034 ハーネルの獣

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 意外に、というのもなんだか妙だが、これといって何も起こらずに無事に第二の宿場町・ハーネルに着いた。


 しいていえばララキとミルンは疲れていた。

 というのも、案の定、というのもあれだが、荷車を引いて歩く役でスニエリタが途中で音を上げ……てはいないが明らかに歩く速度が落ち、見かねた残りふたりがその後はずっと交互に引いていたのである。残念ながら遣獣たちもまだ使役に耐えるほどまでは回復が追いついていなかった。


 そんなわけでちょっぴりぐったりしながら宿を探す。が、困ったことに空きがない。これも列車運休の弊害だろうか、それとも懸賞金目当てに長々居座っている輩がいるのだろうか。

 とにかく途方にくれた三人は、広場の隅のベンチで頭を抱えた。


 宿場町で宿がないってどういうことだ。

 こうなったら野宿するしかないが、せめて食事だけでも屋根のあるところで美味しいものを食べたい、いや泊まるところもなんとか民家にお願いできないか、などの意見が飛び交った。


 さすがのスニエリタも初めての野宿にはあまりはしゃげないようだった。

 それもそうだろう、ただでさえ不慣れでちゃんと眠れるかもわからないのに、今このあたりは正体不明の獣による被害が相次いでいる、いわば治安の悪い状態なのだ。


「やはり屋外はちょっと……」

「でもスニエリタ、これから野宿もいっぱいすることになるし、早く慣れといたほうがいいよ」

「それに町中ならよっぽど獣も出ないだろうしな」


 ま、出たら出たで稼がせてもらうけど。とミルンが腹の中で思った、そのときだった。


 どこかで悲鳴が上がった。何かを粉砕するような音と、獣のような唸り声も。

 しかもどう考えても町の外ではなく、中で何かが起きている。


 たった今の自分の発言が驚くべき早さで覆ったことに困惑しつつ、ミルンは立ち上がる。女子ふたりも同じくだった。

 どんなことでも誰かが困っているときに見過ごすのは紋唱術師の恥だ。三人は急いで悲鳴のあったほうへと走った。


 町の入り口のほうだ。やはり森から獣が侵入してきたのだろうか。


 そこには他の術師も集まっていた。

 すでに術を発動している者もいて、炎や雷が激しく飛び交うなかに、影を落とし込んだような漆黒の獣がいる。


 それは、イヌ。あるいはサル。鳥の類が何羽かに、ヤギ、トラ、それからトカゲ。


 何匹いるのか一目ではわからないほどたくさんいた。それらがところ狭しと暴れまわっており、地面には倒れて血を流している人もいる。


 その人は手袋もしておらず、外見や服装にも変わったところがなくて、恐らくこの町の住民なのだろう。

 怪我人を放っておくと誰かの術が当たってしまいそうだ。ララキは攻撃に参加するよりもまずその人の救助を試みることにした。


 自分の周りに防御を張りつつ忍び寄る。どうも獣たちは好き勝手に目に付いた人間を襲っているようで、すでに倒れた者には興味がなさそうだった。

 幸い倒れていたのは小柄な女性だったため、ララキひとりでもなんとか渦中から引き離すことはできそうだ。


 ところが、一匹だけ妨害してくる獣があった。


 トラだった。この女性を餌にするつもりだったのだろうか。

 漆黒のトラ──というと変な感じだが、そうとしか表現のしようがない。本来なら黄茶色の部分を黒くして、黒い縞だった部分を白くしたような外見だった──は、ララキの前に立ちふさがり、威嚇のために牙を見せた。


 襲われたら速攻で死ぬな、と思いながら、意外と冷静に紋唱を行う。


 旅の初めのころ突進イノシシを前に死を覚悟したララキでは、もうないのだ。

 いつからだろう、きっとミルンが怪我をしたときに、ララキは理解したような気がする。自分ひとりで始末をつけられる旅ではないのだと。


 神々の意志に反することを決意したこの旅で、きっとたくさんの人を巻き込んで傷つけることになる。


 その覚悟がなければルーディーンに語りかけられなかったし、今後も同じことをいろんな神に対してやっていかなければならない。

 きっと周りが巻き込まれる。ミルンが、スニエリタが、そして他の仲間ですらない誰かが。


 それでもやるとげると決めた以上、やらねばならない。

 それならララキだけは絶対に死んではだめだ。アンハナケウの土を踏むまではなんとしても生き延びる。


 ……そして、できるかぎりそれまでにもっと強くなって、巻き込んでしまった人たちを守れるようになるんだ。


斬火ざんかの紋!」


 細く伸びた炎の刃が縦一文字にトラを斬りつける。トラは仰け反り、その場でたたらを踏んだ。


 今のうちとばかりに怪我人を引き摺って走る。さすがに荷物が重すぎて速度は出ないが、まだ追おうとしてきたトラを、今度は横殴りの風が阻んだ。


 見るとスニエリタが頷いている。援護してくれたらしい。


 ありがと! とお礼を言って、そのまま術師と獣の群れからどんどん離れていくと、遠巻きに町の人たちが集まってこちらを伺っていた。

 そのほとんどは男性で、たぶん女子どもは室内に避難させているのだろう。そのうちのひとりがララキの抱えた怪我人を見て叫んだ。家族がいたようだ。


「キーナ、ああ! なんてことだ!」

「そんなに深い怪我ではなさそうだから大丈夫だよ。とりあえず早めにお医者さんか、どっかの宿に術師が残ってたらその人に治療してもらって」

「ありがとうございます! 誰か、担架を持ってきてくれ!」


 怪我人を渡すと、ララキは渦中に取って返す。まだ戦闘は続いている。


 相変わらず紋唱術師たちはそれぞれ競うように激しく術を放っていた。この乱闘具合ではもう誰がどれを倒したのかわからなくなりそうだ。

 もっとも、お金を目的にしてここにいるわけではないララキには、そんなことはどうだっていいのだが。


 獣もやられているばかりではない。彼らが唸ったり吠えたりするたびに、その頭上に紋章が浮かび、術らしいものが発動する。


 それが少し妙だった。


 野生の獣でも、かなり個体差はあるが多少は術を使うことはできるというが、人間と契約し遣獣となってこそ真価が発揮できるともいう。よって野生の獣による紋唱は本来それほど脅威ではない。


 ただ、今回は違った。

 どの獣も誰かが使役する遣獣のように正確無比、かつ安定した威力で術を放つのだ。

 たまに野生でそういうものがいた場合は、過去に人間と契約したことがあったりするが、そういうある意味で人間に慣れた獣がこうして人を襲うものだろうか。しかも、一度にこんなにたくさんの数で。


 それに、獣たちの外見が一様に黒いのも気になる。トラなんてまさに不自然極まりないし、鳥にしたってカラスでもないのに全身爪の先から嘴まで黒一色の鳥が、しかも何種類もひとつの場所に集合するなんてことがあるか?


 なんか変だよ、と言おうとしたララキのすぐそばで、おかしいぞ!と他の術師も声を上げた。

 ただ、彼の指摘した異常はララキの感じたものとは少し違った。


「こいつら……ぜんぜん攻撃が効かない……!」


 その言葉に、どうやら同じ疑念を抱いていたのだろう、他の術師たちも手を止める。後ずさる。


「まさかとは思ったけど、やっぱそうだよな。手ごたえがまるでない」

「やべえな……道理で誰も一匹も仕留めてねえはずだよ……」

「ねえ、逃げようよ! このままじゃ僕らも死ぬことになる!」


 さっきまでの威勢はどこへやら、ひとり、またひとり、術師たちが逃げ始めた。


 その姿を見て遠くから見守っていた町の人々からも悲鳴めいた非難の声が上がる。──あんたらがどうにかしてくれなきゃあ、こっちは町が滅んじまうよ!

 しかし一切攻撃が通用しない化けもの相手とあっては、それも致しかたないのかもしれない。


「ミルン、スニエリタ! なんとかして町の人たちだけでも避難させられないかな!?」

「お気持ちはわかりますけど、避難できる場所がありませんわ。隣の町まで何キロもありますわよ」

「避難っつうよか、なんとかこいつらを町の外に閉め出すほうが現実的だな」

「どうやって?」

「ダメージは与えられなくても足止めはできなくもない。だから大技で押し切って、そのあと入り口まわりに壁を立てて塞げばどうにか、ってとこだな」


 なるほど。その作戦で行こう、とスニエリタにも目配せする。


 そしてララキは振り返って、散り散りに逃げていく術師たちの背中に向かって叫んだ。


「あたしが今から爆発するから、その隙に壁を作るのを手伝ってくれる人ー! いたらちょっと戻ってきてー!!」


 何人かが立ち止まり、振り返る。表情はもうあたりが薄暗くなっているのでよく見えないが、どうも困惑しているようだ。


「いや爆発っておまえ……」

「壁系あんまり得意じゃ──いや練習中だから、そっち担当になろうと思って」

「あら、爆発はお得意なんですの?」


 そんなもの得意であってたまるか。


 ララキが紋唱を始めると、ミルンもすぐに壁の用意にかかる。スニエリタは紋唱準備中のララキを護衛してくれているようだ。

 そして、何人か戻ってきたり、そもそもまだ逃げずに残っていた他の術師たちも、指を振り始める。


 炎輪。重ねて花、花、花、花、それから菱形。


 ララキの知るかぎりいちばん威力を出せる炎の術だ。それをさらに出力最大で放つ。


 獣たちに効かなくても、吹き飛ばすくらいはできるはず。いや、できる。できるって信じる。

 信じるし、神頼みだってしてやる。


 ここはワクサレア、恐らく信仰地域の内だろう、だからルーディーンよ。力を貸して!


「──焼花しょうかの紋!」


 ララキの目前に、巨大な炎の花が咲く。


 どれくらい巨大かというと一瞬でララキを飲み込んでしまったほどだ。そして、それは一度収縮して蕾になり、そしてまた膨らんで大きく開く。凄まじい爆風と熱を伴って。

 視界が灼熱の炎で真っ赤に染まる。正直言って、ララキもめちゃくちゃ熱い。


 獣たちは爆風に押されて体重が軽いものから吹き飛んでいった。

 鳥たち、トカゲ、サル、イヌ、ヤギ。


 最後まで踏ん張っていたトラとララキは睨みあった。他の獣もそうだったが、トラの瞳も黒かった。

 なんの光も灯らない、ともすれば何も映っていないように思える、果てしなく暗い闇を覗いているような心地だった。


 ねえ、と心の中で聞いてみる。


 ──あなた、タヌマン・クリャと何か関係あったりするの?


 トラは答えない。

 契約していない獣は人間と口を聞くことができない。だが、ララキが求めていた返答は言葉ではない。


 ついに吹き飛ばされる寸前、トラはかすかに笑ったように見えた。


 トラが離れた瞬間、ララキに向かって放水が行われる。

 ついでに目の前ににょきにょきと岩の壁が生えていく。数人がかりでやっているので、ひとりなら何分もかかりそうな壁があっという間にに完成した。


 しばらく壁の向こうから吠え声が聞こえていたが、壁はびくともしなかったので、そのうち何も聞こえなくなった。


 安堵の声が、術師たちからも町の住民からも上がる。

 まだ問題は解決できたわけではないが、ひとまず安全が確保できたのだ。


「……へっくしょ!」


 そんな中、びしょ濡れになったララキは盛大にくしゃみをした。ちょっと寒い。


「まあ、大丈夫ですか? そんな恰好では風邪を引いてしまいますわ」

「うー、着替えたい。あとお風呂入りたい」

「無理言うな。でも着替えはしたほうがいいな、いくら夏とはいえ」


 あたしが男の人だったらこの場で脱いでもいいんだけどなあ、と思うララキだったが、どのみち紋章だらけの身体を人前に晒すのも嫌なので、性別の話はこのさい無意味か。


 困っていると住民のひとりが歩いてくる。よく見るとさっきの怪我人の家族らしき人だ。


「先ほどは妻を助けていただきありがとうございます。ぜひ何かお礼をさせていただきたいのですが」

「いえいえ当然のことをしたまでで。……けど、それならお風呂貸してもらえる?」

「え?」

「わたくしたち、今夜のお宿がないんですの。どこもいっぱいで……」

「ああ、そういうことでしたか! では私の家に来てください」


 男性がずいぶん気軽に言うので、三人いるんですけど……とミルンも指差してみたが、大丈夫ですよと笑って返された。


 それもそのはず、案内された家というのがこの町でも一二を争うくらいに立派なものだった。


 この男性、本人は町の議員で、家族もみんな自治体内で役職を持っているという、町内ではよく知られた家系の人らしい。

 さっきララキが助けた彼の奥さんも町の福祉活動を行っており、その関係で今日はたまたま入り口近くの民家を訪ねていたそうだ。恐らくその帰りに獣に襲われたのだろう。


 お風呂を借りるどころか、ベッドと食事までご提供いただけることになり、まさに願ったり叶ったり。

 ちなみに奥さんはまだ起き上がれる状態にないが、もともと家事は家政婦さんがやっているので問題ないそうだ。


 とりあえず急ぎでお風呂を沸かしてもらう。

 南国のように小さな盥ではなくちゃんとした浴槽があるというので、ララキはそわそわしながら待った。ヤラム町のライレマの家はそういうきちんとした浴室だったが、ハブルサに出てからはほとんどアパートの盥風呂しか使っていなかったので、大きなお風呂は久しぶりだ。

 足とか伸ばせるのかな、とわくわくしていたら、スニエリタが横にきた。


「ララキさん、お風呂ですけど、わたくしもご一緒してよろしいかしら」

「え、あ、う、うん」


 思わず口ごもりそうになった。

 同性とはいえ誰かと一緒にお風呂に入るのも何年ぶりだろうか。なんか緊張する。


 ハブルサ市内には公共入浴施設もたくさんあったが、ララキはそれらを利用しなかった。

 身体の紋章が見られるのが嫌だったし、陽気で人懐こい人が多いイキエス人は、そういうものを見ると平気で尋ねてくるからだ。スニエリタはもう事情を知っているから、まあいいけども。


 変な緊張を吹っ切りたかったので、あえてミルンにバカなことを言ってみることにする。


「あのさあミルン、念のため言っとくけど覗かないでよ」

「……おまえは俺を真剣に怒らせたいのか?」

「あはは、冗談だって」


 よかった、予想どおりの返事だった。


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