059 恋する乙女と砂時計

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 翌日、三人はふたたび移動を始めていた。

 最終目的地は首都シレベニだが、思った以上に移動に時間がかかってしまうため、今日中に辿り着ける見込みは薄い。だいぶ慣れてきたとはいえ紋唱車の運転がまだ満足のいくものではないからだ。

 それにまっすぐ首都を目指すのではなく、途中にある町をいちいち経由しなくてはならないため、移動距離が余計に長くなる。


 正直、野宿ができないというのは不便である。

 砂漠で野営できるような設備を整えようかとも思ったが、そうなるとかなりの出費になる挙句に荷物も増大してしまうため、結局こうして時間をかけて移動したほうがまだマシだという結論に至った。


 移動時間がそのまま練習になると思えばそれほど苦ではない。

 それにさすがに四度目の運転ともなれば、コツらしいものも見えてくるし、工夫するようにもなる。


 例えば、止まるたびに席を交代するのもかなり時間の無駄ではないかという意見が出て、運転手は数時間ごとに交代することにした。

 まず最初の一時間はミルンが担当だ。

 ちなみに時間は紋唱で作った砂時計を使用して計測する。幸い、砂はそこらじゅうにあって困らない。


 初速には定評のあるミルンが走行距離を稼ぐには、いかに停車させないかが鍵となる。

 そこでミルンは考えた。

 常に術を発動しつづければ走り続けてくれるのではないか、と。


 理論上、それは正解だった。

 走らせたらすぐに次の紋章を描いておき、速度が落ちてきたと感じたら発動させることにより、ある程度の速度を保ったままずっと走らせ続けることができる。あとはそれを延々と繰り返すだけだ。

 そう、問題があるとするならば、ミルンの気力がどこまで続くかという一点に尽きる。


 一時間交代、である。これが想像以上に長い。


 普段こんなに短いスパンで術を連発する場面などそうそうないし、そうせざるを得ないような対人試合なんかは、ふつうどれだけ長くてもせいぜい二十分かそこらだ。

 だんだんと気合が続かなくなり、後半には気づくと停車直前になっている。


 しかも今日は天気がいい。

 車内は紋唱で気温調節をしているので熱中症などの心配はないが、あちこちで陽炎がゆらゆらしているのを見ると、だんだん眠くなってくる。

 どこまで行っても代わり映えのしない砂漠の景色が延々続いているのもまた、集中力を削ぐ原因になった。


「おーい、ミルン。交代するよ。……おーいってば」

「……ああ、もう時間か」

「大丈夫ですか……?」

「少しぼーっとしてただけだ」


 果てしなく長かった一時間だが、終わるとなんともあっけない気になるから不思議だ。


 ララキに運転を任せ、ミルンは後ろの座席へ渡る。


 席と言ってもいつかの馬車の荷台と大差ない造りなので、座る位置を変えただけだが、こちらは紋唱板がない代わりに大きな砂時計がある。

 ひっくり返すと十五分計れる大きさなので、これで四回分がひとりの運転時間だ。


 一時間に及ぶやや無理のあった運転に疲れていたミルンは、座ってまもなく舟を漕ぎ始めた。


 とはいえ欲望に任せて寝るのもどうかと思ったので、うとうとしては顔を振ったり深呼吸したりして眠気を紛らわそうとしていたが、次第に意識を失う時間が延びていく。

 数秒眠り、はっとして目覚めるも、また数秒後にはうとうと、を繰り返す。

 また走っていると車体が揺れるのが、絶妙な揺り籠効果をもたらしていた。


 数分も粘っていたが、ついにミルンは抗いきれなくなり、脇においていた自分の荷物を枕に撃沈した。



 向かいに座っていたスニエリタは、そんなミルンの一部始終を見ていた。席は荷台の縁に沿って中心を向くように造られているからだ。

 スニエリタはミルンを起こしてやるべきかどうかしばし悩み、一応声を掛けてみようと傍まで行った。


 もう完全に寝ている。

 すやすやと安らかな寝息を立てて、何も憂うことがないような穏やかな表情の寝顔を見て、ふうと息を吐いた。そして起こすのはやめたのだ。


 ──男の人の寝顔なんて、初めて見たかもしれない。


 そんなことをふと思った。

 マヌルドにいたころのスニエリタの周りには、厳格な家庭で育てられた上流階級の子女しかいなかった。そういう人たちにとって、人前でうたた寝をするのは下品で恥ずかしい行為であるし、もしするとしてもよほど心を許した相手の前でだけだ。

 スニエリタには、そんなことをする友人はいなかった。


 思えばそもそも名前を呼び捨てにされるのも初めてのことだ。

 両親や歳上の許婚ならまだしも、同年代の学友たちはみんなスニエリタのことをお嬢さまとか、気安くてもスニエリタさんなどと呼ぶのがふつうだった。スニエリタもそれにならってみんなのことをさん付けで呼んでいた。


 でも、ララキとミルンは、初めからスニエリタのことを呼び捨てにする。彼らにとってスニエリタはひと月近くも共に旅をしてきた仲間らしいからだ。

 スニエリタにその記憶がないことがわかっても、態度を変えることはなく、まるで親しい友人のように接してくる。


 それが、まったく嫌ではなかった。

 むしろ嬉しかった。だから旅に同行させてくれと頼んだのだ。

 ただ家に帰りたくないだけならば、家に帰るふりをして彼らと別れて、そのままどこかに消えたってよかった。


 自分で自分を死んでもいいと決めてしまったこんな自分に、ララキは生きてほしいと言ってくれた。


 名門と言われる学校で学んでなお満足に紋唱術が使えない自分に、ミルンは優しい言葉をかけてくれた。


 わからない。

 どうしてふたりはこんなに優しくしてくれるのだろう。

 何の役にも立てそうがないスニエリタの同行を許してくれて、面倒まで見てくれて、一体なんの返礼を期待しているのだろう。

 いつかスニエリタを家に返すつもりだから、そのときに謝礼を受け取るのが目的なのだろうか。


 スニエリタは、ミルンの寝顔と、ララキの後ろ姿とを交互に見た。


 そんな人たちには思えなかった。まだ知り合って間もないが、なぜかこのふたりからは、今までスニエリタの周りにいた人間たちとは違う匂いがしているような気がする。


 そもそもスニエリタを伯爵令嬢とか将軍の娘として扱っている気配がない。

 媚もへつらいも彼らの言葉にはないのだ。こちらの機嫌を伺うような言葉もなければ、悲惨な紋唱術の腕前に対する憐れみもない。


「……あれ、ミルンってば寝てんの?」


 ふいに運転席から声がかかった。運転中は後ろを見られないララキだが、静かなことに気づいたらしい。


 もっとも、もしミルンがまだ起きていたとしても、同世代の男の子とどんな話をしたらいいのかスニエリタにはわからなかったけれど。


「はい、あの……お疲れのようすで……お、起こしたほうがよかったですか? すみません」

「いやいいよ、寝かしてあげよ。でもあたしが暇だから、スニエリタ、なんか喋って」

「えっ……あ、ご、ごめんなさい、お話って、わたし、あの、その」

「……あはは、そんな緊張しなくていいよ! じゃああたしが喋るから適当に相槌うってね」


 ララキはからからと笑って、それからこんな話をした。


 初めてスニエリタと会ったときはミルンが大怪我をしていた、とか。


 突然なんの話かと思ってびっくりしたが、よくよく聞いていると、それはスニエリタが操られていたときのことらしい。

 場所は南の国の小さな田舎町だったとのこと。もちろん、スニエリタはその町の名前を聞いてもぴんと来ない。


 ──ロカロって町でね、あたしの大事な人の祠もその町にあるんだ。


 驚いたことに、ララキは自分を結界から救い出したというその神のことを、愛称で呼んで親しんでいる。

 それどころか、大事な人、大切な人と呼んで憚らず、しかもその声音には明らかに親愛以上の感情が滲んでいた。


 スニエリタにはまったく想像のつかない世界の話だったので、思わず確認してしまう。


「……ララキさんは、その神を、つまり……異性として意識していらっしゃるんですか……?」

「うん、まあ、難しい言いかたするとそうね。結婚したい、とかと同じ意味で"好き"だよ」

「け、結婚……ですか……」

「えへへへっ、改めて言うと照れちゃうなぁー……あ、ねえ、スニエリタは好きな人とか、故郷にいなかったの?」


 おとぎ話でなら神と婚姻する人間の話も聞くが、神に恋する乙女なんてものが現実に存在するのかと困惑しながら、スニエリタは返答を考えた。


 学友には、男の子もいた。スニエリタに向けてそれらしい科白を口にしてきた人もいる。

 でも、スニエリタにはそれらに応えなかった、というより、応えることができなかった。


「お父さまに……決められた、婚約者のかたが、いらっしゃいます」

「おお~許婚ってやつね、なんかお嬢さまっぽい。ねえねえ、どんな人なの? 恰好いい?」

「ええと、背が高くて、彫刻のようなお顔で、紋唱術にも長けていらして……まだ二十歳になられたばかりなのに、もう軍で指揮官を務めていらっしゃるとか……」

「すっごいな!」


 ララキが感嘆する。

 確かに、そうやって特徴を並べていくと、素晴らしい人物には違いない。


 マヌルドにいたころも、何度周りの女の子たちから同じ反応をされただろうか。


 みんな口々に言うのだ。「スニエリタさんが羨ましいわ」、「あんなに素敵な殿方との将来が約束されているなんて、さすが将軍閣下のご令嬢」「彼ってとっても人気があるのよ、きっと帝都じゅうの女が貴女を妬んでいるわ」……もちろん、羨望の言葉だけではなかった。


 直接言われはしなかったが、影で罵られていたのを知っている。

 密かに婚約者であるヴァルハーレ卿を慕っていた女の子が、泣きながら言っていたのだ──こんなに悔しいことは他にない、自分は家柄以外はすべてスニエリタに勝っている自信があるのに、その家柄のためだけに負けたのだ、と。


 スニエリタ自身もそのとおりだと思った。

 自分には他の女の子に勝っているところなど何ひとつない。


 背は低いし身体も小さい、紋唱術もろくに使えないできそこない。

 あるのは家の爵位と父の肩書きだけ。

 父にしたって、それがわかっていて婚約を決めたのだ。娘に何も望めないとなれば、もうあとは自分でその結婚相手を選んで結婚させて、跡継ぎを生ませるしかない。


 それがどんな相手だとしても、スニエリタは受け入れるしかないのだ。


「二十歳ってことはちょっと歳上だね。それで、スニエリタはその人のこと、どう思うの?」

「え?」

「だってあたしが聞いたの、好きな人の話だけど」


 ララキが一瞬だけ振り返って、言った。


「スニエリタ、その人のこと好きじゃなさそうだから。なんでかなって」


 どきりとした。

 そのとおり、だったからだ。

 父親が一方的に決めただけの相手で、趣味も合わない、しかも女遊びが激しいという噂さえ聞くような相手のことなんて、本心ではちっとも好きではない。


 向こうにしたってスニエリタのことを女とも思っていないのだ。

 会えば優しくはしてくれるが、表面だけ。ほんとうはお互いに相手に興味がないものだから、話が弾むわけもなく、それなのに父の機嫌をとるために、彼はちょくちょくやってきた。

 何の感情も籠もらない手でスニエリタの肩を抱いて、何の感慨も籠もらない言葉を掛けるのだ。


 でも、それに同じように何の関心も抱かないで応えたスニエリタも、人のことなど言えないだろう。


「……確かに、好きあってお付き合いしているわけでは、ありませんでした。でも……どうしてわかったんですか? わたしが、クラリオさんのことを好きではないと」

「恰好いいかって聞いたのに、誰でもわかるようなことばっかり言うからさぁ」

「誰でも……」

「そう。背が高いとか顔が云々ってのはまだいいけど、軍でどうこうとかって、スニエリタじゃなくても言えるじゃない。

 好きな人の恰好いいとこって、そういうのじゃないと思うのね。


 あたしだったら、シッカのどこが恰好いいかって聞かれたら、いっぱい言えるよ。あたしだけのシッカの恰好いいとこ。

 もしかしたら他の人から見たらぜんぜん恰好よくないかもしれないけど、あたしが好きだって思うとこをね」


 そうか、そういうものなのか。


 スニエリタは納得した。確かにそうだ。スニエリタは彼とは外面だけの関係で、内面的なところをなにひとつ知らないし、知ろうともしなかったから、伝えるべき魅力がどこにあるのかわからない。


 恋をするということは、そういうことなのかと、スニエリタは初めて知った。


「ララキさん……その、もしよろしかったら……ララキさんがシッカさんを素敵だと思うところを、教えていただけませんか?」

「お、聞いてくれる? なんか嬉しいなー! 今までこんな話、誰ともできなかったもん」


 そのあとララキは延々と話し出した。

 曰く、ララキが思うヌダ・アフラムシカの素敵なところ。


 まずライオンの姿が恰好いい。逞しい脚で空を駆ける姿もいいし、木陰に寝そべっているところもいい。


 鬣がふさふさで触ると気持ちいい。あんまり気持ちいいのでしょっちゅう勝手に枕にして眠り、そのたび涎だらけにして怒られたそうだが、その怒られることさえもが嬉しいらしい。


 声が好き。嬉しいときの声、ララキを心配したり怒ったりしているときの声、ものすごく眠そうなときの声、そして滅多に聞けない心の底から驚いているときのちょっと間抜けな声。


 尻尾もかわいくて大好き。見ていると引っ張りたい衝動にかられるが、それをされると本人はかなり痛いそうで、ものすごく怒られるからやらない。


 牙が立派で恰好いい。大きな肉の塊を食べるときの豪快さが好きだし、その牙の間から覗く紅色の舌も好き。

 ララキが泣いていると舌でぺろりと舐めて慰めてくれる、その優しさも大好き。


 たまに人型をとることがあるが、それがまた恰好いい。筋肉質な身体つきも素敵だし、厚い胸板に刺青のような模様が入っているのもお洒落で、ライオンの姿とはまた違った良さがある。

 それに人型のほうが抱きつきやすいのも好きなところ。


 眼がきれい。穏やかな蒼金色の瞳は、ずっと見ていたくなるし、逆に見つめられるとどきどきする。


 まるで予め用意していたように、次から次へとララキは喋り続けた。

 実際そうなのかもしれない。毎日心の底から思い続けていることを、思ったままに口にしているのだ。


 ほんとうに好きなんだな、と思った。


 ふつうなら、神を相手にそんな感情を抱くなんて、恐れ多くてとてもできないはずなのに。

 それどころか、そもそも一生のうちに直接神と言葉を交わすことさえ滅多にあることではない。


 ララキのように人生のあらゆる場面でつねに神の気配があることのほうが稀で、そんな彼女だからこそ、神に恋ができるのだ。

 スニエリタなんて、人間相手でも無理そうなのに。


 そういう意味ではララキのことが羨ましい。


 そんなに誰かのことを真剣に好きだと思えて、ささやかな思い出やちょっとした仕草をひとつひとつ大切に胸にしまっておけることが、……そんな人に出逢えることそのものが。


「……いいな……」


 思わず、声に出してしまっていた。

 まだシッカを褒めまくっている途中だったララキは、えっ今なんか言った? と聞き返してきたので、なんでもありませんと誤魔化した。


 その後もララキののろけ話を聞かされながら、紋唱車は砂漠を走り続けた。


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