070 少女の歩み
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朝食の席でも気まずい空気は払拭できていなかった。
ララキはふつうに過ごしていたが、スニエリタとミルンはそうではなかった。
まだどうしても恥ずかしさが抜けないスニエリタは、どうもミルンの顔が見られないし話しかけられないし、ミルンのほうでも遠慮しているふうだった。
それに、なんだかすごく疲れているみたいに見える。
滞在中の術師として登録をし、訓練場に向かう間も会話は少ない。
喋るのはほとんどララキとだけで、スニエリタ以上にミルンが黙り込んでいる。
その歩く姿にいつもの覇気が見られないことに、いつの間にかスニエリタは心配すらし始めていた。
朝からぼうっとしているし、食事もあまり喉を通らないような顔で食べていたし、もしかしてどこか具合でも悪いのだろうか。
布団も使わずお風呂用の盥で寝たせいで風邪でも引いてしまったのではないか。
だとすると、ベッドが空いたことをちゃんと伝えなかったスニエリタにも原因がある。
恥ずかしがっている場合ではない。スニエリタはぎゅっと手を握り、深呼吸を何度かして整え、意を決して口を開く。
「……ミルンさん!」
思ったより大きな声が出てしまった。
ララキとミルンが驚いた顔で振り返るのを見て、また恥かしさが込み上げてくるのを感じながら、それをどうにかぐっと堪える。
頬がかあっと熱くなっている。もう泣きそうになっている、自分のこういうところが情けない。
「あ、あの、……お顔の色が……そのっ……体調を崩されてるのでは……」
「え? あ、いや、ぜんぜん……まあ、顔色はあれだ、昨夜ちょっと寝つけなくてな、それで隈が」
「やっぱりそうなんですね? ごめんなさい、わたし、空いたベッドのことをきちんとお話しなくて……今夜からは、そちらを使ってください。わたしは、長椅子でっ、構いませんから……ッ」
なんとか言いたいことを言いきれたものの、言葉と一緒に眼から溢れようとするものは止められなかった。
どうしてたったこれだけのことを言うだけで泣いてしまうのだろう。
昔から、いろんな人に泣き虫だとからかわれたが、ほんとうにそうだ。小さいころからたくさん泣きすぎて、涙腺が簡単に緩むようになってしまった。
誰かが頭を撫でてくる。顔を上げられず眼も瞑ってしまったのでわからないが、ララキだろうか。
「気にしなくていい。昨日は全面的に俺が悪かったし、寝れなかったのはまた別の理由だ。……まあ盥の寝心地ははっきりいって悪いけど、あれくらいで寝られないほどヤワじゃねえし」
「でもっ……さ、寒かっ、た、でしょうっ……?」
「ぜんぜん。俺の故郷なんか今の時期でも凍死できる寒さだぜ、このへんなんか温けぇくらいだよ」
なんだか声が近い気がして、そっと涙でぐちゃぐちゃの眼を開く。見えたのはブーツを履いた足と丈の長いねずみ色の外套だった。
驚いて顔を上げると、優しい顔をしたミルンと眼が合った。
と、いうことはつまり、今スニエリタの頭を撫でているのは。
どうしてだろう。どうしてこの人は、こんなに優しくて、簡単にスニエリタを温めてしまえるのだろう。
こんな人は、今までスニエリタの周りにはいなかった。
ほとんどの人は一定の距離を保って、中身のない、当たり障りのない言葉でしか話さなかった。
逆に近くに来る人は、容赦なくスニエリタを否定した。
こんなふうに傍にいてくれるのに、温かい言葉をくれて、しかもそれに真心を感じられるような人は、いなかった。
しいていえばひとりだけ似ている人を知っている。父の部下で、スニエリタも幼いころから顔見知りの軍人だ。
立ち振る舞いが誠実で、スニエリタの気持ちを考えてくれていることは感じられたので、スニエリタも彼には懐いていた。
ただ、彼はあくまで上官の娘への礼節と立場を忠実に守っていた。絶対にこんなふうに近くには来なかった。
心臓が痛いほど激しく鳴っている。
息をしなくちゃ、とわざわざ意識しなくては空気も吸えないほど、胸がぎゅっと締め付けられていた。
「……仲良きことは美しきかな。ってことで、おふたりさん、そろそろ行こうか?」
ララキの声にはっとしてそちらを見る。なんだか笑いを堪えているような表情のララキは、ほら、と訓練場のほうを指差している。
そうだった、歩いている途中で、ここは路上なのだった。
慌てたようすでミルンの手が頭から離れ、そのまますたすたと先に歩いていってしまう。
……名残惜しいと思ってしまった。誰かに頭を撫でられるのは、ほんとうに小さいころ母にしてもらって以来だと思うが、こんなに心地よいものだったのか。
なんだか温かい気持ちになりながら訓練場へ向かったスニエリタであった。
そういえば、ララキとミルンはすでに別の国で同様の施設を利用したことがあるそうだが、スニエリタはそうではない。
もしかしたら操られているころはあったかもしれないが、もちろんその記憶はない。
そして母国マヌルドにいたころは、人生の大半を過ごしてきた帝都アウレアシノンにおいても、施設に行くまでもなく自宅に訓練用の部屋が完備されていた。
部屋というか、自宅とは廊下のみで繋がっている、ほとんど別棟の状態だったが。
はっきりいって民間の訓練場は実家のものより小さくて造りも粗末な感じがしたが、スニエリタは嬉しかった。
実家の、ただ広いばかりの訓練室でひとり練習に励むより、どんなに狭くても、円周の結界が二重にしか張られていなくても、このふたりが一緒にいてくれるほうが、何倍も何十倍も素敵だった。
ミルンとララキはそれぞれの遣獣を呼び出したので、ただでさえ狭い訓練場がもっと狭くなってしまうが、それすら幸せなことに思える。
スニエリタは彼らの遣獣たちに会うのはこれで初めてだったので、一匹ずつ丁寧に挨拶した。
ララキのカエルさんは楽しい性格でかわいらしいし、ミルンの三匹はちょっと見た目が怖いが、みんなスニエリタを温かく迎え入れてくれた。
そのなかでとくにオオカミさんに懐かれて、嬉しくていっぱい頭を撫でてあげた。
オオカミというよりはイヌみたいな反応をしてくれる。名前はシェンダルさんというらしい。
『おいシェンダル、そろそろ離れな。ミルシュコがめっちゃくちゃ睨んでっぞ』
『……すまない、我を忘れてしまった……ところでスニエリタよ、あのメスのイタチはどうした?』
シェンダルさんに言われてはっとする。
どうやら操られていたころ、スニエリタは何匹か遣獣を持っていたらしいのだ。そして呪縛が解かれた直後、傍にいた大きな鳥と小さな獣に、わけもわからないまま別れを告げられて今に至る。
なぜか彼らの名前と紋唱を、一度も描いたり唱えていないはずなのに、覚えていた。
ジャルギーヤと、コミ。
でも、行うまでもなくわかる。きっと今の自分では呼び出すことができない。
なんとなれば、紋唱術師として学び始めた幼少の砌より、一度だって契約が成功したことのないスニエリタなのだ。
ミルンが言っていたような遣獣業者にも何度も連れて行かれ、いろんな獣と契約の紋唱を行わせられたが、いつも獣たちから首を振られた。
そのたびに父は落胆し、怒り、……思い出すのはよそう。ここに父はいないのだから。
「一応やってみるか? ジャルギーヤはさすがにきついだろうが、コミはもう少し融通が利きそうだったし」
「……はい、やるだけ、やってみます」
不思議とミルンに促されると、じゃあ試してみようか、という気になる。
たぶん、もし失敗してもこの人は怒ったり詰ったりしないし、どうして失敗したのかを一緒に考えてくれる、そう思えるからだろう。
しかし紋章や招言詩を覚えているということは、操られていたときの記憶がまったくないというわけではないのかもしれない。
ララキたちの反応を見るかぎり、操られていたころの自分は今と違って足手まといではなかったようだから、思い出せたら何か勉強になるかもしれない。どんなふうに紋唱を行っていたのか、思い出せれば。
紋章を描き、それから唱える。たしかこんな言葉だったはずだ。
「──我が僕は、清新なり」
一瞬ふわりと光ったが、そこからイタチが出てくることはなかった。
やっぱりそうか、と用を為さない紋章が消えていくのを眺めながら、思ったより傷つかなかった。
「まあそのうち出てくるようになるだろ。そのためにも、もっと安定して発動するようにしないとな」
「はい。シェンダルさん、ごめんなさいね」
『期待して待っている』
それから、紋唱の練習を始めた。
上達の具合を確かめるため、今日もずっと同じ風の術を繰り返す。
情けない音を立てて風が吹く。何度か続けてやっていたが、威力はともかく不発に終わることはめっきりなくなったので、一応は安定したといってもいいだろう。スニエリタにしては上出来だった。
気持ちの問題ではないかとララキに言われたときは、正直言って、この子は何を言っているんだろう、と思っていた。
そんな理由であるはずがない、スニエリタに才能がないのがすべて悪いに違いないと思いこんでいた。
だが、こうしていろいろ指導を受けながら次第に安定していくところを目の当たりにしていると、ララキの言うとおりだったと実感している。
今まで失敗するたびに、次も上手くいかなかったらどうしよう、きっとまた失敗するだろう、きっとまた怒られる、それは嫌だ、という考えがスニエリタの頭を占めていた。
それこそミルンが言ったように、失敗するところばかり想像してしまっていた。
上手くいかないことが続くと成功する自分が想像できなくなる。上手くいくかどうかより、失敗したあとのことばかり考えるようになる。
そんな悪循環がスニエリタを縛っていたのだ。
そしてふたりはそれを見抜き、ここまで引っ張ってきてくれた。ゆっくりとした足取りで、スニエリタがついていけなくならないように、時間をかけていいと言ってくれた。
今、スニエリタの心は軽い。
ふたりが隣にいてくれるから、もう一度やってみようと思えるし、次はもう少しよくなるかもしれないと思える。
もしちょっと上手くいかなくても、大丈夫、もう一回やってみて、と言ってくれるとわかる。
失敗することは恐怖ではなく、練習の間の通過点にすぎないと思える。
何度も同じ術を繰り返すのも、ただ闇雲に数をこなしているのではなく、成功に近づこうと一歩ずつ進んでいるだけだから、苦痛は感じない。
おもむろに、ララキに聞いてみた。かつての自分のことを。
操られていたころのスニエリタは、同じ術を使ったこともあったようだが、そのときはどうだったのか。
「えっとねえ、ここより広い訓練場……ではないけどまあ同じように円形の結界を張ったとこで、ミルンを端から端まで吹き飛ばすくらいはしてたね。こう、びゅううーっ! って感じで」
勢いを再現しているつもりらしい奇妙な手の動きをつけて説明してくれた。
にわかに信じがたい話だったが、横で聞いていたミルンが何も言わなかったということは、事実であって誇張はされていないということだ。
ミルンは決して小柄ではない。スニエリタからすれば充分すぎるほど背が高いし、痩せ型ではあるが、……昨日抱きとめられたときの感触からすると、それなりに筋肉もついている。
思い出してちょっと顔が赤くなりそうだったので、ふるふる左右に振って誤魔化しつつ、もう一度紋章を描く。
ここより広い訓練場、というのがどれくらいかわからなかったので、とりあえず自宅の訓練室で想像する。
その端にミルンを置いて、彼を反対側の壁まで運べるほどの風。ララキが腕をぐるんぐるんさせて再現するような、勢いのある風の術。
そんなの、ほんとうにスニエリタにできるのだろうか。
不安はもちろんある。簡単なことではない。
きっとすぐにはできない。
でも、すぐじゃなくても、いつかできるようになりたい。
できるようになるためには、とにかくやってみるしかないと、ふたりが教えてくれた。
「──翔華の紋」
風は、これまでよりも強くなった。判定用にカエルが出してくれていた水の玉が細かく飛び散ったのでわかる。
まだミルンを運ぶ風にはほど遠い、小さなカエルすら飛ばすには弱い風だったけれど、それでも今まででいちばんよかった。
隣で炎の術を練習していたララキが、今のよかったよ、と声をかけてくれた。彼女はどんな些細なことでもすかさず褒めてくれるので、ちょっとくすぐったい。
「スニエリタ、どんどん上達してくね。あたしも負けてらんない!」
よーし、とララキの指が空を舞う。そしてたちまち美しい紋章を描き上げてしまうのだ。
こんなに速く、楽器でも弾くようにすらすらと指が動く人なんて、スニエリタが知るかぎりマヌルド帝国軍にもそうそういない。指が長くて、羨ましい。
指の長さはもうどうしようもないけれど、その速さは見習いたい。
そんなふうに思えることも、今までなら考えられなかった。
紋唱術がスニエリタより上手い学友は大勢いたが、彼らが見事な術を披露するのを、スニエリタはいつも泣きたい気持ちを堪えて見ていた。
あんなふうに紋唱ができたらきっと父は喜んでくれるだろうに、認めてもらえるだろうに、絶対にああはなれないのだと内心で呪っていた。相手だけでなく自分までもを。
羨むというよりは、妬むのに近い感情だったと思う。
どうして自分はこんなにダメなんだろう、とずっと思っていた。自分で自分をダメにしていたことに気づいていなかった。
このままではいつか父に見捨てられるという考えにばかり支配されて、自分を信じてやらなかった。
今でもそれは難しい。
ちょっと褒めてもらえるから、今は調子に乗っているが、どこかで伸び悩んでしまうかもしれない。発動が安定したからといって、今の威力ではふたりの助けにはなれない。
この先思ったより成長できなくて、いつかふたりから重荷に思われてしまう日が、絶対に来ないとは言い切れない。
でも、その心配をしている暇は、今はない。
今はただやってみる。ふたりが見ていてくれるかぎり、何度でも。
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