061 相容れぬ牙と角
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カーシャ・カーイの言葉を、五柱の神はそれぞれ険しい表情で聞いていた。
ルーディーンは、にわかには信じがたいと思った。
女神の中にはかつてクシエリスルの神が一丸となってタヌマン・クリャと戦った記憶がある。全員でひとつの紋章を刻んで、この大陸が恒久に平穏であるようにと誓ったあの日を、昨日のように鮮明に覚えているのだ。
今になってそのうちの誰かが裏切るなど、どうして思えるだろうか。
ヴニェク・スーは、胸の内に激しい怒りの炎が灯るのを感じた。
もしカーイの言うとおり、クシエリスルの神でありながらタヌマン・クリャと手を組んでいるような不届き者がいるのなら、この鉤爪で引き裂いてやらねば気がすまない。
パレッタ・パレッタ・パレッタは、ただ困惑した。
帰ったらオヤシシコロカムラギにこのことを報告せねばならないが、自分でも信じがたく呑み込みきれないことを、いかに主人に伝えたものか。
フォレンケは、愕然とした。
しかし理解はできた。確かにあの傀儡は、弱り果てた神が送り込んできたにしては自信に満ちていたし、ガエムトに外身を喰い荒らされても平然としていた、しかもフォレンケの領域内で消えたにも関わらずその足跡を追うことができなかった。同じクシエリスルの神が手引きしていたのならそれも納得がいく。
ただガエムトだけは、タヌマン・クリャを喰い損ねた事実を思い出して憤慨していた。
それぞれの反応を確認して、カーイは安堵した。やはりこの中には裏切り者はいないと確信できたからだ。
そして、脳裏に残りの神の姿を思い浮かべながら、込み上げてくる苦いものを噛みしめる。
言ったように、自分は平和主義者ではない。戦うほうが性に合う。
だが、クシエリスル合意を受け入れた以上、それに従うのが筋だとは思っている。もしどうしてもクシエリスルが肌に合わず、相反する道を選ぶというのなら、堂々と合意から出て行けばいい。
裏切り者がそうしない理由はひとつしかない。
「要するに、裏でタヌマン・クリャを支援しているバカが、俺たちクシエリスルの中にいる。
むろん外神を野放しにするのは問題だ。それを助けて増長させているのも、それをこのまま放っておくのも非常にまずい。やつが力を取り戻したら間違いなくクシエリスルを脅かすことになるからな。
だが、それより俺たちの中に裏切り者がいる事実のほうがもっと深刻な問題だと、俺は思う」
「……クシエリスルの神ならば、アンハナケウに自由に出入りができるからですね」
「そのとおりだ。そいつがタヌマン・クリャをここに引き込まないとも限らないし、クシエリスルの基盤そのものに細工することも考えられる。
あれは盟主でもそうそう触れた代物じゃねえが、クシエリスルの内外の神の力を併せることができりゃあ、絶対に操作できないとは言い切れんからな」
クシエリスル合意は、現在この世界の秩序を形成するもっとも上位の規律であり、いわば実体のない名前だけの神格のようなものだ。
それを受け入れたすべての神を束ね、彼らを藁に見立て、縄を糾うようにして、ひとつの巨大な神を概念的に創り出している。
それゆえクシエリスルというのは『定められ、編み上げられた』という意味の神の言葉に由来するのだ。
そのクシエリスルを確固たるものとして維持するための機構はすべてアンハナケウにある。
神々の叡智と信念の結晶であるその紋章に自由に触れられるようになれば、あっという間に秩序は崩壊する。
すでに合意の内に組み込まれている神にはそれは不可能だが、そうではないタヌマン・クリャの力を持ち込めば、均衡を崩して介入する余地を与えてしまう恐れがある。
内部に裏切り者がいるということは、もはやクシエリスルの存亡の危機をも意味するのだ。
「そいつは、ほんとにそんな大それたことを考えてるのかな。クシエリスルを自由に操作するなんて、もう世界のすべてを掌握するのと同じことじゃないか」
「いや、そこまで考えてなきゃあタヌマン・クリャには手を出さねえだろ。その時点でまともなクシエリスルの神をすべて敵に回すうえ、どこかで外神が裏切らないとも限らない、かなり危険な賭けだ。相応の見返りがあって初めて博打が打てるってもんだろうよ。
仮に、もし単に合意に反発して外神に同調してるだけの考えの浅いやつなら、放っておいても自滅する」
そして、言うまでもなく、その可能性は限りなく低い。
クシエリスル成立前のこの大陸には今の数倍もの数の神が乱立していた。そして神同士、争い、奪い、ときに手を組んで互いを利用し、騙し騙されて喰らいあってきた。
その暗黒の時代を生き延びた者だけが、今も神を名乗っている。浅慮で愚かな者など残ってはいないのだ。
腕力のみで単身のし上がってきたガエムトのような例外もあるが、彼は圧倒的な力と引き換えに、陰謀を企てる頭は持ち合わせていない。
「ひとつ聞かせろ、カーイ。なぜ今日ここには我々しか呼ばれていないんだ」
「確かに……アフラムシカの代理はヴニェクですから、七柱の盟主のうち、ペル・ヴィーラとドドがこの場に呼ばれていないのも気になります。彼らのことを疑っているのですか?」
「ああ疑ってるよ。ヴィーラとドドに限らず、この場にいない全員をな」
クシエリスルの七柱の盟主は、提唱者である南西のヌダ・アフラムシカ。そして北西のカーシャ・カーイ──つまりは自分と、中央のルーディーン、北東のオヤシシコロカムラギ、西のガエムト、東のペル・ヴィーラ、南東のドドである。
オヤシシコロは大陸で唯一獣の姿をとらない神であり、この場には来られないため、世話係でもあるパレッタが代理を務めている。それはクシエリスル制定のころからの慣わしだ。
そしてヌダ・アフラムシカは咎を背負っているため、地理的に近い神でそれなりに有力であったヴニェク・スーが代わりを務めている。
もっとも西に関しても、ガエムトがまともに他人の話を聞けるような性格と頭をしていないため、ほぼフォレンケが代理のような状態ではあるが。
「もはや盟主だろうと無条件には信用できないと思ったほうがいい。むしろ外神に助力できる基盤があって、なおかつそうすることに利点がある者が裏切り者だとすれば、ある程度力のある神ほど怪しい。
だから今日の話は絶対に漏らすなよ。疑われていると気づいたら慎重にはなるが、だからって止めようとは思わねえだろうからな」
「つまり、しばらく泳がせてようすを見るということですな?」
「ああ。それで誰が裏切り者なのか確信が持てたら、俺たちでそいつを潰す」
「潰す、って……」
「タヌマン・クリャともども完全に消してやるんだよ。空いた土地には、幸いにして神は余ってるからな、アンハナケウにいるやつから適当に派遣してやりゃあいい。
頭数を減らすのはクシエリスルに抵触するが、そもそも合意に従う気のないやつに原則を当てはめてやる義理はねえだろ」
「裏切り者には当然の末路だな。わかった、協力しよう」
制裁に関しては消極的なようすのフォレンケやルーディーンに対し、ヴニェク・スーは鼻息も荒く賛同した。
もともと攻撃性の強い性格をしているこの女神のことだ、たとえ止めたって裏切り者を叩きのめさずにはいられないだろう。
そういうまっすぐな気性がある意味では信用に足る。裏表がないとも言えるからだ。
ただ、それはそれで心配な面もある。短慮というか、考えるより先に口と身体が動くところがあるし、かっとなりやすいからだ。
「……ヴニェク、もし俺より早く裏切り者を見つけられたとしても、頼むから俺が動く前にひとりで処分しようなんてしてくれるなよ」
「私がやられるというのか? 舐めるなよ犬神」
「そういう意味じゃねえし俺はオオカミだっつってんだろ。先走るなよってことだ」
「ふん。……で、話はそれで終いか? そろそろ戻らねばならないんだ」
ヴニェクも自分の気の短さは自覚しているようで、それ以上は突っかかるのを止めて翼を広げた。カーイも彼女が飛び立つのを止めず、そのまま空の彼方へ羽ばたいていくのを見送った。
伝えたいことはもうすべて話したし、誰が裏切り者なのかのあたりをつけるまでは、何もせずに事態を傍観しているしかない。
慎重に動かなければならない。なぜならその裏切り者が一柱とは限らないからだ。
ハヤブサが飛び去ったのを見て、スズメもその場を辞した。この小さな神、いや小さすぎて神というよりは妖怪のほうが近いくらいの低級な存在には、オヤシシコロにきっちりと全容を伝えてもらわねばならない。
かの神は身動きこそ不自由だが、それ以外では盟主の中でももっとも偉大な存在だといえる。裏切り者の炙り出しにはどうあっても協力を仰がねばならない。
フォレンケも、そろそろガエムトの我慢が限界を迎えそうだと言って、忌神を連れて砂埃の中に消えていった。
単純に力だけで言えばすべての神を超越するといっても過言ではない忌神の王は、裏切り者への制裁には必ず参加してもらうことになる。
そのガエムトが唯一まともに言葉を聞くのがフォレンケで、その理由は未だにわからないのだが、何にせよフォレンケが素直で扱いやすい神であったのは幸いだ。
フォレンケ自身は広大な信仰地域のほとんどを忌神と共有する形になっているため、個神としての力はそれほどなく、性格などの面から見ても裏切り者である可能性は限りなく低い。
もし彼が忌神たちを操って策謀していたとしても、先日タヌマン・クリャを襲撃したときにそれらしい動きを見せたはずだ。そのためにカーイは姿を晒さずに隠れてようすを見ていたのだから。
結論として、彼の動きに不審な点はなく、信用できると判断した。
そして最後まで残っていたルーディーンはというと、未だ納得しきれない表情でカーイを見ていた。
無理もない。クシエリスル合意が成されたとき、この同盟に誰より希望を見出していたのは彼女だった。
タヌマン・クリャの炙り出しと排除にガエムトを差し向けるのも彼女の発案だった。
自分の想いがことごとく裏切られている現状を、すんなり飲み込めないでいるのだろう。
疑念と不安の入り乱れた瞳を向けられると、カーイは背筋がぞくりとするのを感じる。
正直、ここに彼女を呼ぶかどうかは迷った。
もちろん、神としては珍しいほど誠実で清廉な彼女を信用できないなどということはない、それは絶対にないが、きっとこういう顔をされるとわかっていたからだ。
だが、呼ばなかったらそれはそれで、疑っていたと勘違いされるのも困る。
「カーイ、……私は間違っていたのでしょうか。ガエムトを差し向けることを、あのとき公表するべきではなかったのかもしれない……」
「過ぎたことは言うなよ、ルーディーン。あのときは誰かが裏切ってるなんざ、俺も思っちゃいなかったさ」
「ではなぜ隠れて監視していたの? ……フォレンケを疑っていたのでしょう?」
「もともとはあいつがヌダ・アフラムシカやララキに余計な手出しをしないか見てたんだよ。あいつはあんた以上のアフラムシカ信奉者だし、なんとか早くアンハナケウに戻らせたいとも平気で言うくらいだからな。
ここまでの道筋を教えるとか、さすがにそこまではせずとも、何がしか不必要な手助けをしないとは言い切れない。
あいつ自身は大した脅威にゃならねえけど、忌神どもを従わせられるっていう意味では下手な盟主より影響力を持ってるとも言える。正直言ってあいつの離反がいちばん怖ぇからな」
「あなたはほんとうにヌダ・アフラムシカのことが嫌いなのね」
ヒツジの女神は溜息をついて、"それ"を見た。
アンハナケウには、クシエリスル合意を維持するための紋章が、そこかしこに刻まれている。
その中でももっとも重要な、盟主の名紋を組み合わせた紋章を見つめているのだ。そこに刻まれたアフラムシカの紋章を。
「……どうして俺が、アフラムシカを敵視するのか知ってるか?」
「あなたと違って真面目だからでしょう。あれほどの力を持っていながら、驕らず、無欲で、ひたすら人間のために働く神は他にはいない。贄の娘を見殺しにしなかったのも彼らしいとさえ思える」
「そりゃあ、あんたがやつを気に入る理由であって、俺がやつを疎む理由とはちと違うな」
カーシャ・カーイは腹を括って、ルーディーンを正面から見つめた。
傍から見たら、決死の表情で彼女の前に立つオオカミの姿は、ヒツジを喰らおうと立ち塞がる凶悪なけだものに映ったことだろう。
実際、昔はそうだった。
もともと北の森の上級精霊に過ぎなかったカーシャ・カーイは、気まぐれに森を出て放浪し、たまたまルーディーンというヒツジの女神に出逢った。
はるか昔、まだクシエリスルどころか人間の国すらまともに成立しておらず、神話も語られる前のことだ。
あのヒツジをどうにか喰らいたくて、彼はがむしゃらに力をつけた。
周りの精霊を片っ端から喰って力を奪い、領土を拡げ、ついに神格にまで手を出した。彼女に並び立つぐらいではまだ足りず、大陸じゅうにその名が知れ渡るようになったころ……運命が嘲笑うように、ヌダ・アフラムシカがクシエリスルを提唱した。
状況を読むことに長けていたカーイには、それを拒む選択肢はなかった。
すでにルーディーンも受け入れることを表明していた。七柱の強力な神によって合意は成され、彼らは盟主としてクシエリスルの拡大に努めた。
クシエリスルの原則のひとつに、神を無用に増やさないことと、同様に減らさないことが定められている。
合意を受け入れたその日から、もうヒツジを喰らう手段はなくなっていた。
「ルーディーン……たまにはこうして、俺のことだけ見つめてくれよ」
こんなに腹を空かせているのに、喰らうことが許されないのだ。
クシエリスルを誰より疎んでいるのは、そんなもの破り捨てて今すぐこのヒツジの喉笛を噛み砕いてやりたいと願うのは、他ならぬカーシャ・カーイ自身だった。裏切り者を非難する資格などないのかもしれない。
だが、カーイはクシエリスルを裏切る気はない。今はそんなことをしてもルーディーンが手に入らないとわかっているのだ。
それならクシエリスルを甘受しながら、彼女の気が少しでも変わるのを待つほうがいい。
オオカミは口を閉じ、牙をしまった。
あえて気安い態度で接し、好意をあからさまにして茶化し、ヒツジのほうから歩み寄ってくれるのを期待した。
しかしルーディーンはつれない表情で、ふいと顔を逸らしてしまう。
丸みを帯びた角が正面に向けられて、オオカミにしてみれば、それはヒツジの拒絶のしるしに他ならなかった。
「……あなたの言うことは、何から何まで信用なりませんね。裏切り者がいるという話もそうならよかった……。
残念ですが、そちらは信じることにします。そしてこれからもできるだけ情報を共有してください。
私も盟主として、できるかぎり協力は惜しみませんから」
青青と風が吹く。草原の幻想とともに、ヒツジは歩み去っていく。
残されたカーシャ・カーイはその後姿をじっと見ていた。それが小さくなって消えていくのを、白い点が完全に見えなくなる瞬間まで、いつまでも名残惜しそうに見つめていた。
彼女が途中で振り返ることなどないと知っていても、それを確かめずにはいられなかった。
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