038 ふたたび街道へ
:::
もうそこにルーディーンはいなかった。ただ、彼女が佇んでいたあたりだけ、真っ白な花がいくつも咲いていた。
ララキは額に触れた。
そこにはもう何も感じないが、とにかく心の中でお礼を言った。あの布のおかげだろうか、身体の痛みもいくらか和らいでいる。
立ち上がる。いつまでも座ってはいられない。
ルーディーンを見られてしまった以上、早くここを立ち去らなくては。質問攻めにされるのは目に見えている。
ふらふらと歩き出すララキを、案の定紋唱術師たちが取り囲んだ。ひとりは壁に手を衝いてララキの前を塞ぎ、あとのふたりが隣と後ろに立って、もうどうあってもララキを逃がさない構えだ。
退いて、とかすれた声で頼んでみたが、もちろんその言葉も無視された。
「どういうことだよ、あんた。たしかに聞いたぜ。あのヒツジをルーディーンと呼んだよな?」
「きみは女神を紋唱できるのか? ぜひ話を聞かせてくれ」
「……ごめんなさい、あたし急いでるから……」
前を塞ぐ腕を退けようと持ち上げた手をそのまま掴まれる。
痛いし、なんというか怖かった。腕力でも紋唱術の腕でもたぶん彼らはララキより上なのだ。
しかも、痛みが和らいだといっても怪我が治ったわけではない、少し喋るだけでもまだ肋のあたりがずきずきする。早くミルンかスニエリタに治してほしい。
「やめて、離して」
「少しくらいいいだろ。どういう事情かは知らないけど絶対話してもらうよ。ああ、なんかあちこち痛そうだし、治してあげてもいいけど、それでどう?」
「──けっこうですわ」
突然ひとりが吹き飛んだ。
びっくりしたが、吹き飛びかたにちょっと見覚えがあったのと、聞き覚えのある声がしたので、ララキは安堵した。スニエリタがきてくれたのだ。
彼女の背後からミルンが走ってくるのも見える。
しかし彼が追いつく前に、ララキは足元から出てきたジャルギーヤの背に転がることになり、そのまま空高くへと連れ去られてしまった。ある意味助かったが、なのでララキはそのあと術師たちとスニエリタたちがどういう会話をしたのかは知らない。
そしてミルンも知らない。彼が追いつくまでの間にスニエリタも彼らに絡まれているのが見えたが、ミルンが追いついたとき、三人とも慌てふためいて走り去っていったからだ。
その顔は、まるで何かに怯えているようだった。
なんだろうと思いながらスニエリタに声を掛ける。振り向いたその顔は、いつもどおりの愛らしい笑顔だった。
「大丈夫だったか、なんか絡まれてたっぽかったけど」
「ええ。それより早くララキさんと合流しませんと。恐らく見た目よりひどい怪我をなさってますから」
「そうか、わかった。ジャルギーヤはどこに?」
「適当に空を舞わせているだけです。ここでは人目がありますし、一旦街道まで出ましょう」
何を話していたのかも気になったミルンだったが、なんとなく聞きそびれてしまったまま、とにかく預けていた荷物を取りに戻った。たまに上を見上げるとたしかに鳥らしい影が見える。
すぐに町を出て、街道沿いをしばらく歩いてから、周りに誰もいないのを確認してそっと道を外れる。
街道の周りはどちら側も深い森に囲まれているので、その中に入れば安全だろう。
降りてきたジャルギーヤからララキを預かると、横向きに抱えて茂みの中へ。こうして抱えてみると想像以上に軽い。
草の上に寝転がす。痛かったのか、ララキは小さく呻いた。
基本的に率先して怪我をしてきたのは今までミルンのほうだったので、こうして誰かが怪我をしているのを見るのはなんだか不思議な気分だった。
そしてまずいことに気がついた。たまに忘れるが、ララキは女の子だった。
……いや、治癒の紋唱を使うので脱がしたりする必要はさほどない。さほどないが、まったくないでもない。
「スニエリタ、……任せていいか。その、ほら、こいつも一応女だし。それに俺も実を言うと治療系はあんま得意じゃないんだ」
「かしこまりました。では見張りをお願いします、あの方々以外にも見られていたかもしれませんから」
「わかった」
神の顕現を目の当たりにしたら、誰だって放ってはおかないだろう。ましてや紋唱術師なら。
とくにシッカは外見や顕れかたが派手で目立つし、幻獣たちが消えるまでずいぶん時間がかかっていたから、むしろ三人にしか見られていないほうが不自然だ。
シッカを見て興味を持たれること自体は悪いことではないし、持つなというほうが難しい話だが、そういう人間が必ずしも善良であるとは限らない。
中にはララキを利用して何らかの利益を得ようと考える者もいるだろう。
それに、この旅にどれくらい時間がかかるとも知れないのだから、無駄な時間は使えない。いちいち説明していたら前に進めなくなってしまう。
今回は仕方がなかったが、今後はできるだけシッカを出させないように立ち回らなければ。
しかし結局、今回の獣害はなんだったのだろうか。
昨日話していたとおりにタヌマン・クリャの仕業だとしたら、わざわざルーディーニ・ワクサルスという大祭の前後に、その開催地の近くでこのような騒ぎを起こすことに、一体なんの意味があったというのか。
そんなミルンの疑問は、回復したララキによって戦慄の回答がなされた。
「力の補充?」
「うん。あの黒い獣に攻撃したらタヌマン・クリャに吸収される、みたいなことをルーディーンが言ってた」
「は、え、ルーディーン?」
「あ、そうなの、シッカを呼ぶつもりだったんだけど、勝手にこう手と口がね、動いてこう、ほらあの紋言開きの紋章を描いて、そしたらルーディーンが出てきて。……大丈夫かな、コブラにいっぱい咬まれてたけど」
「神ですし、幻獣の攻撃くらい大したことありませんでしょう。それにしても……どうしましょう、ミルンさん、わたくしたちたくさん攻撃してしまいましたわ」
「ああ、その前にもかなりの数の術師がここいらに集まってたはずだ。なるほどな、それでルーディーニ・ワクサルスの時期に合わせたのか。
まずいのは、今回俺たちがどうこうっつーより、今後もこういう騒ぎを繰り返すだろうってことだな」
「だよね。今回はルーディーンがいたけど、他の場所で似たようなことされたら対処しようがないよ、そんなの」
そして、それが繰り返されるたび、タヌマン・クリャは力を増長していくのだ。
前にルーディーンが言っていたという、"クシエリスルの内では自由に力を使えないが、やがてそれを乗り越えてくる"……とは、このことだろう。
「しかもタヌマン・クリャ、めちゃくちゃ怒ってるっぽい。あたしに」
「ああ、なんかすっげえ地面揺れたけど、あれか? 自分の領域でもないくせに地震を起こせるって、もうけっこう強くなってんじゃないか」
「言われてみるとそうかも……いや、ルーディーンは紋章の対処に集中してたから、ある意味隙ができてたし……。でも、あたしが結界出てからもう十年以上経ってるし、きっとあたしが知らないだけで、今までもいろんなところでこうやって騒ぎを起こしてたのかも」
「まさか。そんなに自由が利いていたら、今ごろこの大陸は滅んでいますわ」
「それもそうだな。神の力を借りられる人間が居合わせないかぎり対処できない事件が起きまくってたらもっと騒ぎになってるだろうし、だいいちララキはとっくに見つかって連れ戻されてるんじゃねえか。意外にタヌマン・クリャが活動し始めたのは最近なのかもしれん」
タヌマン・クリャは、どのくらい近づいているのだろう。あとどれだけ力が戻ればララキに対して直接干渉してくるようになるのだろう。
そのときララキは、そしてミルンやスニエリタはどうすることができるだろう。
これまでの関心はアンハナケウにどうやって辿り着くかと、道中クシエリスルの神々に敵対されたらどうするかということに集中していたが、そうも言っていられないかもしれない。
これからは外の神に対する警戒をもっと強くしていかなければ。
ただ、それにはまだ三人ともがあまりにも力不足であるし、タヌマン・クリャに関する知識や情報も足りなすぎる。
それにしても、クシエリスルの神々は大陸の内側で外の神が暴れていても、己の領域でなければ手出しができないという決まりでもあるのだろうか。
タヌマン・クリャが力をつけたら困るのは他の神も同じだろうに、ルーディーン以外の神が動いたようすはない。
それにルーディーンも、顕現するのにわざわざララキに紋唱させたのも気になる。
ワクサレアの主神ならもっと早く顕れればいいものを。一週間も放置している間に領域内外の人間が何人も死んでいる。
もしかしたら『クシエリスル合意』の中にそういう取り決めでもあるのだろうか。その詳しい内容をこれまで人間に語った神がいないので、実際のところはどうだか知らないが。
それに神にとっては人間ごときが数人死んだ程度、大したことではないのかもしれない。
これ以上話しても何かが得られそうにはなかったので、三人は街道に戻った。とはいえせっかくジャルギーヤが呼べるのだし、ララキもまだ長距離を歩かせないほうがよさそうだったので、一気にガール市まで運んでもらうことにした。
恥ずかしながら空の旅もあまり得意ではないミルンだが、便利なものはありがたく活用させてもらう。
何、ちょっとばかり下を見るのを我慢すればいいだけだ。下さえ見なければ大丈夫。
しかもララキが落っこちないよう支えてやらなければいけないので、そっちに集中していればあっという間だろう。
と、乗る前までは思えるのだが、いざ乗ると浮遊感だけでもう頭がくらくらするのだった。
まだ痛みがあるのか、おしゃべりなララキが珍しく黙っているので、そうなるとミルンとスニエリタだけでそれほど盛り上がる話題があるわけでもない。
想像以上に静かな移動になってしまい、下を見られないミルンはもうあとはスニエリタの後頭部を睨みつけるしかすることがなかった。睨みたいわけではないが環境的に自然と眼に力が入るので仕方がない。
結局聞きそびれたままだったが、ララキに絡んでいた三人組をどうやって追い払ったのだろう。今後の参考のために聞いておきたい。
やはりスニエリタのような美人だとああいう手合いに慣れているのだろうか。
同行が決まったときは面倒なことになったと思ったが、想像以上に頼りになる仲間かもしれない。
「……少し、騒々しくなってきましたわね」
ふとスニエリタがそう言った。何のことかわからなかったミルンは、何が、と聞き返す。
「いえ、……そろそろガール市に着きますわ。下降しますからララキさんをお願いしますね」
「あ、ああ」
うーむ、この降りるときの身体が斜めになる感じがやっぱりどうにも苦手だ、とミルンは思いながら、ララキを自分のほうに寄せておく。
広いとは言いがたいワシの背中であるのでかなり距離は近い。思えばミルンの人生で妹以外の女の子とこれほどぴったり密着したことなどなかった。
状況だけ考えるともう少しどきどきしてやってもいいんじゃないかと思うが、なんというかララキに対してはびっくりするほどそういう意識が持てないミルンだった。
決してララキが男っぽいわけではないが、なんだろう、理性とか本能とかとは違うところで、壁一枚隔てているような感覚があるのだ。どんなに近くにいてもそう感じられないというか。
もしかすると、それはララキに刻まれたタヌマン・クリャの紋章の効果なのかもしれない、と今になって思う。
いわば獣が縄張りにマーキングするような要領で、この女は外神の贄だと周囲に知らしめるような効果があって、それで無意識に距離を感じるのかもしれない。所有の証の紋章なのだからそれは充分考えられることだ。
仮にもし今のこの距離にいるのがララキではなくスニエリタだったら絶対こんなに冷静にあれこれ考える余裕などなくなっていただろう。たぶん。
ある意味そのほうがよかった。
いやスニエリタを抱き締めたかったとかそういう不埒な意味では決してなくてつまりそのなんていうかこの、下降の、斜めというか前のめりになって腹の下がすーっと寒くなる感じがやっぱりどうにもこうにも苦手なので! 気を紛らわせられるならそのほうが、ああ~……。
……いや、ほんと苦手だこれ。慣れられる気がしない。
ちょっと気持ち悪くなりながらジャルギーヤからやっと降りて、ようやく三人は地方都市ガールに到着した。
厳密には気持ち悪くなったのはミルンだけで、ララキは楽しそうだったが。理解不能。
三人はすぐに駅に行って列車の運行情報を確認した。さすがにまた運休でしたとなったら悲しすぎる。
幸いこの先の路線に問題はなく、乗車券もそのまますんなりと買えたが、今日はもうレルヴェド行きは寝台列車しかないらしい。
発車時刻までかなりあるので、ララキは駅舎の隅のベンチで休むことに。ミルンはすっかり食べ損ねていた昼食を買いに行くことにした。
スニエリタはというと、急にこんなことを言い出した。
「じつは、この街に知り合いがいるんです。ご挨拶をしてこようかと……」
らしくなく頬を赤らめて、ちょっともじもじしながら言うものだから、ララキもミルンも黙って見送るしかなかった。
初めてスニエリタのプライベートが垣間見えたような気がしたが、どんな相手でどのような関係の知り合いなのかは訊けなかったので、結局相変わらず謎の人だ。
ただ、態度がなんか、明らかに、それっぽさを醸し出していた。
「……振られたなー、ミルシュコ」
ララキがふざけてアルヌの真似をして言った。
「いや……俺ほんとにスニエリタにそういうあれ、ねえから」
「そうなの? なーんだ」
「つまんなそうに言うんじゃねえ。じゃ、飯買ってくるけど、一応気をつけろよ」
→
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます