016 前進せよ
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ミルンはアルヌに担がれた状態で戻ってきた。その後ろをシェンダルがのろのろとついてくる。
二匹はララキの前まで来ると、わりと雑にミルンを転げ落とした。ミルンがくぐもった声で呻く。
もう声をかけようにも言葉が出てこなかった。あまりにも無残な負けっぷりだった。
「いってぇ……ふっざけんなクソ……」
『オレに丁寧さを求めんなよ。それよっかシェンダルだろ、おめーはちったぁ反省しろよな』
『すまない。だが、俺はメスとは戦わない主義だと何度も言っている』
「性別不明にはオス前提で対応しろよ……あークソ痛ぇ……つうかスニエリタ強すぎだろなんだあれ……」
「だ、大丈夫? 怪我したとこ痛いの?」
おろおろしながらも、回復の術をかけてやる。多少は効果があるとよいのだが。
それにしても、たしかにスニエリタはものすごく強かった。ララキにもそれはわかった。
だいたい両手で紋唱を行う術師を初めて見たし、しかも複数の術をほとんど同時に展開するうえ時間差で発動するという芸当にいたっては、目にした今でも信じられないでいるくらいである。そもそもそんなことが可能だったのか。
偉大なる師ライレマならそれくらいできそうだが、如何せん彼は非常に忙しい身で、実際にララキの前で紋唱術を披露する場面はあまりなかった。それに彼は術師である以上に、研究者として生きていたから。
右手で回復の紋唱をやりながら、出来心で左手でも描いてみる。思いのほか難しい。右手の動きにつられてしまったり、片手に集中してしまったりして、どうしてもどちらかが歪んでしまうのだ。
どうしてスニエリタはこんなことができるのだろう。しかも遣獣の上に乗ってでは、どうしても安定が悪かったりして集中しにくいはずなのに。
どれくらい練習すればできるようになるのだろう。そして、どうしてそれほどの力を持つ彼女が、あちこち旅をしたりこんな非合法の賭博クラブに参加したりしているのだろう。
世の中不思議なことばっかりだ、とララキは思った。
第四試合の鉦が鳴る。スニエリタが続けて参戦していた。
ミルンが動けないのでそのまま観戦を続けたが、やはり勝ったのはスニエリタだった。対戦相手もなかなかの使い手に思えたが、ミルンと同じように複数の術の波状攻撃に翻弄されて終わった。
結局スニエリタはこの日最後となる第五試合まで参加し、勝利を収めた。
飛び入り参加の新人が三連覇、それも品のいい美少女とあって会場はたいへんに沸いた。歓声が止まない闘技場でララキとミルンは帰り支度をする。
最初の試合の儲け分がよかったので、そこから敗北した分の徴収額を差し引いてもそれなりの額が残ったが、ミルンの表情は思わしくない。
アルヌとシェンダルも引っ込み、あとは宿に戻るだけ。
ところがミルンは首を振る。ちょっと用があるやつがいるから、と。一人であの道を戻るのが嫌だったのでララキも着いていくことにした。
ミルンが向かったのは闘技場の端で、見覚えのある男が椅子に腰かけていた。ワグラールだ。
「……なんだよ、お互い負けたからって慰め合いでもしようってのか」
ワグラールはミルンを見るなりむっすりとして言う。手には酒瓶を持っていて、もうだいぶ呑んだあとのようだった。
「そんな気色悪いことするかよ。あんた、試合前に言ってただろ、俺に似たやつを知ってるって」
「ああ……あいつか。先週当たってひでぇ目に遭った」
「強かったのか?」
「てめえなんざ足元にも及ばねえ、あのスニエリタって嬢ちゃんでも勝てねえだろうよ」
負けた人間に言われても正直あんまり説得力ないな、とミルンは思ったが、酔っ払いの機嫌を損ねるのは面倒なので黙っておく。
そこでララキはミルンをつついた。ようやく事情が飲み込めたのだ。
「もしかしてお兄さんここ来てたの?」
「たぶんな。たまたま別のハーシ人が来てたにしても、俺と間違えられはしないだろう。他の特徴も当てはまるし……」
「なんだよ兄弟かよ。俺にとっちゃあ不幸を呼ぶ兄弟だ」
「おっさん、そいつ、これからどうするとか言ってなかったか? またここに来るとか」
「知らねえよ。……あ、いや、言ってたか?」
なんだったかな、とワグラールは顎を掻きながら悩み始めた。
酔っているせいで記憶が曖昧らしい。そのあと彼がうんうん悩んでいるのを、ミルンは辛抱強く待った。
ララキとしてもその続きを知りたかった。今のところ行動の決定権はミルンにあるような状態だ。
ここで彼の兄に繋がる情報が出てこないと、今後の旅の方針が定まらない。
いつまでこの街に逗留するか、移動するにしてもどこへ行くか、それさえ決まっていないのだ。
やがてワグラールは両手を叩いて言った。
「思い出した! ルーディーニ・ワクサルスを見るって言ってたよ。日程を訊かれたんだ」
「ルー……なんだって?」
「ルーディーニ・ワクサルス。知らねえのか? フィナナで年一度の大祭だよ。別名を"
「ああ、クワディンヤみたいなやつね」
ララキが納得した顔になったと同時に、ミルンは脳裏にライレマの言葉を思い出していた。
次兄ロディルが訪ねてこなかったかと訊いたとき、彼はこう答えたはずだ──クワディンヤといって、先月の今ごろにこの街で大きな祭りがあったんだが、そこで会った。
紋言開きと呼ばれる類の祭りは各地にあり、もちろんハーシも例外ではない。ミルンも何度か見たことがある。
気になるのはロディルがそれらを見て回っているらしいことだった。
彼が各地の古い紋唱を訪ねてまわっているらしいことは各所の痕跡からわかっているが、そのあとを追っているミルンには、それらがどういう意味を持っているのかいまいち掴めていないのだ。
手帳に描き写したものを並べてみてもピンとくるものはない。
内容も性質もばらばらで、共通しているのは宗教施設に関連しているという一点のみ。
あるいは、彼と同じくマヌルドの帝国立紋唱学術院で紋唱を学んだ者ならば、何か気づくことがあるかもしれないと思う。
しかし今のところミルンの旅の中でそういう人間との出逢いはなかった。……可能性があるとすればスニエリタだろうか。
「そのルーディーニどうたらって祭りはいつなんだ? まだやっちゃいないよな?」
「今月の二十四日だよ。なんだ、おまえらも見てくのか」
「ちょっと興味があるんでね。じゃ、いろいろどうも」
その祭りの日にロディルが姿を現すことは間違いない。それだけでも収穫だった。
ようやく確実に捉えられる距離まで近付けたのだと思うと、もちろんまだ説得材料など何一つ手に入れてはいないけれど、やっと一歩前に進めたような気がした。
今日は十六日。
二十四日まではあと八日あるが、今日はもう遅いので、実質七日間の猶予となる。
どうやら長い一週間になりそうだ、とミルンは思った。
・・・・・*
翌日、ララキはまたもミルンに連れられてフィナナ市内を歩いていた。
しかし今度は薄暗い貧民街ではなくふつうの市街地だし、まだ昼前の明るい時間帯なので怖くはない。ただ、行き先くらい先に教えてほしいと思う。
着いたのは立派な建物で、表には『フィナナ紋唱術師センター』とあった。
手入れの行き届いたきれいな室内には、紋唱術用の手袋をした人たちがたくさんいた。
衣装や装備がさまざまで、世界各地から集まってきているらしいが、同じような状態だったヤンザール・クラブとはぜんぜん雰囲気が違う。
あっちは地下室という環境が怪しさに満ちていたのもあるが、何よりここは合法的な施設らしい健康的な匂いがする。
まあ、ララキやミルンがそうであるように、昨夜あそこにいた術師がここに紛れていたとしてもわからないだろうが。
ところでここってどういう施設なの? ときょろきょろしながら問うララキに、ちょっと呆れ顔でミルンが答える。
「紋唱術師を管理する役所だよ。ここに登録すると外国人でも市内のいろんな施設に入れるようになる。
公共訓練所とか、国立学院図書館なんかも無料で使えるんだ。ハブルサにもあるだろ」
「あったかもしんないけど、あたし使ったことないもん。図書館て有料なの?」
「そーかい……。図書館は金どうこうっつーより学生でもない外国人は入れてもらえんと思うぞ」
知らなかった。ハブルサやジェッケではふつうに認定証の提示だけでどこでも入れたが、それはララキが一応はイキエス国籍を持っているからそれ以上の手続きを求められなかっただけらしい。
となるとジェッケの図書館で調べものをしていたときもミルンはそういう登録みたいなことをしていたんだろうか。あのときはほぼ別行動だったから見ていなかった。
まあ市内の一般向けの図書館と国立学院内のものでは話も別だろう。
ハブルサの学術院もそうだったように、そもそも学校の敷地内に部外者が入ることを厳しく制限しているのだから。
ともかくふたりとも受付を済ませ、書類を一枚もらった。
これからは紋唱術師の認定証とともにこの書類も提示することで各施設の利用が可能になるそうだ。
それと同時に、何か問題が発生したらすぐさまこのセンターに連絡が入るようになり、ことと次第によっては母国に強制送還されることもあるという。
書類を透かすとうっすら何か紋章が仕込まれているのが確認できた。恐らくこれでララキたちの行動が管理されるようになるのだ。
少し安心した。こういうものがあるとなれば、もう昨日のように非合法クラブに出入りすることもないだろう。
「よーし、じゃあさっそく図書館に……」
「いや訓練所に行こう。俺もおまえも今は知識より実践が必要だ」
昨日あれだけ戦ってまだ足りないっていうのかこの人。
今度はララキが呆れる番だったが、ミルンは気にしたようすもなくさっさとセンターを後にした。ララキも慌てて後を追う。
そこまで追従しなくてもいいような気もしたが、練習したい気持ちもあるにはある。ララキは昨日はただ見ているだけだったのだから。
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