053 忌むべかる神

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 フォレンケは、ガエムトはそのうちここを通る、と言っていた。

 呼ぶのではなく、来るのを待つというような語感だった。


 それを聞いたとき、ガエムトって忙しい神さまなのかなあ、とララキは思った。


 忌神でいちばん偉い神だそうだからそれもむべなるかな。

 フォレンケは見てのとおりそこまで身体も大きくないし、性格も温厚でかわいらしい感じの神なので、きっとガエムトにもあまり強くは出られないのだろう。


 そういえばガエムトはどんな外見なのだろうか。

 同じ忌神のサイナは骨を被っていたのでわかりにくかったが、ハイエナかジャッカルのようだった。

 しいていえばジャッカルにしては前脚が長かったような気もするのでハイエナだろうか。


 ちらりとシッカに眼をやる。やむない沈黙に縛られた彼は、少し緊張した面持ちだった。


 彼はガエムトのことを知っているはずだ。

 それでこんな表情をしているのだから、相手はよほどの存在なのだろう。


 ララキも姿勢を正してその瞬間を待つことにする。ガエムトが、この地に降臨するのを。


 ふいに、フォレンケを包んでいた風が止んだ。


『……最後にひとつだけ訂正するよ。ガエムトに会わせるって言ったけど、それは正確な表現じゃあない。

 ガエムトは、個別の信仰地域を抱えずに、すべての忌神の領域を統括するような存在だ。

 だからどこにいたってガエムトに会うことはできる。


 むしろ、きみたちを追ってガエムトのほうから接触してくる──きみたちの持つ"臭い"を追ってね』


 ララキはそのとき、フォレンケの言わんとしていることをほんの少しだけ理解できた。


 風が止んだと思ってから少しずつ、それまでララキたちの周りにあった何かが消えていくのを感じたからだ。

 それが何かはわからないが、ララキの感覚に従って表現するならば、一種の結界のようなものだと思う。


『だからきみたちがヴレンデールに入って以降、ボクはずっときみたちを結界でくるんでいた。ガエムトがきみたちに気づかないように。

 もちろんクシエリスルの取り決めで、まずガエムトと接触する前にサイナの試験を受けさせる必要があったからだけど、ほんとうはそれよりもっと重要な目的のためだ。

 今きみたちがしているように、きみたちが遣獣と呼ぶものたちもすべて表に出す必要があった。この状態でガエムトを呼ばないと意味がない。……なぜなら』


 ──ぼこん、と変な音がした。


 フォレンケはそこで言葉を途切れさせ、足元に視線をやったので、ララキたちもそちらを見る。

 


 知っている、とララキは思った。

 自分はこれを知っている。前に夢で見た。

 ルーディーンに、ガエムトに会うように言われたあとで、夢にシッカが出てきて、それで。


 シッカが立ち上がり、ララキを庇うように前に出た。

 その先の地面が夢と同じように沸騰している。


 ごぼごぼと鉄錆色のあぶくを絶えず吐きながら、泥土はさながら灼熱地獄のように高温の蒸気を撒き散らして煮え滾る。


 そしてやはり、ひときわ大きな泡が爆ぜたところで、大地から突き出されたものがあった。

 夢で見たままの毛むくじゃらの腕だった。


 青黒い毛に覆われた、この世のものとは思えない腕。

 知るかぎりすべての獣には似つかず、かといって人のそれとは比べるべくもない、異様に太くて長い腕が、真っ黒な爪先で大地を掴む。


 夢では見られなかった全貌が、今あらわになった。


 顔にはウシの骨を被っている。眼窩は暗く、その向こうにあるはずの瞳は見えない。

 頭から首にかけてはライオンのような鬣が覆っているが、それも仮面の一部のように見えるし、あるいは頭髪のようでもある。

 鬣からは異常に尖った角が頭の左右に三対も生えていて、それぞれが歪にくねり曲がっている。


 身体は腕と同じように毛むくじゃらで、その体躯はやはり何の動物にも準えていない。


 まず人間にしては腕が長すぎる。一見すると類人猿のようではあるが、それにしては下半身が筋肉質すぎるし、足首から下は肉食獣のような形をしている。

 指先から覗く鉤爪はどれも煤を浴びたように真っ黒だ。


 なぜか腰布を身に着けていて、二本の脚で立ち上がる姿は人間めいているが、それ以外のすべてがめちゃくちゃだ。

 布の下からは鱗に覆われた尾が覗き、その先端にはサソリのような鎌が備えられている。


 いろんな獣の部位を継ぎ接ぎにしたような容貌だった。


 あらゆる獣の要素を持つ、しかし何の獣とも言いがたい異形の神は、地の底より這うようにして顕れた。


 そして目の前に並んだ人間と獣とを一様に眺め、まさしく地底から轟くような声で言ったのだ。


『タヌマン・クリャ……』


 その第一声は、なぜかここにいるはずのない外の神の名だった。


 ララキは思わず周囲を見回したが、自分たち三人とそれぞれの遣獣七匹、それにフォレンケとシッカの二柱のほかには何もいない。

 タヌマン・クリャらしい姿はもちろん、気配も感じない。


 どういうことなのか尋ねられそうな相手は他にいないので、フォレンケを見た。


 だが、ヤマネコの神は険しい表情でララキたちを見ていた。

 先ほどまでの温厚な雰囲気は微塵もない。


『ガエムト、……やつはこの中のいる? 関係のない者には手出しするなよ』

『喰っていいか? 喰っていいか?』

『もちろんだ。こんな機会はもうないだろう』


 ガエムトは恐ろしげな外見とは裏腹に、ゆったりした足取りでこちらへ向かってきた。


 だが、彼はなぜかまっすぐシッカの前まで歩いてくると、そのどす黒い爪を伸ばしてきたのだ。

 ララキは叫びそうになったが、勢いよく吹き込んできた砂風がガエムトを阻む。

 フォレンケが背筋を毛羽立ててガエムトを睨んでいた。


 不服そうに唸るガエムトに向かって、フォレンケは低い声で咆える。


『アフラムシカを喰おうとするな、ガエムト。紛れ込んでいる外神を探すのがルーディーンからの通達だと言っただろ』

『どれも臭う! 臭うもの、喰っていいか? みな喰っていいか?』

『いいや。喰うのは本体だけだ』


 フォレンケは眦のつりあがった肉食獣の瞳で、あっけにとられている全員をねめつける。


 彼の苛立ちを表すように、沙漠のあちらこちらで風が吹き荒れて、散った砂礫が遺跡の壁を叩いた。

 そのざらざら耳障りな音を聞きながら、ララキはぎゅっと両手を握る。


 ──あたしたちの中に、タヌマン・クリャが紛れ込んでる……?


 何を言っているのかわからなかった。


 だって、ここまでみんなに助けてもらってばかりだった。

 みんな困惑した表情でフォレンケとガエムトのやりとりを聞いているが、その顔をひとりずつ見るたびに、いろんなことを思い出せるのに。


 プンタン。故郷からずっと一緒だった、大事な相棒。

 こんなララキと契約をしてくれた、今のところはこの世で唯一の存在だ。彼が裏切るはずがない。


 ミルン。なんだかんだで頼りになる、しっかり者の仲間。旅の師匠みたいな存在でもある。

 いろんなことを教えてもらったし、彼がいなければ進めなかった場面もあった。


 スニエリタ。出逢ったときから世話になりっぱなしだ。ララキが窮地に陥ったときは、いつも彼女が助けてくれた。


 そんなふたりの遣獣たちも、同じくララキにとっては大事な仲間だ。

 縁の下の力持ちなミーも、とにかく全力で突っ走るアルヌも、変わってるけどやるときはやるシェンダルも、あらゆる場面で活躍してきたジャルギーヤも、強面だけど面倒見のいいところがあるニンナも。

 しいていえばイタチのコミは昨日加わったばかりでよく知らないが、逆にそんな新顔をルーディーンやフォレンケが気にするだろうか。


 それに、ガエムトは『ぜんぶ臭う』と言った。

 それが意味するのは、つまり。


「おい、フォレンケ、説明してくれ。どういうことなんだ」


 ララキの問いたかった言葉を、先にミルンが口にした。

 口調にどこか咎めるような響きがあって、きっとララキと同じような心境なのだろうと思うと、今はそれがただ嬉しかった。


『きみたちがタヌマン・クリャを飼ってたんだ。

 むろん自覚はなかっただろうし、向こうもガエムトに嗅ぎつかれないよう己の紋章を全員に擦りつけて回ったようだけど……忌神の嗅覚を舐めすぎだ。を移したくらいで隠れおおせるものか。

 ガエムト、そろそろいいだろう。引きずり出せ!』


 フォレンケが猛る。


 ガエムトはというと、ひとりずつに確かめるように顔を近付けている。


 ララキにところにも来た。嫌そうなシッカを押し退け、骨の仮面がぬっと目前に突き出される。

 息がかかるほど近づいているので、仮面の下で荒い呼吸音がくぐもって聞こえるが、それでもなお眼が見えなかった。


 仮面の眼窩はただの空洞で、その向こうには一点の光も灯ってはいない。


 凄まじい威圧感に、息ができなかった。

 早く終わってほしいと心から思った。


 あまりにもくらい瞳で、このまま見つめ続けられたら、きっといつか魂が抜けてしまう。


『タヌマン・クリャ、いる』


 ガエムトは、ララキに向かってぽつりとそう言った。

 思いもよらない言葉に心臓が早鐘を打つ。


 自覚がないだろうとフォレンケは言っていた。

 まさかララキ自身が裏切り者だという可能性もあるのか? たしかに三人の中で、いちばんタヌマン・クリャとの繋がりが深い人間は、他ならぬ自分だ。


 ミルンが、スニエリタが、こちらを見る。

 ふたりが今どんな表情をしているのか、怖くて見られなかった。


 自分のことが信じられない。

 もしかして、ほんとうに、……疑念に沈みかけたララキの前に、ガエムトとの間に割り込んできた影があった。

 鬣が鼻先に触れて、それがシッカだと気づく。


 彼はあくまで庇ってくれるというのだ。

 泣きそうになって、でも、歯を食いしばって前を見る。


 シッカが信じてくれるのなら、ララキも自分を信じようとしなければいけない。


『……』

『違う、わかった』


 しばらくシッカと睨みあってから、ガエムトはふいと顔を背けた。


 そして今度はミルンのほうに行った。

 やはり顔をぎりぎりまで近づけて、嗅ぐというよりは覗き込むような仕草で何かを確かめている。


 ミルンも違ったらしく、次は彼の遣獣たちが同じように改められる。

 みんな顔を背けたり俯いたりしながら、じっとそれを耐えている。


 三匹がやっと解放されると、今度はスニエリタが覗き込まれる番だ。

 相変わらず彼女は冷静で、静かにガエムトの判断を待っているように見えた。

 顔も逸らさず、眼も伏せず──なぜかララキには、それがどこか諦めているようにも見えた。


 なんだかガエムトも長く覗いているように思える。

 そして、訝しげな声で言った。


『おまえ、死んでる』

「……何をおっしゃっているのかわかりませんわ」

『死んだ者、土に還る。ガエムトの糧だ。動かず、語らず、朽ちるのみ。……なぜ、動く?』


 ガエムトはふいに立ち上がり、


『おまえ……動かしたな!!』


 青黒い腕が、スニエリタの隣にいたニンナを殴り飛ばした。

 重いはずの大蛇がまるで紐かロープのように軽々と空を舞い、そして──二度と地に落ちることはなかった。


 ニンナだったそれの背が脱皮のごとく裂けたのを、ララキは見た。


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