032 冥(くら)い夢

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 草原の夢だった。

 またルーディーンかと思ったが、あたりを見回してもあの真っ白な羊は見当たらない。風がそよぐ心地いい草原の真ん中で、ララキがぽつんと佇んでいるだけで、他には何もない。


 なんだか暇な夢だな、と思ってとりあえず寝転んだ。夢だという自覚はあった。


 雲が流れていくのをしばらくただ眺める。

 その切れ間から太陽が覗いて、虹色の光を放ちながらじんわりととろけているのを、シッカのようだと思った。曇り空だったララキの世界に差し込んだ太陽がシッカなのだ。その光が失われてしまったら、残るのは夜の闇だけになってしまう。


 ふと、足元に誰かが現れた。

 思わず跳ね起きる。それが、浅黒い肌の男の人だと気づいたから。


 鬣と同じ色の髪と、腰布を巻いた精悍な体つき、装飾品のように肌を彩る刺青の胸。額に翳された紋章のような飾り。

 ヌダ・アフラムシカが、人の姿をしているのを見るのは、彼の力が失われた日以来のことだった。


「シッカ!」


 ララキは駆け寄る。シッカはそんなララキを抱きとめて、その胸にしまった。

 夢だというのにその腕の感覚が現実と相違ないほどしっかりとわかる。


「シッカ、……どうしたの? 夢に出てくるのなんて初めてじゃない? 大丈夫なの?」


 嬉しさばかり感じている場合ではないと思い返し、尋ねるララキだったが、シッカは答えなかった。夢であっても言葉は失われたままらしい。


 答えの代わりなのか、彼の太い指が、ララキの額に触れた。

 ルーディーンにキスされた箇所だ。あの神が何かしてくれたから、こうして夢で会えるようになったということだろうか。


 そのままシッカはララキの頭を撫でた。小さいときからずっと一緒にいたものだから、彼はララキを未だに幼子のように扱う癖がある。

 でも、ララキも嫌だとは思わなかった。もう何年もこうすることなどなかったのだ、懐かしい気持ちのほうが勝る。


 幸せだった。胸が詰まって、苦しいくらいに。


「……、シッカ?」


 ふとシッカの手が止まり、ララキを離す。どうしたんだろうと彼の顔を見ると、心配そうな顔でじっとララキを見つめている。

 そして、彼の手が、すっとどこかを指差した。


 地面。ふたりから少し離れたところに、いつの間にか草の生えていないむき出しの地面がある。


「なに、シッカ。そこに何かあるの?」


 シッカは頷く。すると地面がぼこりと、"泡"立つ──おかしな話だがそうとしか表現しようがない。

 さっきまでただの土だったのに、今は泥か粘土のようになっていて、そこが沸騰したように泡立っている。


 あまりにも異常な光景に、ララキはシッカにしがみつきながらも、眼を逸らすことができない。


 気がつくとあたり一面、草原が消えうせて沸き立つ泥の大地に様変わりしていた。ララキとシッカがいる場所だけが無事で、あとはごぼごぼと音を立てている黒ずんだ泥土が、足元のすぐ近くまで迫っていた。

 思わず後ずさりしようとしたが、逃げ場はない。


 そして、ひときわ大きな泡が爆ぜたかと思うと、この世のものとは思えない手らしきものが、ぬっと現れたのだ。


 "それ"はララキを捕えようとしているようだった。


「ぎゃあぁぁーっ!!」


 その朝ララキがあげた絶叫により、宿に泊まっていた全員が同じ時刻に起床することとなった。




 ララキ自身も自らの悲鳴で目が醒めた。こんなにでかい寝言を言ったのはたぶん人生でも初めてだろう。

 隣の寝台で寝ていたスニエリタが、どうされましたの、と胸を抑えながら聞いてきた。心臓に悪くてほんとうにすまない。


 とりあえず気持ちの悪い夢を見たことだけ告げて、着替えと支度をする。


 たが単なる夢とも思えない。

 そもそもシッカが出てくる夢自体を今までほとんど見たことがないのだ。

 それにララキの願望が見せた夢だとしたらシッカも喋ってくれるような気がするし、場所もルーディーンの草原よりヤラム町のライレマの家のほうが好ましい。


 念のため、朝食の場でミルンと合流してからふたりに話してみることにした。どのみちミルンからは朝から何騒いでんだと言われたし。

 ていうかミルンだって前にニンナを見て早朝に叫んでたくせに……。


 パンを齧りながら、大筋で説明する。

 夢にシッカが出てきて、額に触られたことと、地面を指差すので見ていたらそこから異形の手が出てきたこと。


「まあ、恐ろしい夢ですわね」

「夢は夢でも、ちょっと警告っぽいな、それ」

「ねえ。相変わらずシッカが喋れないんで何を言いたいのかはよくわかんないんだけど」


 サラダの葉野菜をフォークで刺し、ミルンが言った。


「ガエムトのことじゃないか? 一般的に、死者の国は地中にあるようなイメージだし」

「つまり、ガエムトに気をつけろ、とおっしゃっているのでしょうか?」

「でもルーディーンが会えって言ったんだよ、そんな危ない神さまだったら協力してくれなさそう」

「それもそうか。ガエムトじゃないとすれば、あと考えられるのは……」


 三人は顔を見合わせる。そして全員が同時に、タヌマン・クリャ、と呟いた。


 『クシエリスルの外の神』であるタヌマン・クリャについてわかっていることは非常に少ない。

 神学者や考古学者、紋唱学者など、神に関することを学問とし研究する人間は多くいるが、誰もイキエスの南の呪われた領域には足を踏み入れないからだ。


 そこではクシエリスルの神の加護が受けられない。クシエリスルの内であたりまえにできる紋唱もまともに発動せず、タヌマン・クリャに隷属する低級な神や魔物が跋扈し、稀に命知らずな者が境界を越えては二度と戻ることがないという。


 そもそもイキエスの国境管理局でも南部への越境は禁止しており、まさしくそちらは"呪われた地"なのだ。

 ララキはその事実を知ったとき、納得した。道理で呪われた民の国が滅んでもララキの結界が放置され続けていたはずだ、と。

 誰も近寄れない場所にあったのだから、どのみちあれは他の神の手によってしか破壊できないものだったのだ。


 そういうわけで、タヌマン・クリャの外見や性質、教義、信仰の詳細などは今なお不明である。

 しいていえばララキこそ唯一現存する証言者になりえたが、物心がついたばかりの幼い時分に結界に放り込まれたため、当時の大人たちが何をやっていたのかなどわからない。

 タヌマン・クリャ自身も一度もララキに姿を見せなかったし、語りかけてくることもなかった。だからこそ自分が何のために閉じ込められているのかがわからなくて苦しかったものだ。


 夢の中で異形は地中から出ようとしていた。タヌマン・クリャは地に属する神なのだろうか。あの思い出すのもおぞましい、毛むくじゃらで筋肉質な腕は、タヌマン・クリャのものなのだろうか。


 ……これ以上考えたくない。朝ごはんが美味しくなくなる。


「まあ、なんにせよ注意したほうがいいな。外の神がやばいのはわかりきってることだし」

「そうですわね。それに、ガエムトも"死者の神"というくらいですから、いくらルーディーンが紹介してくださったとはいっても絶対に協力してくださるという保証はありませんもの」

「そうだね。……でも、気持ちは前向きに行こう! やっと手がかりが見つかるかもしれないんだから」


 目いっぱい明るく言うと、おまえは呑気すぎだよ、とミルンに言われた。


 呑気に見えるならいい。外の神が追ってきているという現実から逃げているだけかもしれないと、ララキ自身思うくらいだ。


 そりゃあ本音を言えば怖いに決まっている。あの結界に戻るかと思うと気が狂いそうにもなる。

 今度はタヌマン・クリャもララキを生かしておかないかもしれないのだ、死ぬほど怖いし涙が出そうだ。


 でも、泣いたって怖がったって、誰かが助けてくれるわけでもない。むしろ逆で、ララキはシッカを助けるという使命に燃えているのだ。

 自分の心配なんてしている暇はない。それなら笑ってやろうと思う。


 タヌマン・クリャを指差して、腹を抱えて笑いながら、おまえなんか怖くない、と言ってやる。



 朝食後、荷物を持って宿を出た。


 幸いなことに荷車を貸してもらえることになったので、それに荷物を積んで再び街道に出る。荷車は三人でひとつなので交代しながら引いていくことになった。

 スニエリタの華奢な細腕を見て大丈夫かなあと思うララキとミルンだったが、当人はこれまた初挑戦のようでうきうきと張り切っている。

 まあ今日の午後には遣獣たちも呼び出せる状態になるだろうから、最悪それまで保てばいいか。


 ともかく再び三人は街道を歩き出した。整備は行き届いており、きれいに敷き詰められた薄い黄色の石畳がどこまでも続いているように見える。誰かが掃除しているのかゴミなどもない。

 列車ができたといっても、まだこちらを使う人間もそれなりにいるのだろう。今のように突然運休になることもある。


 たまに旅人らしい人ともすれ違う。手袋をしているのを見て紋唱術師だなと思っていると、そのうちのひとりが向こうから話しかけてきた。

 なんでもルーディーニ・ワクサルスを見に来たのに、ちょっと予定がぎりぎりだったのと運休のせいで、結局間に合わなかったという可哀想な人だった。


「でもここまで来ちゃったし、せっかくだからフィナナには行こうと思ってさ。あんたらは祭り帰りかい?」

「ああ。ところで運休の遠因になったっていう『妙な獣』っての、あんたは何か聞いてる?」

「そりゃあもう、行けばわかるけど、この先の町じゃその話で持ちきりだよ。まだその獣の被害は続いてるんだ」

「まあ……獣というのは、具体的には何ですの?」

「いや、なんでも『いろいろいる』らしい」

「え、どういう意味?」


 旅人のおじさんが言うには『妙な獣』は一種類ではなく、さまざまな種類が目撃されているらしい。

 場所は主にこの街道で、とくに時間帯を問わずに通行人が襲われる被害が相次ぎ、すでに死者も出ているそうだ。


 むろん時期的にこの近辺には旅の紋唱術師が多かったため、獣を退治しようとした者も少なくなかった。周辺の町で懸賞金も出しているので祭り前の小遣い稼ぎにはちょうどよかったのだ。

 そしてある術師が奮闘した結果、勢い余って街道の近くの線路を破壊してしまったそうだ。まさかの人害だった。


 やばそうだな、とララキは思った。スニエリタも危険そうですわねと言った。

 ただひとりミルンだけは、ちなみに懸賞金って幾らくらい出てんの? と聞いた。ブレないやつだな。


「十万ハンズ? 被害のわりに安くないか?」

「一頭あたり、だよ。話を聞いてるかぎりじゃ十頭以上はいるらしい。でもやめといたほうがいいよ、死んだって聞いた術師の中に、けっこう名の知れたやつも入ってんだ。

 騒ぎが始まってけっこう経つのにまだ誰も一頭も仕留めてないなんて、なんか気味が悪いしな」


 そうか、と神妙そうな顔で忠告を受け入れたかのようにミルンは頷いた。

 だがララキにはわかる。頭の中では十頭で百万ハンズは稼げるな~とか考えているに違いない。


 しかし大祭に集まってきた全国各地の腕利き紋唱術師がことごとく敗れ去り、ときに命まで落としているというのはなかなか由々しい状況だ。

 これから三人はそこを通ってガールの街まで行かねばならない。あえて街道を通らないで行くことも不可能ではないが、遠回りになってしまううえ森の中で道に迷う危険もあるし、相手が獣である以上は森の中なら安全というわけでは決してないだろう。


 どうか出くわしませんように、と祈ったララキだが、正直この時点でまたあの嫌な予感はしていたのだった。


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