069 闇の中に光を想う

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 ヴニェクが翼を振るうと突風が起こった。それが竜巻のようになって足元の落ち葉が舞い上がり、そこからスニエリタが出てきた。

 スニエリタはしばらくぼうっとしていたが、やがて見慣れない場所にいることに気づき、きょろきょろと辺りを見回した。


 ララキはスニエリタに駆け寄って、ここがヴニェクの結界であることを伝える。


 ついでにハヤブサを指差してあれがヴニェク・スーだよと言ったら、神を指示するとは何事か、と怒られた。

 八つ裂きにはされなかったが、突風が顔面に吹き付けてきて小石やら葉っぱやらが当たって痛い。とばっちりでスニエリタもちょっと当たっていたのでほんとうに申し訳ないと思う。


 ともかくヴニェクの怒りが治まるのを待って、改めてスニエリタにここまでのことを説明する。


「……つまり、こちらの女神に背中を見ていただけばよろしいんですね?」

『そうだ。ああ脱ぐ必要はないぞ、ただ背を向けろ』

「わかりました」


 スニエリタはヴニェクに背を向ける。


 ヴニェクはそれをじっと見つめている、のだと思うが、女神の両眼は覆われたままだ。それで見えるのか疑問だったが、そもそも服の上から透視できるようだから、目隠しぐらいどうということはないのだろう。

 逆に、なんで意味のない目隠しをしているのかが気になる。


 しばらくヴニェクはスニエリタの背を観察していたが、やがてフンと鼻を鳴らした。


『クリャが唾をつけていったな。よほどおまえの身体は使い勝手がよかったのだろうよ』

「つ、つば……」

『いつか再利用するのに見失わないよう自分の紋章の一部を残したんだ。ただ、本人ではなく傀儡がつけたものだから、必要以上に大きく歪んだものになった。ガエムトが近くにいたのも多少影響しただろうな』

「再利用って、またスニエリタを乗っ取ろうとするってこと? ほんっと自分勝手だなタヌマン・クリャ……」

「あの、ヴニェク・スー。これはもう消えないんでしょうか」


 泣きそうな声でスニエリタが言う。操られていた間の記憶がない彼女にしてみれば、また操られるかもしれないことよりも、この見苦しい模様が消えるかどうかのほうが重要らしい。


 そっちなのか、と思ったララキだったが、よくよく考えてみると、スニエリタは操られたこと自体ではそれほど迷惑していないのかもしれない。

 自殺を図るほど辛かった実家とその周りの環境から抜け出せて、しばらく遠く離れた土地でのびのびと過ごせるのだ。むしろスニエリタにとっては利点しかないのか。


 なんだか複雑な心境になりながら、ララキもヴニェクの回答を待つ。


『消すとなると時間がかかるぞ』

「そんな……」

『だが、タヌマン・クリャ自体が滅びれば、自然と消える。そのほうが早いかもしれんな。呪われた民の娘、おまえの身体に刻まれているものも同じだ』

「そうなんだ……あ、そういえば、あのあとタヌマン・クリャってどうなったの? 見つかった?」

『語る必要はない。人間の分際で関わろうとするな』


 ヴニェクはぴしゃりと言って、翼を広げる。

 思ったよりまともに会話はできたが解決策は出なかった。まだこちらは満足がいかなかったが、ハヤブサの女神はさっさと飛び立ってしまった。

 最初に攻撃されたときからずっと思っていたが、ほんとうに気の短い女神がいたものだ。


 というか、関わろうとするなと言われたが、タヌマン・クリャに関してはララキも関係者だと思うのだが。


 模様を消すことに関しても、時間がかかると言うだけで具体的な方法は教えてくれないし。

 ララキの身体にあるものと同じだと言っていたから、同じように薄めることはできるのかもしれないが、それだってライレマとシッカが尽力してくれた賜物なのだ。

 ライレマがあのころどんな紋唱や薬を使ってくれていたのか、幼かったララキはほとんど覚えていない。


 なんか結局、あまり前に進めていないような。なんだかすごくもやもやしながら眼を醒ますと、ちょうど隣のスニエリタも起きたようで、ぼんやりしながら眼が合った。

 ヴニェクに会ったよね、と一応聞いてみると、ちょっと困ったようすで頷いた。


「あんまり期待してなかったけど、やっぱりすぐには解決できそうにないね……」

「そうですね……でも、ありがとうございました」

「ぜんぜん。あーあ……とりあえず、似たような身体の女がここにもうひとりいるから、元気出してね」

「……わたしなんかより、ララキさんのほうが大変ですよね」


 そんなことはない。お互いさまだ。


「とりあえず、起きたらミルンにも報告しよう。どうせもう知られちゃってるし」

「そうでした……どうしましょう、わたし、気が動転して、昨日はずっと避けてしまいました。やっぱり、謝ったほうがいいんでしょうか」

「いやいいよ、あれはあっちの自業自得だし。……でもさすがにお風呂で寝てるのは哀れだなあ。

 まあ、今日はふつうに接してあげて。わざとじゃないし、反省してたし」

「はい、……がんばります」



‐ - ― +



 ……という女子の会話を聞きながら、ミルンは溜息をついていた。


 どうしていいかわからず水を抜いた盥の中で丸まって一晩過ごしたが、著しい精神的動揺と絶望的な寝心地の悪さのため、結局一睡もできなかった。


 まず眼を閉じられなかった。瞼の裏にあの一瞬の映像が焼きついているからだ。

 真っ白なうなじと、その下に続くなだらかな背中、そこに浮かぶ異様な痕。細い肩と、二の腕、腋、胸元の膨らみに至るまで、時間にして五秒もなかったくらいなのに、ミルンの脳はその造型を細部に至るまで完璧に記憶してしまった。


 覗くつもりなんて毛頭なかった。ほんとうに事故だった。


 言い訳をするなら最初にこの部屋に入ってから、ほとんど中を見ないですぐに出て行ったから、壁の奥が浴室だということを知らなかった。

 水の音も微かで聞こえなかった。ララキの笑い声のほうがよほど大きかったのだ。


 だが、よくよく考えたら部屋風呂つきの宿を探して見つけたのだから、仕切りの向こうに風呂があるのは当たり前だった。衝立があるのも目隠しのため。

 落ち着いて考えればすぐにわかることなのに、どうしてあのときはそんなことすら思いつかず、何も考えないで衝立の向こうを覗いてしまったのだろうか。


 後悔先に立たず、もう今となっては何を考えても意味がない。


 それに、それだけではない。


 眠れない夜の間じゅうミルンは考え続けていた。


 それはもちろん、スニエリタの背にあった歪んだ紋章のようなもののことであり、それをどうにかしてあのふたりから聞き出さなくてはならないが、果たして教えてもらえるだろうか、ということだ。

 あのお嬢さまの背中にもともとあったとは考えにくい。それに、つい今しがた聞こえてきた会話からすると、ララキの身体にある外神の紋章と似たようなものらしい。


 タヌマン・クリャ由来のものだとしたら、今後の旅に何らかの影響を与えるのは間違いないのだから、ミルンも情報を把握しておかなくては。


 しかし、今は限りなくミルンの立場が悪い。

 向こうから話してくれるまで大人しく待ったほうがいいだろう。


 ……今日はちゃんと口を聞いてもらえるだろうか。


 悲しい事実が、もうひとつある。


 あのとき、あの一瞬でその光景を仔細に覚えたといったが、少し語弊がある。

 ミルンが見たのはスニエリタだけだ。

 ララキもいたことはわかったが、眼に入ったのはスニエリタだけだった。もっと言うとスニエリタの裸しか見てなかった。


 たまたま近くにいたから先に目に入ったわけではなかった。逆に、衝立の上から覗く形だったので、距離的に近いほうが見づらい角度でさえあった。

 それなのに自分の眼は迷わずスニエリタを探して捉えたのだ。


 その意味がわからないほどミルンは子どもではなかったし、しかしだからといって、すんなり受け入れられるほど大人にもなれていなかった。


 正直、こっちは考えたくもない。だが気を抜くと脳裏に数々の映像が蘇る。


 寝顔。薄く開いたくちびる。

 大きな瞳。後頭部の形。柔らかな髪の感触。細い腕。

 抱きとめた身体の重さと細さ。甘い香り。


 うるさい、と叫びたくなるほど、あまりにもいろんなことを覚えている。どうでもいいことばかりが占めている。

 そんな浮ついた感情は今後の旅において邪魔でしかないし、それに、いつかくる日を余計に苦くするだけだ。

 何もいいことがない。忘れてしまったほうがいい。

 早く捨てないと、そのうち重い荷物になる。


 だいたい相手はマヌルド貴族の上流階級、時の帝国将軍の一人娘。

 対するこちらはハーシの田舎の弱小部族の三男坊。比べるのも馬鹿らしいほどの差がある。


 ああ、なんで今さら自覚してしまった。


 今までさんざんララキにからかわれてきたが、それらを受け流すたびに、たぶん自分に言い聞かせていた。

 スニエリタとは距離を置かなければいけない、あんな高嶺の花に触れられるはずがない。


 初めから望まなければ苦しむことだってないのに。

 気づいてしまったら、もうなかったことにはできない。自分の内に湧き上がる衝動を無視することはできなくなる。

 ただでさえ異性に触れたくて仕方がないような年頃の男が、好意を感じる相手と四六時中行動を共にしなくてはならないのだ、邪な感情を芽生えさせるなというほうが無理がある。


 昼間の事故のように意図せずとも身体に触れる機会がある。さきほどのようにあらわな肌を眼にすることも、もしかしたらまたあるかもしれない。

 そのたびに飲み込んで耐えなくてはいけないのだ。

 それがどんなに柔らかくて、どんなにいい匂いがしたとしても、そこでそれ以上何かを感じてはいけない。何をしたって互いを傷つける結果しか待っていない。


 ぐるぐる考え込んでいるうちに、外で鳥がさえずり始めた。どんな夜にも朝はやってきてしまうのだ。


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