002 袖振り合うも他生の奇縁
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最低な朝だなとララキは思った。
まず寝起きが過去最悪に暑苦しくて、そのうえ市場に寄ったらなんか嫌な感じのやつに会ってしまったうえ、それで気分を害して歩いているうちに学術院の前まで着いてしまった。
市場でするはずだった買い物を一切忘れたまま目的地到着である。
人と会う約束をしているので戻っている暇はない。
ララキはもやもやするのを噛み殺して、学術院の中へ入った。
イキエス国立学術院は、その名のとおりこの国で最高級の学校である。
ララキは学生ではないので本来なら校内に立ち入ることもできないが、尋ね人が中にいる関係上、その人からの手紙を通行証代わりに入れてもらった。
凄まじい威圧感を放つ重厚な造りの門をくぐり、先へ進む。
よく整備されたかなり広い庭園があって、それに包まれるようにして学舎が立っている。
かなり歴史が古い建物であると一目でわかる。
足元にはこれまた年季の入った苔だらけの石畳が、庭を割り開くようにして学舎の入り口まで延びていた。
あちらこちらで学生らしい身なりの整った人たちが歩いていて、それぞれララキを見とめては怪訝そうな顔をする。
どう見ても部外者だからだろう。こういう場所の学生になるには、頭がいいだけでなくある程度の財力も必要だ。
うるさい視線は無視して建物に入り、受付のお姉さんにやや冷たい態度をとられながら目的地を訪ねる。
「ライレマ教授の研究室は西棟第三区です。……失礼ですけど、どういったご用件で?」
「あ、えっと、お世話になったので、一言ご挨拶をと思って」
お姉さんは懐疑的な眼差しだったが、かといって引き止めるようすでもなかったので、ララキは振り向くことなくすたすたと歩き出した。
なので、自分のすぐあとに入ってきた人物がいたことも、それが誰かも知らなかった。
ジャルーサ・ライレマ教授は世界でも有数の紋唱学者として知られている。
すでに多数の書物を世に出し、世界中の紋唱術師の学びを導いている存在だ。
直接彼から紋唱術を学びたいと願う術師見習いは少なくないが、まず多額の入学金を払ってこの学術院に入学する必要があるうえに、初年次内に一定程度の高い成績を修める必要があるというので、とてもとても敷居が高い。
その彼とララキにどんな関係があったのか、推測できる人間は恐らくどこにもいないだろう。
ララキ自身でさえ不思議に思っている。
ただララキの場合、望んで彼の弟子になったわけではなく、たまたま教えを受けた人物がじつはものすごい相手であったと後から知ったのであったが。
「こんにちはー、ライレマせんせー!」
なので今でも彼に対してはこんな感じで接している。
たぶん他の学生がこの研究室にいたらただでは済まなかっただろうが、幸い今日はライレマ一人だった。もしかしたら予め人払いしておいたのかもしれない。
「やあララキ、よく来たね」
「どうしても発つ前にせんせーに会いたかったの。でもほんとに久しぶりだね、せんせーがヤラムの学校から移ってった日以来だもんね」
「そうだね。ララキも随分大きくなったよ、立派になった」
「せんせーのお陰だよ」
ライレマは白いものが混じった髭を撫でながら、ほんとうに立派になったよ、ともう一度噛みしめるように言った。
初めて会ったとき、ララキは彼の半分ほどの背丈しかなかったのだ。
それからずっとララキの面倒を、それこそ勉強だけでなく身の回りの生活のことまでみてくれていた、ほとんど親同然と言っていい存在である。
ふたりは自然と、昔の話をした。
出逢った日のこと、一緒に暮らしていた頃のこと、ララキにとっては母同然であるライレマの妻のこと──彼女には昨日会って別れの挨拶をしたとララキは伝えた。
その際日持ちのする携帯食料を幾つか持たされたことや、この国に古くから伝わる安全のおまじないをしてもらったことも。
話はいつまでも尽きず、あっという間に予定の時刻になってしまった。
なにせライレマは忙しい身である。
ララキがわざわざ研究室を訪ねたのも、彼がかれこれ一週間近く、ここに缶詰になっていて家にすらほとんど帰れない生活をしていたからなのだ。
こうして会うにも時間の指定がきっちりと、何月何日の何時から何時まで、と指定されていた。ライレマからではなく、学術院から。
「すまないね、私ももっと話をしたいのだが」
「うん、でも、顔が見られただけでも嬉しかったから……このあとは授業があるの?」
「いや、お客さんだよ。外国の人らしい」
「……外国ってどこ? マヌルドとか? まさかとは思うけど──」
──コン、コン。
嫌な予感に、まさかハーシじゃないよね、と言おうとした次の瞬間、背後の扉を誰かがノックした。
ライレマはそれにどうぞと答えてから、ララキに向かって小さな声でもう一度すまないねと言った。
もちろん久しぶりの再会と別れの挨拶がここで終いになってしまったことへの謝罪だろう。
扉が開く。ララキはじっと、それを見つめる。
嫌な予感がどんどん大きくなる。
そして。
「はじめまして、ライレマ教授。先日手紙を出させていただいたミルン・スロヴィリークです」
案の定というか、こういうララキの予感はだいたい的中するのだった。
先ほど市場で会った嫌なやつがそこに真面目な顔をして立っていたのだ。
あの暑苦しい外套姿もそのままで、よくこの蒸し暑いのにそんな恰好で平気でいられるなとむしろ感心する。
彼も一瞬ののちにララキに気づいて、眼を見開いて驚いた。
というか不躾にも指を差して「あーっ!」とか言った。それはこっちの科白である。
「おや、知り合いかい?」
「知り合いっていうか今朝ちょっとね……せんせー、この人ね、あたしになんて言ったと思う? アンハナケウなんてあるわけない、そんなおとぎ話をどうして信じてるんだ、って!」
「ええええ……っていうかあんた、その人が誰だかわかってんのかよ……紋唱学の世界的権威であるライレマ教授だぞ……」
「知ってるもん。ていうかあなたよりあたしのほうがずーーーーっとせんせーのことよく知ってるもん」
「ちょっと待て状況がわからん、……どういうことだ? とりあえずあんた紋唱術師なのか? んでここの学生?」
ライレマ教授は目の前で始まった思わぬ喧嘩、と呼べるほどではないが穏やかでないやりとりに眼を丸くしながらも、そのうちくすくす笑い始めた。
「ララキ、そりゃあふつうの人はアンハナケウを信じないよ。私だってきみに出会っていなければ夢にも思わなかったろう。その反応は仕方がないことだ」
「……そーだよね。これから無闇に人に言うのはやめる。せんせーとママさんが信じてくれればそれでいい」
「ララキ……」
「じゃああたし、もう行くね。行ってきます!」
最後にライレマにぎゅっと抱きついてから、ララキはぱっと身を翻して研究室を出て行った。
長いポニーテールが扉の向こうに消えていくのをミルンはただ唖然として眺めていた。
彼だけはまだ状況が何一つ飲み込めていないからである。
「……ミルンくん、だったかね。あの子は私の娘なんだ。血の繋がりこそないがね。
紋唱術も私が教えた。ララキがこれからする旅は、ずっとあの子自身が望んでいたもので、それには絶対に必要だと思ったからだ」
「教授はその、……信じていらっしゃるんですね、幸福の国ってのを」
「少なくとも我々に紋唱を与えた神が存在するのは事実だからね。……それよりきみの用件を聞かせてくれないか。私もそうだが、きみもそれほど時間がないのではないかね?」
ライレマはすでに研究者の顔に戻っていた。鋭い瞳を向けられて、ミルンは再び姿勢を正す。
時間がないというのもそのとおりだった。
今日中にこの街を出なければならないし、できれば夜までには次の街に着いていたい。
では単刀直入にお聞きしますが、と言って、懐からあるものを取り出す。
それは布だった。
誰かが手作業で一本一本丁寧に針を刺してつくったのだろう、精緻な模様の色とりどりの刺繍が一面に施された、とても美しい布だ。
大きさはそれほどではなく、形も歪だった。もとは何かの一部のようだ。
布を見せながらミルンは問うた。
「ロディルという男があなたを訪ねてきませんでしたか?」
「その布は?」
「俺の故郷で作られたものです。同じものを持っているはずなので、見覚えはないかと……腰に届くくらい長い髪で、色は俺と同じです。眼の色も」
「少し見せてくれ」
教授は布を受け取ってよく眺めてから、その模様のひとつを指差した。
「炎輪に交差する円だな。確かに見覚えがある。名前は聞かなかったが、きみが言うような外見の若い男に、この図案の意味を尋ねられた。
クワディンヤといって、先月の今ごろにこの街で大きな祭りがあったんだが、そこで会った」
「やっぱり! それで彼は」
「カムシャールの遺跡に類型の紋唱があると教えたら、見にいくと言っていたよ」
「ありがとうございます!」
ミルンは勢いよく頭を下げた。
彼の髪は短いが、ライレマはその姿に、その日話しかけてきた青年の姿を重ねていた。
同じ色の髪と眼をした、しかも同じように季節はずれの外套を着た青年だった。
彼もまた頭を下げていた。あまりに深々と頭を下げるので、その美しい長髪が地面に着いてしまっていた。
──ありがとうございます。これでやっと先に進めそうです。
思い返してみれば、青年は喜びのためか震えた声だったが、声質もよく似ていた気がする。兄弟だろうか。
今から同じ遺跡を目指したところで追いつけるとは限らないが、少年のこのようすならきっと追いかけていくだろう。
そして、カムシャールという遺跡はこの国の西の地方にある。アンハナケウがあると伝えられているのと同じ方角に。
「ミルンくん。もしこの先、どこかでララキに会って、困っているようだったら助けてやってくれないか」
「え、あっはい! 喜んで!」
「はは。……もちろん私の親心ではあるが、それだけではなくてね、きっときみにも良い結果をもたらすと思う。あの子はそういう娘なんだよ。どうだい、ひとつ、きみもアンハナケウを信じてみては」
最後の提案にはさすがにミルンも苦笑いをしていたが、一応口ではそうしてみますと言いながら出て行った。
──アンハナケウ。幸福の国。すべての始まりの場所。神々のおわす聖域。
大陸の西の果て、空と陸と海との狭間、もっとも深き処にその扉はある。
紋唱をもってその叡智に触れよ、さすれば開かれん。
ライレマは研究室の上壁にある簡素な祭壇を見上げた。
この国のみならず大陸のほとんどの地域で信仰されている宗教のもので、学問の発展を願って、この学術院のすべての研究室に設けられているものだ。
ライレマも普段から定期的に祈りを捧げている。
ただ今日だけは、祈る目的は研究のためではなかった。
両手を合わせ、それからゆっくりと折り曲げて祈りの形にする。
それを顔の前に掲げて一心に祈った。
「……クシエリスルの神よ、どうかララキをお守りください。あの子の旅に幸多からんことを……」
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