037 闇章破壊

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 彼は、いつだってララキを見守っている。


 彼の姿は誰にも見えないけれど、ずっとそこにいる。今は力がないのでほとんど何もしてはやれないが、アンハナケウに行きたいという彼女の夢を応援し、また自らの願いを叶えるために、ずっと傍に付き添っている。

 そして陰ながら、そっと僅かな力を振り絞って彼女を手助けしているのだ。


 その昔、彼はララキに命を与えた。

 だから今度はララキが彼に力を与えてくれる。昔のような強い神に戻らせてくれる。


 神は与えるだけの存在ではない。与えただけ奪うか、相応の見返りを求める。だからこれは当然の要求だ。


 彼も、かつては非常に強力な神だった。他の神々も彼には逆らえなかったし、つねに一目置かれる存在だった。だから彼の大きな決断にも多くの者が賛同したのだ。


 しかし今の彼にとってはララキが命綱なのである。もし彼女が失われるようなことがあれば、もう彼は二度と神として返り咲くことはできなくなる。完全に消滅してしまう懼れさえある。

 なので彼は、いつでもララキを守ろうと必死だ。


 逆に言えば、何があってもララキの身さえ無事ならば、彼の存在は保証されている。そのように彼が処置した。

 自分の力を少しずつ注ぎ込み、長い時間をかけて水甕のように蓄えさせたのだ。

 ただ、そのことはララキに話していないし、ララキ自身がその力を己のものとして扱うこともできない。


 あくまで彼女は容れものにすぎないのだ。知る必要もない。だいいち、そのほうが彼女にとっても幸せだろう。

 彼もそれなりにララキに対する親しみの感情というか、慈愛ではないが、付き合いの長さだけ沸いた情というものがないこともない。無闇に苦しませたいとは思わないのだ。


 むしろ、いつかアンハナケウに辿り着けたなら、そこをふたりの新たな住まいにしてもよいと思っている。


 問題は他の神だ。きっとやつらは彼からララキを奪おうとする。向こうのほうが数も多ければ力も強く、少なくとも彼の力が戻らないうちはどうすることもできない。


 だから、彼は必死だ。なんとかして早く力を取り戻さなければ。ララキを守れるようにならなければ。

 もう二度と彼女を失いかけるようなことにはなりたくない。



 ──だから、そのために何人死のうが構わない。どうせ彼らは私の民ではないのだから。



 * * *



 ララキが見守るなか、ルーディーンとタヌマン・クリャの紋章の睨みあいが続いていた。


 しかし、明らかにただの遣獣ではないルーディーンの姿に、騒ぎを聞きつけて集まってきた他の紋唱術師たちがざわついている。

 ララキは彼らが乱入してきそうなら止めなければいけないが、例によって膝を衝きそうになっていた。やはりどうしても立っていられない。


 黒いコブラが身を躍らせてルーディーンに襲いかかる。だが、タヌマン・クリャにみすみす力を寄越すわけにはいかないと、ルーディーンはまったく抵抗しなかった。

 巨大なヘビに身体を締め上げられ、首筋に深々と牙を突き立てられても、ヒツジは微動だにせず紋章を睨んでいる。


 コブラはさらに身体を震わせ、さらに深く毒牙を食い込ませようとした。噛まれているところから血飛沫が上がり、さすがにルーディーンも痛みを感じたのか、苦しげな呻き声が漏れた。


 手出し無用と言われても、もう見ていられない。ララキは這い蹲ってどうにかコブラの尾が垂れたところに辿り着き、なんとかしてコブラの注意をルーディーンから逸らそうと、鞄からナイフを取り出して懸命に振り下ろした。


 だが、ヘビの体表を覆っている漆黒の鱗は思いのほか硬い。何度も刃先が滑り、弾かれ、危うく自分の腕を切りそうになった。

 それにルーディーンが傍にいるせいかうまく手に力が入らない。

 結局傷ひとつつけられないうちにナイフが手からこぼれ、石畳の上で耳障りな音を立てた。


 ナイフを拾うのはやめて自分の手でコブラの尾を掴む。しかし、コブラは尾をすごい力で鞭のようにしならせてララキを振り払った。

 思いきり弾き飛ばされて、通りの反対側の家の壁に叩きつけられてしまい、一瞬意識が飛ぶ。


 大丈夫か、と誰かに話しかけられた。知らない声だ、集まってきた他の術師だろうか。


 衝撃で瞑ってしまっていた眼を抉じ開け、ルーディーンを見る。

 まだコブラに締め付けられたままだ。それでもなお、その眼差しは闇の紋章に向けられたまま。


「おい、ありゃあなんだよ……」

「よくわからんが、あの紋章が騒ぎの原因なんじゃないか? それにしてもあのヒツジは……」

「このままだとヒツジが死ぬぞ! 加勢しよう!」


 恐れていた事態になった。事情を知らない紋唱術師たちが一斉にルーディーンへと駆け寄っていくのだ。


「やめて! そのヘビを攻撃しても意味ないの!」


 ララキは叫び、追いかけようとするが、身体じゅうが痛んで立ち上がるのさえ苦しい。壁にぶつかったときにどこかの骨が折れたかもしれない。

 なんとか手だけ前に突き出して、でも攻撃をするわけにはいかないから、ああ、どうすればいい!


 と。

 そこでララキはルーディーンの足元を見た。しゃがんだ体勢になってやっとよく見えたといってもいい。

 先ほど彼女が足踏みして石畳を叩いていたところから、芽が出ていた。その芽が異常な早さで育ち、蔦を伸ばしている。蔦の先はもうコブラの尾を捉え始めていた。


 弾かれても折られても、蔦は伸び続ける。伸び続けるかぎりコブラの身体に絡まり続ける。ヘビがルーディーンを縛り上げたように、蔦も同じことをヘビに行うのだ。


 そうか、ララキは納得して、そして自分も紋唱に移った。


 描きはじめたのはさんざんフィナナで練習につかっていた樹の紋唱だ。そのときは、制御できたところで攻撃にも防御にも使えないと困っていたが、だからこそ今使える。


 太い樹なんて生やさなくてもいい。実も生らなくていい。

 細くて長い蔦なら、それだけならもっと早くできる。


「──恵生の紋! あの人たちを止めて!」


 石畳の間から蔦が一挙に芽吹く。ルーディーンに近づこうとする術師たちに向かって、どんどん伸びる。

 やがてひとりの足を捉え、しっかりと巻き付いて進行を阻害した。彼らが慌てている間にまたひとり。もうひとりも絶対に逃すもんかと、痛むのも忘れて腹に力を入れて睨む。


「おいっ何すんだよ! 他人の邪魔してる場合じゃないだろ!」

「そっちこそ話を聞いてよ! あのね、黒い獣は攻撃しちゃだめなの、通じないとかそういう問題じゃなくて」

「何言ってんだあいつ?」

「どうせ金目当てだよ。こんな蔦、燃やせばすぐ取れる」


 すぐさま炎の紋唱を始める三人の術師に、負けじとララキも蔦を増やす。

 お願いだからルーディーンの邪魔をしないでほしい。話を聞いてくれないのなら、もう実力行使するしかない。


 ひとりは遣獣まで呼び出した。立派な体格の赤茶のイヌがルーディーンに加勢しようと駆けていくが、さすがにそちらは蔦で追いきれない。

 だから、祈った。どうか紋唱を使わずにヘビと戦って、と。たぶん物理的に噛み付いたりひっかいたりするぶんにはタヌマン・クリャの力になることもないだろうから。


 しかしララキの祈りも空しく、イヌは高らかに咆声を上げて紋章を浮かべる。


「やめて……」


 もうこれ以上は何も描けない。腕がずきずき痛むのを堪えて必死に描いてきたが、もう限界だった。

 紋章からゆっくりと光が失せ、術師たちを絡めとっていた蔦が次第に萎れていくのを、ただ見ているしかできない。


 それでもまた、指を、空に滑らす。線ひとつ描くことさえできないで地面に落ちる手を、何度でも持ち上げる。


 視線の先では自由を取り戻した術師が、コブラや闇の紋章目がけて術を放とうとしていた。

 そのときだ。


 どん、と地面が揺れた。


 ララキは今度こそ地面に這い蹲ったが、それは他の術師たちや彼らの遣獣も同様だった。立ち上がる隙も与えずに再び地面が揺れる。

 その振動に、ララキはカムシャール遺跡のことを思い出した。あのときによく似ている。


 ルーディーン、ではない。ヴニェクでもない。……タヌマン・クリャか。


 外神が怒っている。己が力を取り戻すための罠を破壊する者に対して、あるいはそれを手助けするララキに怒っているのだ。

 どちらかといえば自分にだろうとララキは思った。ルーディーンへの怒りならもっと早くに何か起こるはずだし、地面なんか揺らしたところで神たるヒツジは少しも狼狽えていない。


 タヌマン・クリャにとってはララキは彼の所有物、それが自分に反抗しているのだから怒るのも当然だ。


 でも結果的に助かった。これでもう誰もルーディーンの邪魔ができない。


 ──だから、もっともっと怒ればいい。あたしは絶対あなたのところになんか戻らない!


「ルーディーン、やって!」


 ララキは気づけばそう叫んでいた。

 術師たちが驚愕の表情でララキとヒツジを見たが、そんなことを気にしてはいられなかった。


 ルーディーンは血を流しながら、一瞬もララキを振り返らなかったが、それこそがララキの望んだ返答だった。


 闇の紋章が心臓のように脈打っている。拍動するたび、歪んだ果てに破綻した円の縁からどろどろとしたものが噴出し、まるで血のようだった。

 もうほとんど形を留めていない。あと少し、あと少しで壊れる。


 それから、数秒か数分か、体感では数時間にも思えるほど長かったが、紋章が突然膨らみ出した。

 爆発するんだ、と直感的に思った。

 きっとあのどろどろがたくさん飛び出して、この場にいる者たちに降り注ぐ。たぶんそれを浴びるのはよくないだろう、あんな色なのだし。


 ララキは震える手で壁を作ろうとするが、ただでさえ得意でない紋唱をこの状態でやるのには無理があった。

 どうしよう、せめて無関係なあの術師たちだけでも守りたいが、またララキには力が足りない……。


 すると、ようやくルーディーンが振り返った。表情などないヒツジの顔なのに、ララキには微笑んでいるように思えた。

 彼女に纏わりついていたコブラはもう、ぼろぼろになって剥がれ落ちていく。


『……あなたが憂うことはありません』


 純白の女神の背後で、闇色の紋章が破裂した。


 予想どおり真っ黒な不浄の液体があたり一面に飛び散り、それを浴びた石畳や家屋の壁などが嫌な音を立てて焼け焦げていく。


 だが、人や獣はみな無事だった。よく見えなかったが、白っぽい、とてもなめらかで柔らかな布のような感触が、身体の上にふんわりと覆い被さっている。

 ルーディーンが守ってくれたのだ。まだ一度も触ったことはないけれど、きっと彼女の巻き毛もこんなふうにふわふわして気持ちがいいに違いない。


 やがて布がするすると引いていく感触があって、ララキたちの視界が開けた。


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