063 神への祈り
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神の結界は、いつだって民の祈りで満ちている。
たとえばそれは、遠出をする家族の安全を願う声であり、愛する人を想う言葉である。
または商売の成功であったり、育てた作物が豊かに実ることを願う声、あるいは一日を恙なく終えることができた感謝でもある。
ある場所では子どもが生まれ、ある場所では誰かが死に、ある場所では恋人たちが夫婦となり、ある場所では友が永遠の訣別をする。
人びとは、神へと祈る。
それを日課にする者もいるし、人生の節目にのみ行う者もいれば、意識せずとも日常のさまざまな感情がそのまま神への祈りに通じている者もいる。
彼らの声、言葉、想い、願いが、神の力の一部となる。
偉大な神ほど多くの信徒を抱き、寄せられる無数の祈りに耳を傾けながら、ときに力を貸し、ときに黙って見守り、必要ならば罰も与える。
フォレンケもまた、砂漠の砂粒ほどの祈りの波間に、静かに瞑目して身を委ねていた。
そこに見知った声を拾った耳がぴくりと動く。
声を通して紋章を"視る"。
あの図形はララキのものだ、今はもうこの世にたったひとりしかいない外神由来の紋章なので、彼女が呼んでいるときは一目でわかる。
<フォレンケ、聞こえる? あたしたち、今はハールザの町にいて、明日にはシレベニに向かう予定>
彼女が口にしたのはフォレンケには馴染み深い山の名前だ。
ふむふむ、あれからずっと西に移動しているんだな。
神とはいえ何百人何千人という人間が犇いている領内で、特定の個人だけをずっと監視しているわけにもいかないので、こうして報告でもしてくれない限りは行動を把握することができない。
探す手間が省けてありがたい限りだ。
<しばらくシレベニで腕を磨こうと思ってるんだけど、それからどこに向かうか決めてないの。会うべき神さまがいるなら教えてくれると嬉しい。
あ、スニエリタのことがあるから、あんまり厳しい試験を出してくる神さまはちょっと困るかも……>
そう言われてちょっと覗いてみると、ララキの隣にスニエリタがいる。
今の彼女にタヌマン・クリャの気配はない。
多少は残り香があるかもしれないが、それは隣のララキのほうがずっと濃いので、もう心配する必要はないだろう。外神の支配からは完全に脱している。
ただララキが気にする理由もフォレンケには見えた。
彼女の心に映っている紋章が、神の眼を以てしても見づらいくらいに小さく縮こまっているのだ。
人間が用いる紋唱術というものは、いわば己の紋章と世の理の紋章とを歯車のように噛み合わせて、大なり小なり世界に干渉することによって発現が成り立っている。
この世のすべてにはそれを規定する紋章があり、それを描くことと、その真名を唱えることが、その力を具現化させる最低条件だ。
そして人間などの下界の存在には、それに加えて己の紋章を共振させなくてはならない。
なので、心に映る個々の紋章に歪みが生じていると、紋唱を行うのが難しくなる。
幸いスニエリタの紋章は縮んでいるだけで、改善の余地はある。
紋章があまりに歪んでいたり、ときに破損してしまっていると、もはや手立てはなくなるし、本人も正気を失ってしまうものなのだが、そこまでひどい状態にはなっていない。
だが、あれだけ縮んでしまうには相応の時間がかかっている。
元の大きさに戻すのも同じだ。
永遠にも近しい神と異なり、人間の生涯は憐れなほどに短く、また他の獣と比べてもあまりにも周囲の影響を受けやすいという特質を持っている。ふたたび紋唱に足りるようになるのは容易ではないだろう。
幸いにして、フォレンケは慈悲深い神だった。
彼女たちをアランに送って以後、近隣の忌神たちに向けて、フォレンケの許可なく試験を課すことを禁じていた。
乾き荒んだこの地域では、フォレンケの存在こそが秩序だ。
実質的な力では忌神たちのほうが上であることも少なくないし、向こうのほうが数も多いが、彼らは基本的にフォレンケには従う。
そうしないと生者の領域を保っていられないことを理解しているからだ。生と死との均衡が壊れるのは、忌神にとっても好ましい事態ではない。
何もかもが例外であるガエムトであってもそれだけは変わらない。
彼に関してはそういう繊細な事情を理解しているとは思えないが、とにかくフォレンケに対しては従順なのだ。本能的に何か感じるものがあるのだろう。
さて、問題は、今ララキになんと答えてやればよいのか、であった。
何人かの忌神は試験の実施を申し出ている。しかし彼らの性質上、あまり穏やかな内容の問題を思いつけないものだから、フォレンケは許可を渋っていた。
その上でララキたちが移動し続けているようなので、忌神が試験内容を改めて報告する前に彼らはその地を去っていく。
このままだと忌神たちのほうで不満を溜めて爆発しかねないが、忌神だけにどういう噴出のしかたをするか考えただけでぞっとする。
付き合いの長いフォレンケでも未だに忌神たちの感覚は異様だ。
死者の神であるからだろうが、生者との付き合いかたが歪んでいる。軽い気持ちで死なせようとするのはもはや基本で、フォレンケとしては考えたくもないようなことを平気で口にするし、たぶん放っておけば実際にそれをやる。
そろそろ誰かの試験をやらせたほうがいいが、誰にしたものか。
そりゃあもちろん試験というくらいだからあまり甘すぎるのもダメだろうが、スニエリタが戦力外である以上、サイナがやったような試験では厳しいかもしれない。
向こうにはヌダ・アフラムシカもいる。あまり追い詰めると彼を呼ぼうとするかもしれないが、それはこちらにとっても好ましい事態ではない。
クシエリスルの神は己以外の神の領域で力を行使するべきではないし、今の彼はそのクシエリスルによる枷を負っている。
己の民の祈りを聞くことができず、補充が行われないので、力を使えば使うほどに消耗するのだ。
彼の民の祈りは代理としてヴニェク・スーが受け取っている。
もちろん彼女も横から吸い上げて好き勝手に使っているわけではなく、いつかアフラムシカが赦されたときのために、預かってきちんと保管しているのだが。
やはり枷なんてつけるべきではなかった、とフォレンケは思う。
あのときクシエリスルの会議は紛糾していた。彼を盟主から外せ、なんならクシエリスルから締め出せと憤慨していた者もいるし、フォレンケのように擁護する者もいて、結論が出るまでにかなり時間がかかった。
さすがに盟主を締め出すことはできないが、まったく罪を問わないわけにもいかないとして、枷という罰則を与えることでなんとか全員の溜飲を下げた。
いつか彼が根を上げてララキを殺すか、あるいはララキが寿命を迎えたら罰を解く手はずになっていた。
フォレンケとしても彼の行動は理解できなかったから、罰も已むなしとは思った。
何か事情があったかもしれないが、それならアンハナケウに来て釈明すればよかったのに、彼は自ら神域に昇ってくるところか呼び出しにも応じなかった。
その結果が今の事態を引き起こしている。
ヌダ・アフラムシカが健在なら裏切り者の出現などありえなかったかもしれないし、タヌマン・クリャをすでに消滅せしめていただろう。
今にして思えば、恐らく彼があのとき南部を離れられなかった理由こそ、タヌマン・クリャがどうにかして秘匿した本体の隠し場所にあるのかもしれない。
彼がアンハナケウに来ることを待たずに、こちらから彼に会いにいって事情を聞けばよかった。
実際何度もそうしようかと思ったのに、いつも誰かに止められた。
地上で語る言葉には信用が置けないという感覚があのころの神にはあって、アンハナケウでなければ話を聞くに値しない、というのがその理由だ。
なんとも馬鹿馬鹿しいことが、まだクシエリスル合意が発足してからそれほど長い時間が経っていなかったころ、今よりずっと神々は懐疑的だった。
それまでずっと騙しあってきたからだ。
自分以外をすべて敵と認識してきたから、急に手を組んだところですぐには信じられないし、そもそも相手のことをよく知らないことも多かった。
(……やっぱり、早いうちに彼らをアンハナケウに呼んだほうがいい。タヌマン・クリャのこともあるし、今なら一時的にでも彼の枷を外して復帰させるよう、みんなを説得できるかも……。
ルーディーンはきっとボクに賛同してくれる。カーイは嫌がるかもしれないけど)
でも、裏切り者やタヌマン・クリャの復活に立ち向かうためには、アフラムシカの力が必要だろう。
それはカーシャ・カーイだってわかっているはずだ。
口ではアフラムシカを気に入らないというような態度をとっているが、ほんとうに認めていなければクシエリスルの盟主を引き受けたりはしない。
今でこそ分別ある大神として振舞っているカーイだが、昔は『眼が合えば骨まで喰われる』とまで言われた暴君だったのだ、打算や気まぐれで誰かと手を組めるような性格をしていない。
というかあれは単にルーディーンとアフラムシカの仲がいいので嫉妬してるんじゃないかな、とフォレンケは思う。
カーイとルーディーンの領域に挟まれるような位置に信仰地域を構えるフォレンケは、オオカミが昔からヒツジの女神に対して並々ならぬ執念を燃やしていたのを見て知っている。
ともかくララキを導かなくては。
さすがに直接アンハナケウまでとはいかないが、それとなく道筋を示してやる程度ならクシエリスルにも抵触するまい。
フォレンケは考えて、ある忌神の名を提示することにした。
シレベニより西に
先回りしていろいろ釘を刺しておいたほうが話も早いだろう。
寝そべっていた身体を起こし、伸びをしながら砂風を起こす。
そしていつものように尻尾をくるりと回しながら、忌神のいるところまで、ひょいと結界を飛び越えていった。
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