055 『スニエリタ』との別れ
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神々の怒りは治まることはなかったが、それでも思うさま吼えたことで少しは冷静になったらしいフォレンケが、ガエムトに戻るように指示をした。
どこに戻るのかは人間たちの知るところではなかったが、ともかく忌神は来たときと同じように地を沸き立たせて地底へと降りていった。
それを見送ってからようやくシッカが紋章の内に消える。
ミーたちとプンタンにも一旦帰るように指示を出し、地上に残ったのはフォレンケの他には人間三人とワシとイタチのみになった。
いや、ここにいる人間は正しくはふたりだけだ。スニエリタはもう、生きてはいないのだから。
ララキから預けられたまま、ずっと彼女を腕に抱いていたミルンは、ぼんやりとその顔を見下ろしていた。
眠っているようだと思った。いつか見た寝顔と寸分違わない穏やかな表情で、肩を揺さぶってやればすぐに眼を醒ましそうだ。
あのときと違うのは、彼女の身体がひどく冷たくて、そして息をしていないこと。
まだ消えずに残っていたジャルギーヤとコミは、迷うような表情でそれを見つめている。
『さっぱり状況がわからないわ。あんなにたくさんの神が顕現するのを見たのも初めてだけど……ひどい光景だった……。
それに、アタシを呼んでくれた子は動かなくなった。何がどうなってるの?』
『人間……教えてくれ。私の主は死んだのか?』
もっともだ。世界がどれだけ広かろうと、死んだ人間と契約した獣など他にいないだろう。突然のことで受け入れられないのも無理はない。
ミルンだって、まだ受け入れきれてはいない。未だに彼女を地面に下ろすことさえできないでいる。
「ねえ、フォレンケ、……この子を助けることってできないの?」
懇願するようにララキが言った。
「死んだら忌神のところに行くんでしょう? ガエムトに言って、この子の魂を連れてきてもらうことって、できないの?」
『それは最大の禁忌だよ、ララキ。死んだものは生き返ってはいけないんだ』
「どうして? だって、この子は何にも関係ないのにタヌマン・クリャに利用されて……ほんとなら、ぜんぜん違う場所で元気に生きてたはずじゃないの? 誰かの勝手な理由で殺されて、操られて……そういう人たちを助けてくれる神さまがいたっていいじゃない」
さして広くもない大陸に、百に近い数の神と精霊を抱えるこの世界でも、そのような奇跡を起こす神はいない。
フォレンケの言い分もわかる。死んだ人間が簡単に生き返るような世界なら、かつての戦乱の時代はもっと混迷を極めていたことだろう。忌神という存在も必要がなくなる。
生きものが死や痛みを恐れなければ、もっと世界はめちゃくちゃになる。
神がいるということは、秩序があるということだ。
その土地に暮らす人や獣は、神の決めたように生きることで、生物としての道から逸れずに一生を終える。……そうあるべきと定められている。
しかし同時に、ミルンにはララキの言い分も痛いほどよくわかる。
きっとララキは自分のせいでスニエリタが死んだのだと思っているからだ。自分が旅に出なければ、どこかで平和に暮らしていたはずの名も知らない少女が、外神の人形にされることも、こんな沙漠に連れて来られることもなかったと、彼女はきっとそう思っている。
己の意思を無視してタヌマン・クリャに人生をめちゃくちゃにされた、という意味でも、スニエリタに対する深い同情を感じているのかもしれない。
ララキは命こそ奪われなかったが、家族と引き離されて果てしない時間を結界で過ごさなくてはならなかった。
風が冷たい。フォレンケはじっと、三人と二匹を見下ろしている。
『……死者を蘇生させることは絶対にできない。そんなことをしたらクシエリスルに反したと見なされて、他のすべての神から追われることになる。
そして世の秩序を大きく乱す行為である以上、しようとも思わない』
当然の答えが返されて、ミルンはそっと、ララキの肩を叩いた。諦めよう、という言葉の代わりに。
せめて、彼女の素性を調べて家に送り返すことくらいはしよう……。
『そもそも死んでいない人間の魂を
そこでララキとミルンは顔を見合わせた。
フォレンケは今なんと言った? ……
「ちょ、ちょっと待って! この子死んでないの?」
『ある意味ね』
「さっきガエムトは死んでるってはっきり言ったよな!?」
『神と人では"死の定義"ってのが少し違うから。
きみたち人間でいうところの死は、魂が失われて肉体が滅びる、というような意味合いだとボクらは解釈してるけど、神にとっての死は"魂が応答しない"ことなんだ。
肉体が滅びるっていうのは、魂と肉体とを繋ぐ"心の紋章"が消えて、魂だけが忌界……つまり忌神の領域に渡ってから起こるんだけど、タヌマン・クリャはどうやら彼女の紋章を維持したまま乗っ取っていたみたいだね。でないと旅の途中で身体がどんどん腐ってしまうから。
ほら、サイナの試験で出した幻獣たちがいただろ? あれは肉体と紋章のみで構成されてるんで、動いたりするたびに身体が朽ちていくんだ。
もしその子に魂がなくなってたら、とっくに目も当てられない姿になってるよ』
「うわぁ……と、とにかくスニエリタはまだ死んでないんだよね、じゃあ助ける方法もあるんだよね!?」
『それなんだけど、……忌神に対して魂から応答がなかったっていうのがひっかかる。もちろん、その子はもともとこちらの出身者ではないから、本来の主神に対してのみ応えるのが正当ではあるんだけど。
それに今、呼吸とか心臓とか止まってるんじゃない?』
「……ああ、息はしてないが……」
腕の中の少女は冷たい。それが意味するのは、その身体に血が通っていないということ。呼吸もせず、心臓も動かないまま、もうどれだけの時間が経っているだろうか。
もしかすると、外神から解放された直後ならまだ希望があったかもしれない。
あの直前まではたしかにスニエリタは生きていたのだ。生きているように振舞っていたし、息もしていたし、温かかった。
もし奪還してすぐに延命措置を行っていなのなら、息を吹き返してくれたのではないか。
だとしたらとんだ手遅れではないか。
忌神の言葉を真に受けて、掴めたはずの糸を断ってしまった。
一瞬差しこんだ光明が、そのあとの闇をより深くする。死んでいると言われたときよりも今、圧し掛かる感情が重くミルンを押し潰した。
他ならぬ自分の手で彼女を殺したのかもしれない、そう思うほどに、見えない手に喉を絞められているような心地がする。
『どういう事情があったのかはわからないけど、彼女自身に生きる気力がないんだろうね。そういう人間を死の淵から呼び戻すのは決して容易くないよ。
でも……ふたりとも、顔を上げなさい。まだ不可能と決まったわけじゃない』
フォレンケは優しい声でそう言った。それを聞いて顔を上げたとき、ミルンはどんな顔をしていたのだろうか。
ともかく神の指示により、ミルンはスニエリタを担ぎ上げ、すぐ隣にあった遺跡の中へと運び込んだ。
日干し煉瓦を積み上げた外壁は野ざらしのせいかくたびれた姿になっていたが、内部の建物は石造りで想像以上に立派なものだった。
長い回廊を抜け、案内されるまま奥へと進んでいく。
ちなみにこの遺跡は、フォレンケがクシエリスルに入る前に造られた神殿だったそうだ。そういう神にとって馴染み深い場所は結界などを張りやすいらしい。
内壁には原始的な紋章が幾つも刻まれている。
もう長いこと人の出入りがあった痕跡はないが、不思議と空気が澄んでいるように感じた。壁の紋章の効果なのか、あるいはフォレンケがそうさせるのかは定かではないが、歩いているだけで心が落ち着く。
やがて神殿のもっとも奥だと思われる、祭壇のある部屋に着いた。
膝下ほどの高さがある壇の上にスニエリタを寝かせるように言われ、下ろそうとしたらララキに止められた。
こちらはそろそろ腕が限界に近かったが、ララキが布を出して祭壇に敷くのを待たされ、さすがにちょっときつかった。ミーかジャルギーヤに手伝わせればよかったと一瞬思った。
ちなみにスニエリタの遣獣たちは、一応あとから着いてきてはいるが、しばらく口を聞いていない。とにかくじっと状況を見守るつもりらしい。
主が蘇生するのか、そうでないのかを見極めるまで、彼らとしても身の振りようが定まらないのだろう。
『よし、じゃあまずひとりは心臓を擦って、それから口伝いで呼気を吹き込むんだ。身体が動かないことにはどうしようもないからね』
「ふつうの蘇生法なんだ……紋唱とか使わないの?」
『それはもうひとりにやってもらう。ボクが彼女の"心の紋章"を視るから、もうひとりはそれを描くんだ。それから詩のかわりにいろいろ呼びかける。
彼女に少しでも生きる意思があれば、呼びかけに応えるかもしれない』
「……応えなかったら?」
『残念だけど、そうしたらそのうち自然に紋章が消えて、魂が離れるだけだ。
でも希望は捨てないで。もうけっこう時間が経ってるけど、まだ紋章が消える気配はない……その意味はわかるでしょ?』
わかるでしょ、と言われても、そもそもの理屈を漠然としか理解できていないのだが。
好意的に解釈するなら、"心の紋章"というくらいだから、その紋章は精神に由来するものなのだろう。
それが消えずに残っているなら多少なりと生きる意思があるということだ。
意思というほど前向きな感情ではないかもしれないが、少なくともこの世への未練でもあるのかもしれない。
それなら引き戻せる可能性は充分にある。そういうことだろう。
そう、思いたい。
フォレンケは壇上にぴょんと上がり、彼女の額に口付けるような仕草をした。
それを見たララキが思わず自分の額を触っている。そういえば前にもルーディーンにキスされたとかいう話だったが、その場所も額だったと言っていたような。
『……
この模様が出るのはペル・ヴィーラの民だから、マヌルドの中央あたりの出だね』
「え、なにそれわかんない」
「ララキ、これ見て描け」
ミルンは手帳を出して渡した。ちょうど言われたのと同じ図形をメモした頁があったからだ。
ララキは細かいなあと震えた声で言いながらも、ゆっくり丁寧にそれを描く。
前に比べて線がきれいになった。
自分はスニエリタに向き直って、はたと気づく。
ララキに紋唱役を任せてしまった。つまり自分が心臓マッサージ係になってしまった。
湖畔出身者として方法は知っているので問題ないが、蘇生に成功できたとしてあとで嫌がられるんじゃなかろうか。
それにこんな華奢な女の子にやったら下手をすると怪我をさせる。肋骨なんか簡単に砕けそうな気がする。
躊躇うミルンにフォレンケから声がかかる。──ぼーっとしてないで、早く動いて!
確かに時間があるわけではない。このまま何もしなければ、いつかスニエリタの魂はこの身体から抜け落ちてしまうのだ。そうなったらもう完全に打つ手がなくなる。
今度こそ、……ほんとうに失うことになる。
考えたり悩んでいる暇はない。
両手をスニエリタの胸の上で重ね合わせて置くと、すぐ下にシャツを止めるためのベルトがあって邪魔だと気づく。
留め金を外して緩ませてから、もう一度場所を確かめて、ぐっと力を入れて圧す。
ふつう地面に寝かせて行う作業を高い台に載せてやっているせいで、思ったよりも力が入らない。体重を乗せられないからだ。
今はむしろそのほうが都合がいいかもしれないと思いつつ、圧迫を続ける。
何度も、何度も、手の下で肋骨の軋みを感じるほど強く、圧し続ける。
隣でララキが紋唱しながら呼びかけている。
スニエリタの名前を呼んでいる。どうか名前だけは本名であってほしい。
「スニエリタ、お願い、眼を醒まして。あたし……あなたに謝らなくちゃいけないし、お礼を言いたいことだってたくさんあるんだよ」
少女は動かない。両眼を閉じて、静かに眠っている。
それを揺り起こそうと、ミルンはひたすらに彼女の心臓を圧す。
「レルヴェドでミルンの妹にかんざし買ったとき、こっそりお揃いであたしたちのも買ったよね。いつか一緒に着けるときがくるといいねって……それにさ、ミルンのほかの兄妹にも会ってみたくない? ね?」
呼びかけの中にはミルンの知らない事実もいくらか含まれていた。
そういえばふたりはいつも楽しげにあれやこれやとしゃべくっていて、単純に言葉を交わした回数と頻度で言えばララキはミルンの倍以上だろう。そう思うと今の配置も正しいような気がする。
ミルンには、そんなにいろいろスニエリタに呼びかける言葉の持ち合わせがない。
別に、なくたっていいと思う。
友だちになりたかったわけではない。ミルンにとっては、彼女はライバルのような存在だったから。
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