054 神盟の外に在る者

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 裂けたヘビの割れ目からは巨大な翼が生え、そして、ずるずると皮を脱ぎ捨てて、まるでさなぎが蝶や蛾に変わるような優雅さで、一羽の鳥へと変貌した。

 眼が醒めるほど鮮やかな色の飾り羽に全身を包み、ヘビのように長い尾を風に躍らせながら。


 頭には王冠のように優美な巻き毛。

 身体は宝石のような青や緑を中心に、ところどころ化粧のように赤や橙や黄色を差して、頬には眩いほどの白。

 尾羽だけが黒かったが、磨き上げた大理石のような艶がある。


 長きにわたってララキを苦しめ、世界にその名を轟かせた"クシエリスルの外の神"タヌマン・クリャは、驚くほどに美しい姿で顕現した。


 忌神によって暴き出されたにも関わらず、氷のように静かな面持ちだった。

 その表情にはほんのわずかにも焦りの色が見られない。こうなることはわかっていた、という顔だった。


 超然とした態度にララキは思わず息を呑む。この状況で、どうしてそんなに落ち着いていられるのだろう。


 タヌマン・クリャの足元でスニエリタの身体が崩れ落ちる。

 倒れた、というよりは、転がった。操り糸を切られた人形のように。


 それを見て誰かが叫んだ。

 それはララキだったかもしれない、あるいはミルンだったかもしれないし、もしかしたらふたり同時だったかもしれない。


 だが、ララキはスニエリタに駆け寄ることができなかった。

 シッカが立ち塞がったからだ。今スニエリタに近づくということは、その真上にいるタヌマン・クリャに接するのと同じだった。

 わかっていてもじっとなんてしていられない。


「お願いシッカ、どいて! プンタンも邪魔しないでよ!」

『ダメだよ姉さん! あいつに近寄っちゃあダメだ! きっとシッカの旦那もそう言ってんだよォ!』

「でもっ!」


 プンタンにまで、ねばねばした水の網のようなものを張られて引き止められ、シッカも頑として退いてくれなかった。

 もどかしいララキの視線の先でミルンが駆け出したのが見える。すでに指先を動かしながら。


 次の瞬間、紋唱の光がそこらじゅうに輝いた。


 ミルンが──そして彼に応えたその遣獣たちが、タヌマン・クリャを攻撃したのだ。

 援護するようにフォレンケが咆哮し、砂礫が集まって巨大な手の形をしたものが無数に空に現れて、外神を捕らえようと振り下ろされる。


 幾つもの術が重なって凄まじい爆発が起こった、その中心へと駆けていく黒い影。

 その長い両腕をめちゃくちゃに振り回して、ガエムトは散乱する礫の渦中へと飛び込んでいった。


「防御しろォォッ!」


 吠えるようにミルンは叫び、まだ轟音をかき鳴らし続けている真下へ滑り込む。

 そこにまだ転がされたままの少女の身体を担いで、追ってきたミーに渡す、その間ずっとシェンダルが氷壁の防護をかけ続けている。


 ララキはずっと、見ているしかできなかった。ミーがスニエリタをシッカの前まで運んでくるのを、一緒にミルンと他の遣獣たちが下がってくるのを、ただただ網の内側で見ていた。

 どこかで砂礫を防ぎきれなかったのだろう、ミルンは血まみれだった。


 スニエリタは、……今となってはそれがほんとうの名前なのかもわからない少女は、ぴくりとも動かない。


「……嘘でしょ……」


 何に対してか、自分でもわからないままそう呟いていた。


 スニエリタの身体は冷たくて、肌は雪のように真っ白で、ほんとうに死んでしまったようだった。

 ほんの少し前まであんなに元気だったのに。昨日だって笑っていたのに。


「初めから、そのつもりで俺たちについてきたんだろうな。どこの誰かはわからんが、タヌマン・クリャに殺されたか、それとも都合よく事故か病気で死んだのか……」

「やめてよ!」

「俺だって言いたかねえよ。言いたかねえけど……前者だったら、こいつは巻き込まれちまったってことだ」

「……あたしのせい?」

「違う。それは絶対に違う。悪いのはあいつだ」


 そう言って、ミルンはタヌマン・クリャのほうを向いた。


 俯いてスニエリタを見ていたララキには、直前のミルンの表情は見えなかったが、彼の声が震えていることには気づいていた。

 声だけでなく、肩も、握られていた拳も、震えている。悲しみか、怒りか、あるいはその両方の感情を込めて。


 怒りならララキも知っている。ワクサレアでタヌマン・クリャが起こしたと思われる猟奇事件の新聞記事を読んだときの、燃えるような憤怒を忘れることはない。


 周りの人間を巻き込んでしまう旅だと、わかっていた。覚悟の上で歩いてきた。

 道の途中で傷つけてしまった人たちを助けられる術師に、いつか巻き込むことさえ防げるような人間になりたかった。


 そんなララキの覚悟と決意を嘲笑い、泥を塗りたくるような行為だと思ったから、腹が立った。

 でも今は、怒る気力さえない。

 あまりにもスニエリタの身体が冷たくて、それがあまりにも悲しくて、それでいっぱいになってしまっていた。涙さえ出ない。


 ミルンは否定してくれたけれど、ララキは思う。自分のせいだ。

 自分のせいで、大事な仲間をこんな形で失うのだ。


 旅をしなければ出会うことさえなかっただろうか。

 旅に出なければ、彼女は幸せに暮らせたのだろうか。


 向こうでは外神と忌神の激しい攻防が続いている。フォレンケが援護していることもあり、またタヌマン・クリャはもともと完全に力を取り戻していたわけではないはずなので、ガエムトのほうが優勢に見える。


 そのガエムトは、神の術や飛び道具の類をまったく使わず、武器と呼べるのは腕と顎のみという、あまりにも原始的な姿で戦っていた。

 いや、戦うというよりは、捕食すると表現したほうがいいくらいだろう。抗っているタヌマン・クリャが放った雷撃のことごとくを真正面から浴びながら、しかしそれを意にも介さず喰らいつく。


 異形神の雄叫びと、妖鳥の絶叫がこだまする。


『ヲオオオオオ!』


 タヌマン・クリャの羽を毟り、腹を掻き裂いて臓物を引きずり出し、血を浴びて歓喜を咆える。

 その姿は猛々しいを通り越して野蛮というほかない。


 戦いは、いつしかガエムトによる一方的な殺戮の様相を呈していた。あまりにおぞましい光景が繰り広げられるので、ララキは直視に耐えなくなって、眼を瞑ってスニエリタを抱き締めた。


 絶えず上がる痛苦の悲鳴に、頭がどうにかなりそうだった。

 かつて自分を苦しめた相手だと思えば同情の気持ちなんて少しも湧かないはずだが、それでも泣き叫ぶ声を聞かされていると、もうやめてくれと叫びたくなる。


 神が神を倒しているのだ、もちろん穏やかに済むことではないとわかっている。

 でも、これほど暴力的で残酷な方法によるものだとは思わなかった。こんな、……こんな拷問じみたやりかただなんて。


 それが神によるもので、この世界はそんな神によって創られたのだと思うと、涙が出る。

 確かに人は争うことがほとんどなくなって、世の中はおおむね平和になった、戦乱の時代はもはや遠い昔になったが、結局それはあくまで人間の話だったのか。

 神々の本質は昔のまま、乱暴で残虐な荒神たちしかいないのか。


 温厚そうだったフォレンケですら、今は修羅の形相でタヌマン・クリャを甚振っている。


 今ララキにできるのは、少しでも早くそれが終わるのを祈ることだけだ。

 外神さえいなくなればこんな戦いは起こらない。きっとシッカだってそういう思いでクシエリスルを受け入れたはずだ。


 ──そうだよね、シッカ?


 ララキは祈る。今度こそほんとうに世界が、神々が穏やかな存在になることを。

 シッカも赦されて言葉と力を取り戻し、以前のように暮らせるようになることだけが、ララキの望みだ。


 そして、このままいけばガエムトが勝利して終わる。タヌマン・クリャを食い尽くして完全に消滅させるだろう。


 そのはずだった。


 ようすがおかしいことに気づいたのは、ガエムトの咆声の調子が変わったからだった。それまで歓喜と血の興奮に満ちていた蛮猛のそれに、困惑というか、怒りや苛立ちが混じった。

 それと同時にタヌマン・クリャの悲鳴がふっつりと絶えたので、ララキは恐る恐る眼を開けた。


 終わった、わけではなかった。向かいのミルンが呆然としてそれを見ている。


「なんだよありゃあ……」


 タヌマン・クリャは、その肉体を失っていた。それ自体はガエムトによるものだろう。

 しかし、肉片のひとかけらも残さず喰らい呑まれたその痕に、亡霊のような黒い影が残っていた。


 その姿は、ワクサレアのハーネルの街で見た漆黒の獣たちによく似ている。


 ハーネルでのできごとが走馬灯のように脳裏をよぎる。

 獣害に苦しんでいた人々、立ち向かう紋唱術師たち、彼らが口々に叫んだこと──攻撃がきかない──それに対しルーディーンが言ったこと──"人の力を吸い上げて己のものとしている"……。


 まさか、そんな、人だけでなく神の力を吸い上げることもできるのか?


 だとしたらガエムトは、フォレンケは、そうと知らずにタヌマン・クリャを助けてしまったのか?


 ガエムトは呻る。何度も影を喰おうとしているのに逃げられてしまうからだ。

 事態のまずさに気づいたのはフォレンケだけで、ヤマネコは激しい威嚇の喉笛を鳴らしながらタヌマン・クリャの影を罵った。


『タヌマン・クリャ、貴様……謀ったな!』

『……肉を切らせて骨を断つ、とはよく言ったものよなァ……いやまったく、愚かな忌神のりは辛かろう、フォレンケよ……』


 けたけたけた。影の鳥は嘲笑とともに、ゆらりとその翼を広げる。


『忌神頭の鼻は欺けぬ。なァに、私とてそれくらいは弁えておるわ。

 真に私を喰らう気ならば、次こそは七柱を揃えておけよ……貴様ら如きに大人しく喰われてやれる私ではないからなァ……!』


 そして。

 直後、視界のすべてが塗り替えられるほどの激しい雷鳴が鳴り響いた。

 凄まじい明滅と轟音に、神々さえ気をとられたその一瞬で、タヌマン・クリャは文字どおり影も形もなくなっていた。残ったのは幾枚かの羽根と、一部分だけが真っ黒に変色した地面だけだった。


 獲物を逃がしたことを理解したガエムトが、憤怒の声を上げて大地を殴る。


 フォレンケもまた、悔しそうに歯噛みして震えるので、そのたびに沙漠じゅうの砂礫が吹き散った。

 やり場のない神の怒りは咆哮となって空に噴き上げ、大地を揺らす。地が裂けやしないかと思うほどの激しさで。


 そしてシッカはその場に崩れ落ちた。どうして、と叫ぶララキに応える声はない。たしかフォレンケはシッカを呼ばせる前、結界の中だからほとんど消耗しないと言っていたのに。


 はっとして辺りを見回す。

 いつの間にか結界がなくなってしまっている。もしかしなくとも、タヌマン・クリャが消えたときの落雷のせいか。


 シッカはぐったりとしているが、消える気配はない。

 彼の意思がまだここを去ろうとしていないのだ。それはもちろん、昂り荒ぶっているガエムトからララキを守るためだろう。

 ワクサレアで夢に出てきたときからずっと彼はガエムトを警戒していたようだったから。


 でもこのままではシッカがどうかなってしまう。

 狼狽し、結界を、とフォレンケに向かって叫んだけれど、怒り狂っているヤマネコには届かなかった。


 どうしよう。抱えていたままだったスニエリタを一旦ミルンに託し、シッカのようすを見る。

 といってもララキにできるのなんて声をかけるくらいで、効果はないと知りつつ回復の紋唱を行ってみたりもしたが、もちろんシッカの容態に変化はない。


 フォレンケの巻き上げた礫がときどき飛んできて頭や腕に当たるのを、泣きそうになりながらシッカを庇う。


 誰か助けて、と心で叫んだ。

 クシエリスルの神よ、誰でもいいから降りてきて、フォレンケたちの怒りを鎮めて、シッカを助けて。


 そんな都合のいい存在は大陸じゅうのどこにもいないとわかっていても、思わずにはいられなかった。


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