042 オルヴァルの森の迷道①

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 無事に手続きを終えた三人は森の前に立っていた。

 ここがワクサレアとヴレンデールの国境のひとつで、レルヴェドから向こうの街まで徒歩で抜けられる最短コースらしい。足元はきちんと雑草などを刈って歩きやすいように整備されている。


 少し雨がぱらつき始めていたが、樹々が天然の傘になって雨粒を受けてくれるため、中に入ればほとんど濡れることもない。

 足取りも軽く、順調に進む。あっという間に振り返ってもレルヴェドの街が見えなくなった。


 いつの間にか雨の音もしなくなり、静かな森の中に小枝を踏み割る音だけが響く。


 獣や鳥の声はない。風も吹かない。

 ヴレンデール側から国境を越えてきた人とすれ違うこともないまま、ただ三人は歩き続けた。


 途中、道が分かれているところがあった。この時点で何かおかしいと気づくべきだったのだが、微かにあった違和感を気のせいだろうと飲み込んで、三人はとりあえず右の道を選んだ。


 右の道を歩いていくと、行き止まりだった。草が刈られている部分が途切れ、その先は無造作に転がった岩や樹によって塞がれていた。

 その先は薄暗く木々に覆われていて、無理に岩を越えても道が続いているとは思えなかったので、一旦さきほどの分かれ道まで戻ることにした。


 一本道で、迷う可能性は万に一つもなかった。それなのに、引き返した道の先にはまた分かれ道があった。


「あれ? この道こんな形してたっけ」

「どちらかがもともと歩いて来た道でしょうか」

「となると、今の俺らから見て右側の道がさっきやめた『左の道』ってことか」


 三人は首を傾げながら、左の道と思われる道を進んでいった。するとその先にまた分かれ道があった。

 みんなで顔を見合わせてから、今度は左側の道を選んで歩く。

 また行き止まりだった。引き返して分岐地点まで戻ってみると、なんとそこも行き止まりになっていた。


 もちろん分かれ道から行き止まりの地点までの間に横道はない。わけがわからないままもう一度行き止まりだったはずの地点まで戻ってみると、分かれ道に出た。


「……なんでぇ?」

「おかしい……そもそも、ふつう越境通路は一本道のはずだよな。こんな迷路みたいになってたら管理がとんでもない手間になっちまうし」

「それにもうずいぶん歩いてますけど、誰ともすれ違いませんわね……越境事務局にはあんなにたくさんの人が手続きにいらしてたのに」

「ああ、それを言ったら国境警備兵を見かけないのもおかしいな」


 一瞬、入るべき森を間違えたかと思ったが、それはありえない。森の入り口には密出入国者を見張る国境警備兵がいて、三人は彼らにちゃんと越境許可証の提示までしたのだ。


 だいたいもう何時間歩いているのだろう。所要時間から言えばとっくに国境を越えていてもおかしくはないはず。

 そこまで考えて、ララキはふと、自分が少しも疲れていないことに気がついた。

 けっこう長い時間歩いているような気がしたのに、森に入る前とほとんど体調が変わらない。お腹も減っていないし、汗もかいていない、そして……森に入ってからどれくらいの時間が経っているのか、よくわからない。


 この、あらゆる感覚が欠落している状態には、覚えがある。それはもう、嫌というほど。


 ララキが青い顔をして黙り込んだのに気づいたスニエリタが、大丈夫ですか、と優しく声をかけてきた。

 彼女は気づいていないのだろうか。いちばん疲れやすい自分が、未だにちっとも息が上がっていないことに。


「結界……」


 改めてそれを声に出して言うと、背筋を冷たいものが流れ落ちる。


 ああ、今になって、戻ってきてしまったのか。

 あの地獄に。永遠に終わらない静寂と空虚の檻に!


「ララキ?」

「ここ、結界だよ……誰のかはわかんないけど……あたしたち閉じ込められてる……!」

「どういうことです?」

「スニエリタ、今ちょっとでも疲れたって思う? ミルンはお腹空いたって感じる? あたしは何も感じない!」

「言われてみりゃそうだな」


 ふたりは案外落ち着いていた。これが結界か、と感心しながら辺りを見回している。


 対照的にララキは心臓が痛いほど脈打って、まともに息もできないくらいだった。

 ルーディーンの結界に呼ばれたときは、目の前にその主の姿があったこともあってこんなに怯えることはなかったが、今回は状況があまりにもかつてのタヌマン・クリャの結界と似すぎていた。音がない、感覚がない、ほとんど死に近しい空間だ。


 しかも誰が何の目的でこんなことをするのかわからない。タヌマン・クリャか? ついに見つかってしまったのか?

 今度はララキだけでなくミルンとスニエリタまで贄にとろうというのか?


「……大丈夫かおまえ」

「正直あんまり大丈夫じゃない……」

「とりあえず脱出方法を考えましょう。わたくし、上空から道を確認してみますわ」


 スニエリタがジャルギーヤを呼び出す。落ち着いた動きで紋章を描き、招言詩を唱える──我が僕は爛漫なり。


 紋章は美しい金色に輝いた。だが、それだけだった。

 あの恐ろしくも頼もしいワシの姿は、影さえどこにも顕れないまま、やがて紋章はすうっと消えてしまった。


 それを見たララキは本格的に泣きそうになった。身体が震えて止まらない。


「……まさか紋唱が使えないのか?」

「一応、手応えはありましたわ。どうも結界の内外に分断されているようですわね。

 憶測ですが、結界の中で紋唱を行っても、発現するのは外になってしまうようです。そしてわたくしたちにはそれが見えない」

「なるほど、こりゃどうしようもねーや……下手に術を遣っても外で無駄な騒ぎになるだけだな」

「どうしようもないって、そんな……」


 ミルンがララキを見て、気まずそうに、シッカは、と言った。彼の力を借りられるかどうか聞いているのだ。


 たしかにこの状況では、もう他に打てる手立てはないだろう。ただの人が紋唱も使わずに神の結界を突破しようなんて無理に決まっている。

 ララキは項垂れた。また、己の無力を噛みしめなくてはならなかった。


 震える手を無理やり持ち上げて、指先が空を滑ろうとした、そのとき。


 額が、いきなり殴られたようにがつんと痛んだ。

 思わず悲鳴を上げてその場にへたり込むララキに、慌ててふたりが駆け寄ったが、すでにララキの意識はなくなっていた。崩れ落ちそうになる身体をふたりは必死に支える。


 一体何が、と言いかけたミルンを遮って、気絶しているはずのララキの口が動いた。


「"ヌダ……アフラムシカの力を……借りることは……認めない……"」

「おいっ、何言って──」

「"……私はゲルメストラ……オルヴァルの森の神である……"」


 ──か弱き人の子よ、汝らの知恵のみを以てこの森を出よ。


 ララキの口を借りた神はそれだけ言うとすぐにララキを解放した。ララキはぱっと眼を開いて、あれ、あれ、と辺りをきょろきょろ見回す。


「なんであたし、気失ってたの? あれ? さっきそこに誰かいたよね?」

「そのようですね……ゲルメストラ、と名乗りましたから、ひとまずタヌマン・クリャの仕業ではないようですわ」

「しかもシッカに頼るのは禁止と来たか」


 ララキはまだじんじん痛んでいた額を押さえながら立ち上がった。案の定だがルーディーンにキスされた場所だ。

 なんかよくわからないが、どうもヒツジの女神はララキのおでこに変なものを仕込んでくれたらしい。ルーディーンは助けてくれただけだったがこの先に不安しか感じない。


 ゲルメストラとかいう神も、口を借りるだけならわざわざ殴らんでもよかろうに。いや物理的に殴ったわけではないのだろうが。


 ただ、結界を張った犯人がタヌマン・クリャではないということがわかって、少しだけほっとした。もう外神に見つかって連れ戻されたのかと思ったのだ。

 覚悟はしていたつもりだったがぜんぜん足りていなかった、ということだけ痛いほどよくわかった。


 それにしても知恵だけで森を出ろとはどういう意味だろう。


 とりあえず三人は歩いた。

 まず分かれ道を左に進んでみると、今度は道が十字型になっていた。また左の道を選んで進むと、その先にはなんと崖だった。

 危うく落っこちそうになるのをどうにか避け、十字の道まで戻ってみると、またしても道が変化して行き止まりになってしまっていた。

 仕方なく崖方面へ歩いていくとこちらも変化して分かれ道になっていたが、十字路ではなかった。


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