが、ナスタレイハは恐らく全員の名前を言えるだろう。

 だが、ふたりはそうしなかった。


 できなかったと言ってもいい。


 訴えたところで学校は何もしてくれないし、それどころか机や椅子を用意されない以上の結果が待っていることを、もう言う前からわかっていたからだ。


 ここでは誰も信用できない。

 そんなことはもう充分知っていた。



 それからナスタレイハは学校にあまり行かなくなり、しばらくして病気になった。

 胸の病だった。

 原因はわからないと医者に言われたが、どう考えても心労のためもあったろう。


 学校に行けないのに高い授業料を払い続けるわけにもいかなくて、ついに彼女は退学を決めた。

 故郷から両親が迎えに来ることになり、ロディルは彼女が帰るまでの間、時間の許すかぎり世話をしにいった。


『ねえジーニャ、お願いしてもいいかな』

『僕にできることならなんでもどうぞ』

『ちょっと恥ずかしいんだけど……あのね、私を、抱いてほしいの……』


 寝台に伏せっきりになっていたナスタレイハが、ある日そんなことを言い出した。


 それまでふたりの間にそういう行為はなされていなかった。

 ロディルは驚き慌て、思わずその理由を尋ねた──どうして急にそんなことを言うの?


『やっぱり変だよね……でも、こんな身体になっちゃって、故郷に帰っても、結婚なんてもう無理だから……一生誰も知らずに死ぬのかなって思ったら、寂しくて。

 ごめんね、いくら感染らないったって、病気の女となんて、嫌だよね』

『嫌じゃないよ! でも、その……僕なんかでいいの? そういうのって女の子は大事にするものだろ?』

『うん……ジーニャがいいの。一生に一度の思い出だから、ジーニャとがいい』


 それからロディルは初めて彼女の服を脱がせた。

 彼女の肌は根雪のように青白かったが、首から下には恐らく棒やベルトなどで打たれたらしい痣が無数にあった。


 あまりにも痛々しい姿に言葉を失った。


 あの日、彼女を囲んでいた女子生徒たちを殴らなかったことを、初めて後悔した。

 問題を起こしたら間違いなくすべてこちらが悪いことにされるとわかっていたし、そうなれば留学の際に世話になったカルティワの学校の関係者や、故郷の家族にまで迷惑がかかってしまう。

 そう思って堪えた拳が、今ふたたび震えるのを感じた。


 どうして、どうして彼らはこんなことをして、平気で生きていられるんだ。

 ターリェカが何をしたっていうんだ。


 怒りに手を止めたロディルを見て、自嘲しながらナスタレイハが言った。


『汚い身体で、ごめんね』

『……っ、そんなことない! すごくきれいだよ……きれいだし、すごく、かわいいから……』

『ありがと。……もう、なんでジーニャが泣きそうなの?』


 精一杯守ってきたつもりだった。でも、ちっとも守れてなんかいなかった。

 その現実を突きつけられた気がした。


 抱き締めた身体はあまりにも細くて、小さくて、愛おしくて、哀しかった。


 病床の彼女を気遣いながらできるかぎり優しく抱いた。

 ロディルにしても初めての行為だったのでいろいろと不足はあったが、痛みもそれ以外も彼女はすべてを受け入れた。

 それを想い出にして故郷に持って帰るつもりなのだろう、ずっとロディルの顔を見て、ロディルがどんな表情をしていたのか、一瞬一瞬を大切に覚えようとしていた。


 すべてが終わってから、ナスタレイハはロディルの下ろした髪を愛おしげに撫でて、言った。


『ね、マヌルドでは、男の人の髪に触っていいのはベッドの中だけなんだって』

『何それ?』

『女の子たちが話してたの。なんかね、男の人の髪の結いかたで「この人は昨日私と過ごしたのよ」って周りにアピールするみたい。だから彼女がいっぱいいる人はしょっちゅう髪型が変わるんだって』

『へえ、変わった文化だね。じゃあ……僕の髪はターリェカ専用だな』

『……うん、結わせて。そんなに凝ったのはできないけど……ほら、そっち向いて』


 ロディルの髪を結いながら、ナスタレイハはまだ喋り続けた。

 もうすぐ迎えが来ると知っているからだ。

 一緒にいられる時間が少なくなるのを肌で感じているから、そして彼女が故郷に帰ったら、もうロディルに会うことはない。


『じつはね、手紙で妹たちに、ジーニャのこと話しちゃった。同じハーシ人がいたよ、って。その人は紋唱術がとっても上手で、学校でもマヌルドの人たちにひけをとらないから……きっと今に世界一強くなるのよって』

『それはまた大袈裟な……』

『ふふふ。そしてね、私はその、世界一強い術師さんの、お嫁さんになるの……それが、私の夢だって……』


 ナスタレイハの手が止まった。

 指も、声も、震えていた。


 振り向くと、涙を堪えようとしていたので、ロディルはしゃにむに彼女を抱き締めた。


『……結婚しよう』

『だめ……私、治らない病気だもん……責任とろうなんて思わなくていいから……』

『治るよ! マヌルドの医者の言うことなんて信じちゃだめだ、僕が……僕が薬でもなんでも探してくるから!

 僕だってターリェカがいい。これから先ずっと、きみのことを忘れられるもんか……! 好きだよ、大好きだ、だから……その夢を叶えさせてくれよ……!』


 涙が止まらなかった。泣きながら何度好きだと叫んだかわからない。

 彼女もぽろぽろ雫を落として、そのたび頷いてくれた。


 数日後、彼女の故郷から迎えが来た。

 両親は手紙でロディルのことを知らされていたからだろう、あくまで友人として紹介していたのかもしれないが、ロディルに何度も頭を下げた。


 ロディルはそのたびに深く頭を下げ返した。

 彼らの大事な娘を守りきれなかった無力な男として、そうするしかできなかった。


 その後、ロディルはそれまで以上に勉学に励んだ。


 成績はみるみるうちに上がった。


 守るべき人が傍にいないぶん集中できたのもあるし、獲物を失ったマヌルド人の鬱憤がすべてロディルひとりに向かってきたことが、逆にロディルを奮い立たせた。

 彼らへの憤りは、そうした連中を実力で圧倒するための熱意に置き換わった。


 帝国学院唯一の汚点、という言葉が生まれたとき、それを心から名誉に思った。


 故郷に帰ることは諦めた。

 彼女のための薬を手に入れ、世界一強くなって彼女を迎えにいくことだけが、ロディルを動かす目的になった。


 今のロディルはそのために生きている。

 他には何もいらない。


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