056 スニエリタとの出逢い
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初めて負けたとき、悔しさで気が狂いそうになった。
あのころのミルンには、彼女はスニエリタといういち個人である以上に、マヌルド出身の術師だった。
マヌルドのやつに負けたと思うのが悔しくてならなかった。兄のこともあって、マヌルドの紋唱術師を仮想敵のように思って見ていたふしさえあった。
それから必死で対策を考えて、再戦申し込みのために探索紋唱まで使った。
どうあっても彼女に勝たないままフィナナを去ることが耐えられなかったからだ。
そして、一応勝てた。
あのときスニエリタは何と言ったっけ。──殺してください、そういうルールなのでしょう?
……確か、そんな言葉だったと思う。
ミルンはそれを断った。命まで奪ったら、もうミルンは別のものになってしまうと思ったからだ。
人を殺すために紋唱術師になったんじゃない。
逆だ。故郷の人々を守るために、強くなろうとした。
だったら、今も。
女の子ひとりさえ救えないような男に成り下がったら、それこそ二度と郷里の土を踏めない。
絶対に死なせるものか。
「あたしね……変な身の上だから、じつは同世代の女の子って、あんまり付き合ってこなかったんだ。髪型変えたほうがいいよとか、こういう服が似合うよって、悪気なく言われるのが辛くて。
だから、スニエリタと仲良くなれたのがすごく嬉しかったの。
今度こそちゃんと友だちになりたい。あなたのことも知りたいな。
だから……起きて、 スニエリタ」
そのときだ。
手のひらの下で、確かに何かが震えるのを感じた。
ほんのわずかだったが、ミルンにはそれが、スニエリタからの返答のように思えてならなかった。
すぐさまスニエリタの頭の下に手を入れて、位置を直して顎を引き上げる。気道を確保したら、思いきり息を吸い込んで、それをスニエリタに吹き込むのだ。
祈るような気持ちでその動作を行う。
もう一度。
「……あ! ミルン、離れて!」
ララキの声にはっとした瞬間、──眼が合った。
慌てて飛びのいたのと同時に誰かが咽る。女の子の声で、ララキではない。
スニエリタだった。
祭壇の上で身じろぎしながら、しばらく忘れていた呼吸をようやく思い出せた少女が、必死に喉を震わせている。
「スニエリタ……! よかった……よかったぁぁ~ッ!
気分はどう、どっか痛いとこない? ちゃんと見えてる? あたしの声聞こえてる? 寒くない? 喉渇いてない?」
「おいララキ、落ち着け。そんな一度にまくしたててもすぐ返事なんかできねえだろ」
「だ、だってさあ、……あぁ~ほっとしたら泣けてきた……」
「……まあいいか。ところで、えーっと……」
今日ぐらい好きに泣かせてやろうと思い、ララキをほっぽってスニエリタのほうを見ると、彼女は不安げにあたりを見回している。
気を失っている間にまったく知らない場所に動かされたのだから無理もない。とりあえず状況を説明してやらなければ。
「あ、あの……ここは……」
「フォレンケの昔の神殿らしい。こういう場所のほうが結界が張りやすいんだと」
「わ……わたしは……」
「タヌマン・クリャに身体を乗っ取られてたらしい。ちなみにニンナもだ。っつーか、ニンナのほうが司令塔の役割だったみたいだな。あ、とりあえずジャルギーヤとコミは無事に……、おい大丈夫か? なんかまだ顔色悪いな」
「すいません、その、あの、いろいろお手数をおかけしてしまったみたいで……あの、それで」
スニエリタは、ほんとうに心の底から困ったという顔で、言った。
「それで、その……あなたがたは、どちらさまでしょうか……?」
その発言に、ララキは固まり、ミルンは肩を落とした。
落ち着いて考えれば当たり前だった。考えてしかるべきだったのだ。
恐らく自分たちと出逢うよりも前からタヌマン・クリャに操られていた、"心が死んでいた"状態の彼女に、三人で旅をしていた間の記憶などない可能性を。
とりあえず順番に名乗る。
──あたしはララキ。イキエス出身だけど、生まれは"呪われた民"だよ。
あたしを助けたせいで弱っちゃったシッカっていう神さまをアンハナケウに連れて行く旅をしてるの。
──俺はミルン・スロヴィリーク。ハーシ出身で、兄が水ハーシ族の族長をやってる。
俺もアンハナケウに用があるんでララキと一緒に行動してる。
「ご丁寧にありがとうございます。それで、みなさんはどうしてわたしを助けてくださったのでしょうか?」
「えっとね、あたしたち、途中から一緒に旅してたのね。それでなんやかんやあってヴレンデールまで来たんだけど、そこでガエムトっていう忌神……あっ忌神っていうのは死者の国の神さまなんだって、まあとりあえずその人に会ったのね。
そしたらニンナがこう吹っ飛ばされて、そこからタヌマン・クリャが出てきて……」
「えっ、あの……ええと……」
「込み入っててわかりにくいよな、要するに、あんたの遣獣の中に、このララキをしつこく追いかけてるタヌマン・クリャが潜んでいて、あんたもそいつに操られてここまで来たらしい。それをガエムトが気づいて戦闘になったんだが、その過程であんたはやつの支配から脱したものの、仮死状態というか、そういう状態だったんで」
『ボクの指導によって無事生還した、というわけだね。あ、初めまして、ヴレンデールの主神フォレンケだよ』
「ええええ……!?」
わけのわからない話を延々聞かされた挙句、突然すぐ隣から神を名乗るヤマネコが顔を覗かせてきたとあって、さすがにスニエリタは軽いパニックに陥っていた。無理もない。
どうでもいいが、同席していた神がフォレンケでよかったと初めて思った。
他の神と比べて圧倒的に貫禄はないが、そのぶん威圧感も恐ろしさも感じさせないので、少なくともこれ以上スニエリタの精神的不安を増長させることはない。
ひとまずスニエリタは祭壇を下りてからフォレンケに頭を下げている。たぶん他の神なら祭壇から転げ落ちて土下座させられているころだ。
見たところ立ったり歩いたりするのにも支障はないらしい。元気そうでほっとした。
その後もしばらくララキが地図を見ながら旅の道筋を辿ってみたり、途中であったことをあれこれと話したりして、スニエリタも概ねの状況は把握できたと思われる。心境のほどはともかく。
話を続けながら、とりあえず神殿からは出ることにした。
外では、なんと朝陽が昇っていた。
ずっと結界の中にいたのでもう時間の感覚がめちゃくちゃだ。例によって何日も経ってしまっているのかもしれない、人里に戻ったらとりあえず新聞を買おうとミルンは思った。
あと今度は結界を出てすぐ倒れるようなことにならないようフォレンケに頼まなくては。
「そういえば、スニエリタっていうのはほんとの名前なんだよね? 苗字は聞いたことなかったけど」
思い出したようにララキが言って、スニエリタはそれに頷く。
「スニエリタ・エルファムディナ・クイネスと申します」
「……クイネス?」
「はい、……あの、もしかして……ご存知ですか……?」
ご存知も何も、いやララキはきょとんとしているが、ミルンにとってはわりとよく聞く姓だ。主に新聞などで。
それに族長会議帰りの父や兄の口からも幾度となく出てきた。
マヌルド人でクイネスといえば、帝国将軍の家名である。
爵位も持っているそうだから貴族も貴族、マヌルドどころか大陸全体でも皇帝と王族を抜いて五本の指に入るような大貴族ではないか。
でもって貴族と同じ姓を平民が名乗ることは許されず、分家であればそれ用の別名を名乗るはず、ということは本家の人間。
聞くところによれば現当主であるクイネス将軍には子どもはひとりしかいない。
要するに。
「……帝国将軍のご令嬢であらせられましたか……」
あまりのことに思わず敬語になりながら呆けていると、何それ、とララキが言った。こいつは常識を知らなすぎる。
マヌルドのクイネス将軍といえば、鬼のように強いと言われる帝国軍近衛部隊を直接指揮する権限を有する唯一の存在で、本人も紋唱術の達人として知られ、厳格にして荒い気性の持ち主でもあり、その激しい言動で国内外にもその名を轟かせている傑物である。軍人ながら政治にもしょっちゅう口を出し、マヌルドの国益にならない施政をいっさい許さない。
……これまでハーシ連邦がどれだけ彼に泣かされてきたことか。
いくつの国際的提言を足蹴にされ、経済的損失を被り、軍事的協力を余儀なくされてきたか。
一応は独立したとはいえ、マヌルドが本気で再侵略をかけてきたら対抗するべくもないハーシの立場は弱い。
もちろんクシエリスル合意があるのでそう簡単にマヌルド軍が国境を越えてくることはなく、ふたたび支配下に置かれる可能性はかなり低いわけだが、国民感情としてはハーシ人はマヌルド人に頭が上がらないのだ。
悲しいかな、染み付いた奴隷根性は独立して久しい今なお失われていない。
それにしてもスニエリタが将軍の娘というのはまったく信じがたい。
直接将軍にお目見えしたことのないミルンですら、とにかく強くておっかないということだけは嫌というほど知っている。その娘もきっと気性の激しい剛毅な女性なのだとばかり思っていた。
目の前の彼女はその点では真逆といえる。もともと小さな身体をさらに縮こませて、何もしていないにも関わらず、すみませんと謝っている。
こちらからすると何がすまないのか謎なぐらいだが、なぜか泣きそうにもなっている。
とにかく素性がはっきりした今、ミルンが言うべきことはひとつだ。
「とりあえずここでお別れだな」
「……なんで!? やっと生き返ったばっかりなんだし、それにこれからだって……」
「ここまで同行してたのは、タヌマン・クリャがおまえを見張るためだろ。スニエリタ自身に旅をする理由はない。それなら家に帰るべきだ。
幸いジャルギーヤがいるんだから、まっすぐマヌルドに向かって飛べば一週間もかからずにアウレアシノンに着くだろ」
その間に必要な食糧や水くらいはこちらで工面してやればいい。
そう言うミルンに反旗を翻したのは、以外にもララキではなくジャルギーヤだった。
ワシは以前より心もち低い声で告げた。
──私はこの娘を運んでやるつもりはない。
「どういうことだよ」
『この娘は我が主ではない。少なくとも、今の娘には、私を遣うに足るほどの才覚や度量がないと見える』
『……アタシも同意見だわ。もう完全に別人だもの』
「そんな、コミまで……」
『一度は契りを交わしたよしみで紋章は残しておいてやろう。だが、我が主として相応しい者になったと認めるまでは、呼ばれても応えることはない、と覚えておけ』
ジャルギーヤはそれだけ言うと紋章の内に消えてしまった。
コミも少し悩んでいたようだが、ごめんなさいね、と言い残して消えた。
あとに残された人間たちは、困惑の表情で顔を見合わせた。
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