015 ヤンザール・クラブの一夜②
:::
生きた心地がしない、とララキは思った。
さきほどからミルンは相手の攻撃を避けるのに精一杯で、反撃できそうなようすはない。
頼みのアルヌもサルの相手に手こずっているうえ、そちらもいつワグラールの攻撃の余波を食らうかわからない状況だ。
ああ、なんであたしこんなところにいるんだろう。
ミルンもなんでこんな無謀な試合に出ているんだろう。これでは負けて一文無しになるどころか、命まで奪われかねないではないか。
いつ地割れと岩柱の攻撃が当たってしまうのか、ララキははらはらしながら戦いの行く末を見守る。
一対一というルールがある以上は何も手出しができないのだ。ただ見ているだけしかできない。
ララキの気持ちなど素知らぬようすでマルジャックが頼んでもいない解説をしてくる。
──あちらのボードに表示されているのが、現在のふたりのレートです。試合終了が確定するまでいつでもチップを追加できますので、試合状況を見てから賭けていただいても構いません。
どうでしょう、ララキさまもおひとつ。
おひとつ、じゃない。
そんなことを言っている場合か。こっちは旅の相棒を失うかもしれない危機なんだけど!
「賭けていただける場合、チップの最低額は一万ハンズからでお願いしております」
「いや、あたし見学だけなんで……」
「そうですか。それは残念」
だいたい先にミルンから聞いていたルールと今の試合の状況が違いすぎる。
相手の攻撃はどう考えても気絶させるためのものではない。よくて大怪我、そうでなければふつうに死ぬ。
ミルンはまだ慌しく走り回っていて、一応手では何か描いているものの、ちょっとした水の術が飛び出す程度で何にもなっていない状況だ。
ただただ地面が濡れていくだけで相手にはぜんぜん届いていない。たまにその水溜りをアルヌが踏んでさらに飛び散らせている。
ワグラールの声が聞こえてくる。
──坊主、いつまで逃げ回る気だ? 張り合いがねえなぁ!
彼の足元にもすでに水溜りができていた。逃げるミルンに合わせて立ち位置を少し変えるたびに、ブーツの爪先がぱしゃんと音を立てる。
水はすでに闘技場の円いっぱいに広がって、丸い池のようになっていた。
その中をアルヌが走り回っている。円の外へ飛び出さないように緩急をつけるなど、あの暴走イノシシにしては意外に器用な体捌きで、縦横無尽に駆けている。
サルがその後を追いながらさらに水を掻き回している。
それを見て、ララキの脳裏にひとつの仮説が浮かんだ。
ミルンはただ走り回っているわけではないのかもしれない。だとしたら、この巨大な水溜りにも意味があるのか。
「そうだな、そろそろ俺も疲れたんで終わりにしようか。……アルヌ!」
駆け寄ってきたイノシシに、ミルンはすばやい身のこなしで跨る。いや、彼の背を踏み台にして、飛びあがった。
そこへ岩柱の攻撃が続いたが、すでにアルヌは走り去り、ミルンには届かない。
ミルンはそのまま岩柱の上に着地して、紋章を描いた。
星を意味する三本線の印。そしてそれを囲う円。
「"
発動する瞬間アルヌが飛びあがって紋章へと消える。
残ったのはワグラールと彼のサルで、彼らは逃げる間もなく地面から生えるようにして伸びてきた氷に包まれた。
いや、もはや逃げようにも闘技場内で水のない地面はなくなっていて、足元の水はすべて彼らを喰らう霜の牙と化している。
やはりそうだ。地面を水浸しにしたのには意味があった。
ミルンはただ逃げていたのではなく、この下準備をしていたのだ。
ミルンは岩柱から飛び降り、ワグラールへ悠々と近づいていく。
ワグラールも抵抗を試みるが、すでに氷は腕まで達しているため、紋唱は使えない。
サルはまだ氷から逃れようと暴れている。岩の装甲を纏っていたぶん、ワグラールよりは身体の自由が効くようだ。
サルを覆う氷にひびが入る。
ミルンがワグラールに近づく。
氷が砕ける。
また一歩近づく。
「くそっ! アンビィ、早く氷をぶち割れ! 早くしろアンビィィ!」
しかし、サルが氷を内側から割り砕いて脱出したのと同時に、ミルンがワグラールから手袋を奪った。
『勝者、青の席! 飛び入りのミルンがワグラールを破ったーーーッ!!』
放送が喋り終わらないうちから試合終了を告げる鉦がけたたましく鳴る。
その音に被せるように、サルの悔しそうな咆哮が響いた。
次の試合が始まったころ、ようやくミルンが戻ってきた。
手には札束、顔は笑顔。しっかり稼ぐことができてご満悦のようすだ。
だがララキの顔を見た瞬間、笑顔は失笑へと変わった。
「……おまえなんで泣いてんだ……」
「泣いてないもん……ただちょっとほっとしたら……目から汗が……」
「あ、なんだ、マジで俺があいつに殺されると思ったのか。あっはっはっは! 安心しろ! ねーよ!」
「だって途中やばかったでしょおがぁぁ!」
ぽかぽか叩きながら猛烈に抗議するララキだったが、ミルンはまだ笑っていた。あんなの大したことないよ、と言いながら。
必死で逃げていたように見えたのだがどこにそんな余裕があったのだろう。
「いやだって、あいつ、俺が最初に撃った水流の紋を避けただけでそのあと何も警戒しないし。ありゃあよっぽど反撃されない自信があるんだなー、いやあおかげで儲かったけど!
あ、ちなみに言うとな、不利っぽくしてレートを上げるっていうのも稼ぐテクニックのひとつだ」
「ご……極悪人……! ミーちゃんに言いつけてやる!」
「それはやめろわかった謝る、謝るからミーにだけは言わないでくれ」
そんなやりとりのあと、第二試合をふたりで観戦した。
ぜんぜん知らない人同士の試合なら安心して見られるかと思ったが、やっぱり殺されるかどうかというような場面になると眼を覆いたくなる。
しかしそんな試合観戦もミルンに言わせれば勉強らしい。
たしかに学ぶところはある。人によって紋唱のやりかたが違うというか、紋章の描きかたが変わっていたり、ララキがあまり見たことのない術もたびたび見られた。
それにミルンの試合がそうだったように、単純に術のぶつけ合いでは終わらない。
紋唱を行う参加者を見ながら、ミルンが言う。──あの闘士はマヌルドの出身だな。
彼が言うには、紋唱術にも学派のようなものがあり、学んだ地域によって独特の癖があるらしい。
ララキにはよくわからなかったが、こういう場所で何人も紋唱術師が戦うところを見ていると、なんとなく出身地がわかるようになるそうだ。
そんなもんわかってどうするんだとララキは思ったが、たぶん対人戦闘では必要な知識……なのかな。
やがて試合にも決着がつき、高らかに鉦が鳴った。
するとミルンも立ち上がる。帰るのかと思いきや、ララキにはまだここにいろという。
「まさか」
「次の試合も出ることにした」
「またやんの!? もうやだあたしの心臓が持たない~!」
叫ぶララキを放置して、ミルンはさっさと行ってしまった。
そういえば連続して勝てば報酬額が増えるとかなんとか聞いた気がする。守銭奴め。
たしかにお金がないのは辛い、それはわかる、朝ごはん抜きの労働はとても辛い、それはとてもよくわかるけど。でもだからって。
残された札束を横目に見る。……たしかに真面目に働くのがばかばかしくなるような額だ。
せめて、ララキも参加できるくらい強くなれば、こんな気持ちにはならないで済むかもしれない。
ただ見ているだけなのがいちばん辛い。
強くなりたいとミルンは言っていたけれど、ララキもそう思う。
神さま相手に戦えるほどじゃなくても、何かが必要だと思ったときに、それを成せる力がほしい。
ミルンを一人で戦わせたくないと思ったときに、そうできるだけの力が。
もう、傷だらけの彼を見るのは嫌だった。
落ち込むララキを励ますように、威勢のいい放送が入る。第三試合が始まるようだ。
『ご紹介しますは青の席。先ほど歴戦のワグラールを下した、飛び入りの新星! ミルン!
対します赤の席は、こちらも本日飛び入り参加にして、当クラブへは初めてのご参加となる──』
ミルンの対岸に、対戦者が現れる。
どこかで見たようなシルエット。風もないのに揺れる長い髪と、静かな佇まい。
『麗しのスニエリタ嬢です!』
思わず嘘でしょー!?と叫ぶララキに気がついたのか、スニエリタがにっこり笑いながら手を振った。
しかし驚いているのはララキだけではない。
むしろララキ以上に驚いていたミルンは、予想だにしない相手にもはや声も出ず、呆然と彼女を見つめた。
思いつく限りもっともこの場所が似合わない相手だった。
というか、とても資金に困るようには見えない。
単純に腕試しを目的としているのだろうかとも思ったが、それにしたってもっと相応しい場所があっただろうに。
「い……意外なところで会ったな、スニエリタさん」
「そうですわね。お手柔らかにお願いします。……ああ、でも、手加減は無用というルールでしたかしら?」
「あ、ああ……」
試合開始の鉦が鳴る。スニエリタは上品な指使いで紋章を描いた。
「──我が僕は英明にして爛漫なり」
紋章から大蛇と大ワシが躍り出る。いきなり二体の遣獣召喚に、観客からわっと歓声が上がった。
ミルンも負けじとアルヌとシェンダルを呼び出す。
アルヌはさっき散々走ったせいで毛並みが荒れているが、本人の闘志は衰えていない。
とはいえ疲れは確実にあるはずだ。もともと長期戦に向いた性格をしておらず、後のことを考えて抑えるなんて芸当はできない。いつだって全力で走り抜けるやつなのだ。
ここはアルヌを牽制役として使い、戦法が整ってからシェンダルを動かすべきだろう。
などと考えていると、鼻をひくひくさせていたシェンダルが急に振り返った。
『……ミルシュコ、少しいいか』
「なんだよ」
『あのヘビとワシはオスか? どちらも臭いで判別できない』
「あー……スニエリタさん本人もわからんっつってたような……」
『ではメスの可能性もあるのか』
シェンダルは真面目な顔で言った。
『知っていると思うが、俺はメスとは戦えない』
「てめえ今それ言ってる場合じゃねえのわかるだろ! ていうかこのやりとり何回目だ!?」
『諦めろよミルシュコ、シェンダルは今も昔もそういうやつだぜ』
アルヌはさっさと突進を始めたが、シェンダルは動かない。ミルンはがっくり力が抜けそうになるのをなんとか堪え、とりあえず紋唱に移る。
水流の紋はさっき使っているのをスニエリタも見ていただろうから、さすがに警戒されるのは必至だ。
どうせなら意表をついて、それに対する反応が見たい。あえて炎系の術を放つ。
──"
火花が踊り狂いながら広範囲に散っていく術だ。じつを言うと大した威力ではないのだが、とにかく見た目が派手なのと音がすごい。
お嬢さまをちょっとビビらせるくらいならできるのでは、と思ったのだが、そう甘くはなかった。
スニエリタはジャルギーヤの背に乗って散焔を逃れた。表情にも焦ったようすは見られない。
しかも術を放った直後で無防備なミルン目がけて大蛇が迫っていた。
火花をものともせず、その巨体からは想像しえないほど速い。
むろんニンナに締め上げられたらそれだけで試合終了なのはわかっていたので、再びミルンは逃げに転じざるをえなかった。
しかしアルヌと違い、ミルンは自分の疲れをよく自覚している。
先の試合のような展開はミルンの体力的にも無理があるし、手の内が知られている立ち回りなど戦略的にもありえない。
それにたとえ試合を見られていなかったとしても、同じ戦法が通じる相手ではなさそうだ、と薄々感じていた。
旋回するジャルギーヤからスニエリタが術を展開する。
マヌルド人だと聞いたとおり、帝国仕込みの攻撃型紋唱術だ。
それもマヌルド派でも上級者のみが扱えるという"両描法"──その言葉から連想できるとおり、両手で紋章を描くという技法を用いている。
一見誰にでも真似できそうだが、実際やるのは決して楽ではない。かなりの訓練を要する技術だ。
それを移動する生物に乗った状態で行っているというだけで、彼女がどれほどの使い手かわかる。
しかもその精度と威力もまったく申し分がない。
「
荒れ狂う暴風がミルンたちを襲う。
風属性の攻撃は、目に見える形がないだけに避けにくい。
ましてや平面でしか移動のできない人間とイノシシとオオカミが、どうして上空高くにいるスニエリタに対抗しうるというのか。
「くっ、……
防御系の術を展開してどうにか耐えるが、攻撃は横からの風だけではなかった。
ただでさえ高度の攻撃紋唱を、両手描きで威力を倍にした「対円」で放ってきたあげくに、間髪入れずの重ね描きで別の術まで畳み掛けてきたというのだ。
足元から一気に竜巻のようなものが吹き上げてきて、ミルンはなす術なく空中へ放り上げられた。
ちょうど目前にスニエリタがきて、にっこり微笑んで言う。
「命までは取りませんわ。ですから安心して負けてくださいな。──
今度は上から下へ吹き降ろす旋風が起きて、ミルンは何を言い返す暇もないまま、地面へ真っ逆さまに落ちていった。
地面に叩きつけられる瞬間滑り込んできたアルヌによって激突は免れたものの、言いようのない痛みが全身に響く。
とくに脇腹が痺れるように痛んだ。ジェッケからロカロへ向かう道中に負った怪我が、まだ完治していなかったのだ。
ミルンの呻き声に重なるように試合終了の鉦が鳴る。
『勝者、赤の席、スニエリタ嬢~!
残念ながらミルンは連覇ならず! 今夜のヤンザールはまったく予想ができません!』
スニエリタはようやく地に下りて、割れそうな歓声のなか、慎ましやかに一礼した。
→
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます