幸福の国の獣たち
空烏 有架(カラクロアリカ)
南の国 イキエス
001 ハブルサの朝
──ここは「幸福の国」。
汝には永久の僥倖と安らぎを与えよう。
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◆ 幸 福 の 国 の 獣 た ち ◆
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南国イキエスの首都、ハブルサの朝はうだるように暑い。
ここは南の果てではないが、東の海岸沿いを巡ってくる生温かい季節風が、北西部に連なる山脈に遮られてこもってしまうせいだ。
湿気が多く蒸し暑い。大陸じゅうのどの国の首都よりも過ごしにくい、との噂も納得がいく。
しかしそれにしたって今朝の暑苦しさは尋常ではない。どう考えてもここ最近でいちばん暑い。
おかげでララキの大切な旅は、最悪な目覚めから始まった。
「……、あっづい」
寝台も寝間着も汗だくで、長い橙色の髪はそこに散らばってぐにゃぐにゃに絡んでいる。
のっそりと起きあがった彼女は伸びをする元気もなく、首筋にまとわりつく髪をぐいと束ねると、独り暮らしなのをいいことに着ているものを取り去った。
が、全裸になったところで涼しくなるでもなし。
幸い水資源は豊富な土地柄だ。どんな小さな借り部屋であっても、終日使える水浴び装置くらいはある。
この季節では水もそう冷たくはないが、それでも全身の汗を洗い落とすとそれなりに気持ちよかった。
日焼けした肌のおもてには、ところどころ黒い染みのようなものが滲んでいる。消しかけの刺青のような。
ララキはそれを指先で擦ってみたが何も変わらない。
やっぱりな、と軽く溜息をついて、水を張っていた
身体を拭いて服を着る。適当なもので腹を膨らませてから、残った食糧をまとめて袋に詰めた。
それを壁にかけてあった鞄の肩掛け紐に結び付ける。ついでにその中身も確認。財布、本が二冊に瓶が四つ、小刀、紐、その他こまごましたもの。
あまりにも簡略化された装備ではあったが、ララキにはそれで充分だった。
外出用のマントを羽織り、手袋と靴を履いて、出立の準備はこれでおしまい。
そうだ、鍵をかけ忘れないようにしなくては。
「さ、行こう、シッカ」
ララキは空を見上げて呟いた。
もちろんそこには誰もいないし、返事もなかった。
ただハブルサの空は、抜けるように青い。
*
眩しいほど青い空の下、街の中央部では大規模な市場が開かれている。食料品から土産物まで幅広い出店が特徴の青空市だ。
その端っこで、どう見ても異国から来たらしい出でたちの若者がひとり、悩んでいた。
イキエス名物は柔らかい薄パンにクリームや果物などを挟んだ"ブカクティ"という甘い菓子だ。市場にも専門の屋台がたくさん出ていて、ハブルサっ子の朝食の定番でもある。
今朝はブカクティにしようと決めたはいいが、なにせ名物なもので、種類がやたらにたくさんあるのだ。
店によって挟む果物や味付け、挙句に専門店ともなればパンの硬さや香り付けまで変えてくる。地元住民はお気に入りの組み合わせがあるらしい。
もちろん余所者の彼にパンの匂いの違いまでわかろうはずもない。
「おい兄ちゃん、後がつっかえんだから早く決めてくれな」
看板の前でうろうろしている異邦人を見かね、店主らしい顎髭の男が声をかけてくる。同時に漂ってくるのは焼き立てのパンの匂いだ。
魅惑的な芳ばしさに胃袋がきゅんと震える。
早く買いたいのはこちらとて同じ。ただ、種類が多すぎてどれを選べばいいのかわからない。
「あの……おすすめは?」
「ん? うちのはどれも美味いよ。この辺りじゃいちばんカリカリふわふわさ!」
「いや、そういう意味じゃなくてさ……」
そりゃそうだろうとも、こんなに旨そうな匂いなんだし!
思わず頭を抱えたくなったが、とりあえず腹を抑えることを優先した。
旅先とはいえ恥をかき捨てる勇気はない。今しばらく耐えてくれ腹の虫。
ひとまず後ろの客に順番を譲りつつ、彼は悩みに悩んだ。
クリームがいいか。ジャムにすべきか。
腹持ちを考えると硬めがいいか、食感重視でふわふわか。
真っ赤なやつを買っていった客を見てはあれが美味そうだと思い。
黄色いやつを買った客を見てはあれも美味そうだと思い。
というか甘党の彼ならたぶんどれを頼んでも美味しくいただけるだろう。
問題はそのあと別の味に目移りする可能性だ。
この優柔不断だけはどれだけ旅をしても直りそうにない。しかし旅人であるがゆえ、この街も昼前には発つつもりでいる以上、ブカクティを味わえるのもこれっきり。
後悔はしたくない。
どうしたものか……ぼんやり空を眺め、雲の形にすら菓子パンの幻想を重ねていると、どこからともなく変な声が聞こえた。
「ひえっ」
声がしたほうを向くと、いかにも現地人らしい浅黒い肌の娘がとんでもないものを見る眼つきで自分を見ていた。
相手はすぐに視線を逸らしたが、たしかにばっちり眼が合った。
「俺の顔になんかついてた?」
「……ごめんなさい、ずいぶん暑そうな恰好だからつい。どこから来たの?」
「ハーシ連邦だよ。それより、おすすめは何?」
「は?」
娘は一瞬何の話かわからなかったようだが、彼が背後にある看板を指差したことで納得がいったらしい。この店ならクリームにオレンジとライムかな、と言った。
──あ、パンは柔らかめの薄荷風味にしてね。
オレンジ、と告げた彼女の髪も、そんな色をしている。橙色の長いポニーテール。
「ところでハーシって、ほんとにそんな遠いところから来たの? 何しに?」
「ちょっと探しものをね」
やっと朝食を手に入れた彼のところに娘が待ち構えていた。
異国から来たという少年に興味を持ったらしく、思いつくかぎりの質問をぶつけてくる。
ハーシは大陸の北方にある国だ。領内にいくつもの民族が暮らしていて、土地は広いが国としてのまとまりは弱い。
だからひとくちにハーシと言っても、どこの出身かでイキエスまでの距離が大分変わってくる。
とはいえ最短距離でもそれなりに遠いのは確かであるので、彼女の言も間違ってはいない。
「あたしはララキ。あなたは?」
「ミルン・スロヴィリーク」
「わあ、ほんとにハーシ人みたいな名前。ミルンが個人名?」
「そう。……ララキは外国に興味でもあるのか」
「まあね、これから旅に出るつもりだから」
へえ、と眼を開いたのは少年──ミルンのほうだ。
ララキは軽装すぎるが、若い女の子のひとり旅なら、さほど遠くまでは行かないつもりなのかもしれない。もしくはまだ支度の途中かも。
それよりララキおすすめのブカクティが美味しい。
機嫌良くパンを頬張りながら、なんとなしにララキの行き先を尋ねる。
せいぜい隣の県までってところだろうと予想を立てながら。
「
「ッぶ!」
そしてミルンは見事に口の中のブカクティを空中にぶちまける結果となった。
「うわ、汚なっ!」
「げほっごほっ、だ、誰のせいだよ……! あああ俺のブカクティ! 勿体ない!」
悲しいかな、今の噴射によってブカクティは全体のおよそ2割を失った。これではミルンの腹を満たすには少しばかり足りない。
それに何より旅の間は無駄遣いを避けるべしと日々気を遣ってきたというのに、これで20ピリン相当の金が地面に消えたことになる。たいした額ではないがこういうのは積み重ねだ。
がっくり落ち込むミルンであったが、その隣でララキも不愉快そうに眉をひそめる。
──行き先を言うだけで噴き出されるなんて。
「はーあ。……あんた、見たとこ俺と同じくらいだろ。なんだってそんなおとぎ話信じてるんだ」
呆れたようにそう言うと、ミルンは気を取り直して残りのブカクティを食べ始めた。
アンハナケウ。
大陸の西の果てにあると言われているが、誰も辿りついたという者がいない、神の国。
この世の幸福のすべてを生み出し、不老長寿の妙薬や、どんな願いも叶う魔法の鏡があるとか、絶世の美女がいるとか……要するに伝説上の理想郷だ。
もちろん、そんなものは現実には存在しない。
ミルンも恐らくは無邪気な子どもだったころならアンハナケウに憧れただろう。が、さすがに十代も終わりのほうが近い今となっては、とてもじゃないが眉唾ものだ。
だがララキはそうはいかないようで、ミルンをきっと睨みつけた。
「おとぎ話なんかじゃない!」
「……」
「アンハナケウは絶対にある! ……だって、あたしはそこに行かなくちゃいけないんだから」
何を根拠にそう断言するかは知らないが、おめでたい奴だ――ミルンはそう判断すると、ブカクティの最後のひと欠片を口に押し込んだ。
こういう手合いは相手をしないほうがいい。
それに、そんな軽装で旅立ったところですぐ頓挫するに決まっている。きっともう出逢うこともないだろう。
ただ、眼が醒めるほどに青い空を眺めながら、ぼんやり思った。
もしもアンハナケウがほんとうに存在するのなら、自分の探しものもそこで見つかるだろう。
そこが昔、小さいころに寝物語で母から聞いたとおりの場所なら、きっとある。
それこそ長い年月をかけて世界中を回る必要なんてない。こんなふうに財布の中身を気にしてあたふたすることだって。
ある意味ララキのことが羨ましいとも思う。
彼女はまだ、この世のつまらない現実をよく知らないのだろうから。
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