003 紋唱術の腕前は……

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 出発前に読んだ旅の極意なる本によれば、旅においてもっとも大切なのは縁だという。

 どこでどんな人に出逢うかによって旅の快適さが変わるというのだ。


 親切な人や善良な人に多く出逢える旅ならよいが、意地悪な人や悪意のある人にばかり出逢う旅は、やめたほうがいい。

 どうしても必要のある旅であるならどこかで一度ちゃんとした祈祷師に厄払いを受けるべきだとも。

 ただし、悪縁の旅の中でちゃんとした祈祷師に出逢えるかどうかはわからない、とも。


 ではこの縁はなんだろう。


 ララキは悩んでいた。それと同じくらい目の前の人物も悩んでいるらしかった。


「ちなみに聞くけどさ、あなたはこれからどこ向かう予定? まさかカムシャール遺跡とか言わないよね?」

「……まじかよ……」

「あ、その反応がもうダメだわ」


 目の前で頭を抱えているのは、またしてもミルン・スロヴィリークとかいう異国の少年だった。


 こうして改めてよく見てみると、外套だけでなく頭に着けているものも変だ。

 一見するとヘアバンドだが、ごちゃごちゃした模様が入っているうえでかいレンズみたいな石も嵌まっている。ていうか頭ぼっさぼさ。

 いや外套もどうかと思う。見ているだけで暑苦しい。


 ちなみにここは、とある町の宿である。


 ララキはこれからカムシャールという遺跡に向かうのだが、そこは山の中にあって簡単に入れる場所ではないため、近くの町で一泊して翌朝から山に登るのが一般的な観光方法なのだ。

 そんなわけで最寄町テバに宿を求めたが、なぜかどこも満室。


 ようやく一室取れたこの宿で食事をとろうとしたところ、相席にしてくれと宿の主人に頼まれ、案内された席がミルンの真向かいだったというわけだ。

 今度はララキのほうが指差してあーっ!と叫ぶ番だった。


 ミルンは今度はあからさまに悪い態度ではないが、これは多少なりと養父ライレマの威光が利いているのだろうか。


「なんかもうあたしは諦めた。あなたとはそういう縁ができちゃったってことで」

「なんだそりゃ」


 ララキは諦めの気持ちとともにスープを煽る。新鮮な野菜の出汁がよく出ていて美味しい。

 どうも顔にそれが出たようで、ミルンもいそいそスープの器を手に取った。


「お! へー、美味いスープって冷めててもいけるんだな」

「……ふつうスープって冷たいもんでしょ?」

「は? 熱々で出すもんだろ」

「あなたの国ではそうなの? イキエスで熱いスープなんて飲んだことない」

「ハーシもそうだけどマヌルドでもワクサレアでもたいがいスープは熱いもんだよ。それよりさ、ララキだっけ、あんたライレマ教授に学んでたってことは、意外とかなりやり手だったりすんの?」


 肉と米からなる主菜をつつきながらミルンが聞いてきた。

 二秒後にこれも美味いと喜んでいたが、ララキはそれどころではなかった。美味しそうなお肉に伸びていた手が止まる。


 今さらであった。今さらながら、養父の偉大さがこういう裏目に出ることに気づいてしまっていた。


「ま……まあまあ、ね。そこそこ、かも。それなり、と言ってもいいかな」

「なんか怪しい回答だな。まあいいや、どうせ行き先は同じなんだし、明日はお手並み拝見させてもらうぜ」

「み、見てなさいよねぇ……」


 めちゃくちゃ声が震えていたが、それ以上はつっこまれなかった。

 嫌なやつだと思っていたが、案外根は優しい人なんじゃないか。とララキは思ったが、ミルンを見てみると、どちらかというとララキの実力などわりとどうでもよくてそれより飯が美味え!みたいな感じでごはんを頬張っていらっしゃった。

 まあ確かにこのお宿の食事は大当たりだったと思う。地元民向けに食堂も併設しているだけある。


 それならとララキも深く考えるのをやめて、美味しいごはんを堪能することにした。


 何にせよ明日に備えてしっかり食べておく必要があるのは事実だ。

 腹が減っては紋唱ができない。



 翌朝、ふたりは打ち合わせをしたわけでもないが、だいたい同じ時刻に宿を出て遺跡行きの馬車乗り場に向かった。

 こうなると絵面だけなら充分単なる二人旅の様相を呈している。


 旅の縁は道連れっていう言葉があるらしいが、それってこういうことなんだろうか。


 案の定というか馬車もひとつしか掴まらなかったので一緒に乗って、遺跡入り口まで載せてもらう。


 山道はきちんと整備されておらず、馬車も荷馬車に毛が生えたくらいのもので、しかも乗っている場所がほぼ荷台とあって、なかなか乗り心地は最低だった。

 石に乗り上げてはがったんばったん跳ねる客席という名の荷台に縋りつくようにして、どうか早く着いてくれと願った。このときばかりはふたりの心もひとつになっていたと思う。


 そんなときである、馬車が突然ひときわ大きくがったんと軋んでから停まった。


 もう着いたかと顔を上げても遺跡らしいものは見えない。

 あるのは鬱蒼とした暗い森と、石だらけの過酷きわまりない山道ばかりである。


 いや、その道の先に、何かがいる。


 黒々とした大きな身体を、さらに毛を逆立てて大きく見せようとしている獣だ。

 猪の一種だろう。

 かなり興奮した状態で馬車を睨んでおり、今にも突進してきそうな気配だった。


 御者は慌てて向きを変えようとしているが、このままでは馬の横っ腹に猪の牙が食い込むことになる。南部地方の馬は小柄だ。


「お、"岩砕き猪"か! けっこうでかいな!」


 隣でミルンがありえないほど明るい声を出していた。この緊迫した状況でちっとも慌てていない。


「ちょっと、なんでそんな呑気なの? あんなのが来たらこんな馬車の馬なんてひとたまりもないよ」

「そりゃこっちの科白だよ。紋唱術師なんだろ、早くお手並み拝見させてくれ。馬車が動けないのは俺も困る」

「そういうことかい!」


 こいつ、ララキに対処させるつもりで最初から傍観を決め込んでいたのだ。

 ララキはちょっと腹立つなと思いながら荷台を飛び出した。


 そしてまず手袋の確認をする。紋唱術には手袋が不可欠なのだ。

 ライレマから貰った大事な手袋に何も問題がないのを確かめてから、まっすぐに人差し指を突き出す。


 時間がない。単純で早く描けるものにしなければ。


「た……たゆたう清流に愛されし者よ」


 右にひとはらい。重ねて縦に一線はらって十字の完成。


「えっと、その名は陽明。その実は……碧蒼の、精霊……」


 指先で描いた跡がきらきらと淡い朱色に光る。

 紋唱術用の革手袋を着けて空をなぞったときだけこの線が出る。


「天果まで轟く……唱歌の主……顕現せよ──青蛙せいあ"プンタン"!」


 十字を円で囲みながら叫ぶようにして言う。


 空中に浮かんだ十字円の紋章が一瞬真っ青に輝いて、そこから影がひとつ飛び出した。

 ぺたん、という少し間の抜ける効果音が続く。


 え、とミルンが言ったのが聞こえる。うるさいなあ黙って見ててよ。


『あ、姉さんおひさー。今日は何の用だい? あれ、見かけない面の兄ちゃんもいるなァ』


 それは、鮮やかな青い身体をした、手のひらくらいの大きさのカエルだ。


 ちなみに名前はプンタン。

 かなりお気楽かつ陽気な性格で、趣味は歌を歌うことと踊ること、将来の夢はかわいいお嫁さんをもらうことらしい。


 いやカエルの個人情報は今はどうでもいい。

 イノシシは突如現れた不審なカエルの存在にちょっと突進を戸惑っているようだったが。


「……ちっせー……」

「うるさいな! あーもープンタン、あの人はほっといて、あの猪どうにかして!」

『え? ……まさかあれをオイラに倒せとおっしゃる?』

「そう。やってよ」

『やだなー姉さん冗談きついよーアハハハハ……ッ!?』


 ララキは笑い転げているカエルを無慈悲に掴み上げると、大きく振りかぶってイノシシ目がけてストレートで投げた。


『イヤァーッ何すんだよおおお!? わ、わ、すい、"水唱すいしょう"ッ!』


 さすがにプンタンも命は惜しいようで、イノシシにぶつかる前に彼の力を行使し始めた。

 彼は水の力を持ったカエルなので、水弾を出して攻撃することができる。


 ララキもプンタン一匹に任せるのはどうかと思い、背後からまた紋章を描いた。とにかく円をいっぱい描いた。


 循環を表す図形である円は、巡るものである水と相性がいいので、水の紋唱によく用いられる。

 円を描いては叫ぶ。──水流の紋! この言葉が引鉄になって紋唱が発動し、水の弾となってイノシシへと飛んでいく。


 あたり一面水浸しになったころ、腕が疲れ切って、手が止まった。


 イノシシは動いていない。

 びしょびしょになって、……まだこちらをしっかりと睨みつけていた。

 たいして攻撃が効いていないうえに余計怒らせてしまった感じが否めなかった。


『姉さん……これやべぇんじゃねーかなァ……』

「うん、あたしもそう思う……」


 イノシシの前足が地面を掻く。

 泥を蹴って、もはや狙いを馬車ではなくララキに定めて、飛びかかってくる。


 死ぬかもしれない、と思った。


 まだ旅に出て二日目だというのに。アンハナケウの手がかりを何一つ掴めていないのに、こんなところで。

 しかもイノシシに突進されてあの牙にお腹をぐさっとやられて死ぬんだ。

 ライレマ先生が聞いたらきっと悲しむだろう。


 ……ごめんね、シッカ……。


「──"我が友は喝采する"!」


 死を覚悟したララキを、イノシシより先に吹っ飛ばしたものがいた。

 いや、吹っ飛ばされたのではなく、横から勢いよく抱えられたようだった。


 突然のことで何がなにやらわからなかったが、プンタンの声が聞こえる。でっけええ!という声が。


 ララキを抱えているのは何かの獣の腕だった。

 焦げ茶色のふかふかの毛皮を纏ったたくましい腕を辿り、その顔を見る。


 クマだ。胸に白っぽい毛で珍しい模様の入った、このあたりでは見かけない獣だ。


「水流の紋っつーのはこうやるんだよ」


 ミルンの声がした。そういえばさっき聞こえたのもそうだ。


 振り向くとイノシシの前にミルンが立って、ララキと同じように円を描いていた。

 いや、ララキが連発していたのよりもずっと大きな円で、しかも中にも小さな円を幾つも描きこんでいる。


 最後に一回り大きな円でもう一度全体を囲ってから、ミルンは大きな声で水流の紋と唱えた。


 紋唱が蒼い光を放って、滝のように水が溢れ出す。

 まさに水流だ。川めいた奔流はその勢いでもってイノシシの身体を持ち上げ、森の彼方へと一気に押し流してしまった。


 ほんの数秒のできごとである。あっという間だった。


「え……す……すっごーい! ミルンすっごい! ライレマせんせーみたい!」

「……そんな簡単に最上級の褒め言葉出さないでもらっていいかこのやろう!? 教授と並べんな恐れ多いわ!

 そしておまえはよくその腕で西の果てまで行こうとか思えたな、おい! 現実を見ろ!!」


 そしてめちゃくちゃ怒られた。


『まあ坊ちゃん、だめですよ女の子にそんな乱暴なもの言いをしちゃあ……』

「ミーは黙ってろ! あと人前で坊ちゃんって言うのやめてくれ」


 クマの名前はミーというらしい。声からしてメスのようで、そのままララキをゆっくり荷台に戻してくれるなど優しい性格のようだ。


 ララキはミーにお礼を言った。ミルンの小言は無視した。


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