058 少女の心

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 食事を終えた三人は馬車屋に向かった。


 ジャルギーヤがいない以上は地に足をつけた移動方法を確保しなくてはならない。幸いこの国には紋唱車という便利かつ紋唱の練習にもなる素晴らしいものがあるので、今度もありがたくお世話になる。


 もちろんスニエリタには前回乗車した記憶がないので改めて説明した。その仕組みに関してはすごいですねと感心していたが、自分たちで運転することを伝えたとたんに顔が引きつった。

 ……ますます不安だ。

 乗り込んで、まずララキとミルンが交互に手本を見せる。


 ところがこれが思ったより上手くいかない。カイさんを乗せて走っていたときの快調さはどこへやら、相変わらず走り続けてはくれるものの速度が出ないララキと、初速はあるがどうにも走行距離が伸びないミルンに戻ってしまったのだ。


 コツを掴めたと思ったのは気のせいだったのだろうか。あるいはやっぱりカイさんに何らかの強い加護があったか、カイさん自身が神の類だったのかもしれないが、今となっては謎である。

 とにかく手本を見せると言ってしまった手前そのありさまでは恰好がつかないので、結局ふたりで交互にあーでもないこーでもないと言いながら運転練習をし続け、スニエリタに運転手役が回ってくることがないまま時間だけが過ぎた。


 移動ペースが捗捗しくないため、中途半端な時間に立ち寄った町で昼休憩を摂る。

 予定は大幅に遅れ、もうすっかり午後の茶会を開くような時間になってしまっていたため、三人はお腹を空かせて町に入る。

 ほんとうなら夜には別の町に着いているはずだったが、今日はもうここに一泊するしかない。砂漠で野宿できる装備を誰も持っていないので、日没までに次の町まで行ける算段がない以上はやむをえまい。


 環境上、こういう妙な時間帯に現れる旅人に慣れているらしい町の人々は、食堂でも宿でもとくに気にしたようすもなくふつうに対応された。


 食事を摂り、宿の部屋も確保できたところで、ミルンが言い出す。


「近場に見るべきものはなさそうだし、夕飯まで暇だから、町の外に行って練習しよう。砂漠ならどんな大技ぶっ放しても迷惑にならないからな」

「確かにこういうとこは訓練場いらないよね。……スニエリタ、大丈夫? なんか顔色悪いけど……」

「だ、大丈、夫です」


 真っ青になっているスニエリタを見てよりいっそう不安が募るララキだった。

 というか、ここまでくると可哀想にすら思えてくる。もはや紋唱術を使うこと自体にものすごい精神的重圧を感じているらしい。


 ミルンやロディルのように人にあれこれ言えるレベルではないが、それが原因なんじゃないかな、とララキにも考察めいた思考がよぎる。

 なんとなれば術の制御が上手くいかないことに関してはある意味ララキは先輩だ。それを乗り越えるに到ったロディル先生の教えによれば、自分を見つめなおすことが、紋唱術を制御するために必要不可欠だった。


 自分が思ったような結果を出すためには、そもそも自分が何を求めているのかを理解しなくてはならない。

 それが意外と難しい。いや、ふつうの人にはそうでもないかもしれないが、ララキには難しかった。意識して過去を振り返らないようにしていたからだ。


 ララキは他の誰とも違う民族で、誰も経験したことがないような孤独を体験し、しかもそれを素知らぬふりして表向きはごくふつうのイキエス人のように振舞って生きてきた。

 そんなつもりではなかったが、ある意味では自分を偽って生きていたわけだ。

 過去を忘れることと、覚えていながら訣別するのはまったく別で、恐らくララキが紋唱術を己のものにするためには、後者が必要だった。


 ……という自分の経験から鑑みると、スニエリタも精神的なものが理由で制御が上手くいかないのかもしれない。


 そしてある意味、ララキより過去との訣別が難しいかもしれない。


 ララキは神という圧倒的な存在により救済されていて、もうあの結界を恐れる必要はないし、タヌマン・クリャに怯えてもいない。

 実際に対峙すると恐ろしかったりいろんな感情が込み上げてきたりはするが、少なくとも今は、かの外神のことを考えて夜も眠れないといったことはない。


 スニエリタの場合、彼女にとっての結界であるマヌルドの実家は、当たり前だが物理的に破壊されていない。偶然によって遠く離れることにはなったが、いつ追っ手が現れて連れ戻されるかわからない状況だ。

 そしてシッカのような超常の力を持って対抗してくれる存在もいない。


 自分の力だけで乗り越えるしかないのだ。

 もちろん、ララキもできる限り力になってあげたいけれど、それにだって限界はある。


 とか考えながら町の外へ。

 幸い今日はあまり風が強くなくて、砂もそれほど舞っていない。もし眼も開けられないほどの砂嵐だったら練習はできないし、そこそこでもゴーグルを買いに行かなくてはならなかったが、その必要もなさそうだ。


 まあララキはいざとなったらプンタンに水の特別製ゴーグルを作ってもらうという裏技があるのだが。

 あとスニエリタは自前で持っているから必要ない。


 ミルンは、……そういえば頭に着けているのは何に使うのだろう? 片眼ゴーグルにも見えなくもないが、今まで一度も使っているところを見たことがない。

 もしかしてただの髪留めなのか。

 いや、ミルンにそういう洒落っ気はない。


「とりあえず何かやってみせてくれ。今まで見せてもらったのは、嵐華、翔華とかの風属性の術が主だったが……」

「は、はい。ええと……」


 スニエリタはゆっくりと紋唱を描く。


 細い指先で、同じように細い線を紡ぎ、ぴったりと円を繋ぐ。線の太さが足りないのは少し気になるが、とりあえず形はきれいなので問題はなさそうだ。

 そして描き終えてからも図形の間違いなどがないか時間をかけて確認してから、最後に震える声でそっと唱えた。


「しょ……翔華の、紋」


 ひゅるん。


 発動……したといえばしたし、していないといえばしていないような、そんな結果だった。

 それらしい音は微かに聞こえたが、もともと砂漠に吹いていたゆるやかな風に完全にかき消されてしまっている。


 ああ、とララキは心の中で息を吐いた。まるでかつての自分を見ているようだ。


 ミルンはというと、しばらく硬直しているようだったが、やがて自分に言い聞かせるような声音で、そうか、と言った。

 気持ちはわからないでもないが、そのちょっとがっかりしている感じをもう少し隠してあげてほしい。

 案の定スニエリタは泣きそうになっている。


「ご、ごめんなさい! ごめんなさいっ……!」

「いやその、なんだ。これから練習しよう」

「ごめんなさい、わたし、こんなので……おふたりの足手まといです、ごめんなさい……っ」

「だ、大丈夫だよ! あたしも前まで似たような感じだったから!」

「……ほんとうですか?」

「ああ、そりゃもうひどかった。ある意味スニエリタよりやばかったな、発動したりしなかったり、果ては暴発して周りを巻き込みかけたし」

「そうそう、水流の紋なのに水じゃなくてお湯が出るとか、コップ一杯分しか出ないとか、泡立ってたりとかね」

「……それは初耳だ。おまえそんなにひどかったのか」


 そんなこんなでしばらくスニエリタの特訓が続いた。


 線をほどほどの太さで、しっかりと描くこと。

 招言詩を唱えるときは腹から声を出すこと。

 そしてもっと自分に自信を持ってやれば、発動しないなんてことはなくなるはず。


 ……ということをミルンが懇切丁寧に言い聞かせ、何度か同じ術を繰り返した。


 この光景見覚えあるな、と思うララキだった。

 でもって、悲しいかな知っている、この場合は繰り返すことにそれほど効果はないということを。


 聞けばスニエリタの出身校はマヌルド帝国立紋唱学術院だという。漆塗りの箱に入った風格高い認定証を見せてもらったので間違いない。

 学校に通っている間は今よりもまともに術が使えたとのことで、ララキのように落第ぎりぎりのところで滑り込み合格をしたということもなく、だいたい同期内では中ぐらいの成績を修めていたそうだ。


 つまるところ知識や動作はこの場の誰よりしっかりと学んでいるのだ。

 操られていたときに披露していた両手描きの技法も一応やろうと思えばやれるらしい。


「翔華の紋」


 意外なことに、何度かやっている間にちょっとずつ良くなっていた。少なくとも発動しないということはなく、かなり威力が低いものの、眼に見えてスニエリタの前の砂が踊るようにはなった。


「うん、やっぱり基礎がちゃんとしてるから安定感はあるな。そういう意味ではララキよりマシだ。

 でもなあ、うーん……おいララキ、おまえは見ててどう思う?」

「そうだね、あたしはもちろんミルンより描くの上手だよね、やっぱり。図形がきれいっていうか」

「いや、んなわかりきってることはいいんだよ。自分がてんで制御できてなかったときと比較してどうかって聞いてんだ。経験者なりの意見ってもんがあるだろ、ほれ」

「……なんか訊きかたが腹立つんだけど」

「悪かったな、俺は制御に関して悩んだこたぁねーんだわ」

「あっそ。えーっとねえ、ミルンより制御問題に関して経験豊富なあたしから言わせてもらうとだねえ、……。


 気持ちの問題……だと、思う。あたしはそうだったから」


 もう少し上手く言えないかと思って少し考えたが、結局思ったままに口にした。


 スニエリタがこちらを見る。大きな眼が揺れて、ララキの言わんとしている意味を一生懸命に考えている。

 いや、たぶん、自分でもわかっているのだろう。

 彼女の瞳の奥に、諦めに似た色が潜んでいるのを見た気がしたから。


 それでもララキは続けた。

 ロディルに言われた言葉を思い出しながら、かつての自分を見ているような気持ちで。


 呪われた民であること。タヌマン・クリャの生贄であったこと。

 結界に閉じ込められ、何十年か何百年か、外の世界がまったく変わって故郷が滅びるまでの間をそこで過ごしたこと。

 忘れられるはずのない絶望と辛苦の記憶を、心の奥底に封印して忘れようとしていた。呪われた民であることを隠し、イキエス人のふりをしながら、内心では自分でもそう思いたかった。


 自分はごくふつうのイキエス人で、ただの女の子で、身体に紋章が刻まれてもいなければ両親や故郷を失ってもいない……そうだったらよかったのに、と。


 たぶんそれが間違っていたというよりは、ララキ自身が納得できていなかったからだろう。自分の願望と、わかりきった現実とがぶつかり合って、何かのバランスを失していたのだ。


 たぶんそれはフォレンケが言うところの"心の紋章"だと思う。

 自分の紋章を偽ることはできない。

 フォレンケは、紋章を見るだけで主神と出身地域がわかるようなことを言っていた。だからララキにはタヌマン・クリャの民としての紋章が心に刻まれているはずだ。


 違う紋章を描こうとしたって上手くいくはずがない、きっとこれはそういうことなのだ。


「もちろん、あたしとスニエリタじゃ、生まれた家とかこれまで経験したことが違うから、同じようには解決しないと思う。スニエリタにはスニエリタの理由があるんじゃないかな」

「わたしの……理由……」

「何にしろララキだって克服するのに時間がかかってんだ。焦る必要はねえよ」


 珍しくミルンが優しい言葉をかけている。

 そんなことも言えるんだなと思ったが、スニエリタにはそれくらいでちょうどいいのかもしれない。青ざめたりおろおろすることはなく、わかりました、と頷いている。


 ただ、まだ瞳の奥の色は変わっていなかった。

 それが少しだけ気がかりなまま、その日の練習は終わった。


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