第八章 最後の水平線
遠くから誰かがサイレンを鳴らしている。レースの終わりを告げるホーンの音だ、そう思った途端、目が覚めた。
ベット横に置いたスマホが鳴っている。何が起きているかわからない。
あ、そうか。代表決定戦は昨日、終わったんだな。
スマホをとった。
「もしもし、平家マリさんですか?」
空港のアナウンスみたいな事務的な冷たい声がする。
「はい、そうですが?」
「わたしは片浜病院の佐藤と申します。あなたのご友人の来栖(くるす)ジュンさんが危篤です。病院までいらっしゃることはできますか?」
そうか、ジュンが危ないって。わかってるよ。
「はい、すぐに伺います」
他人の声みたいだ。自分の声のトーンに驚いた。くたびれた小学校のオルガンのみたいに平板で冷静だ。
急いで身支度を急いで整えるとタクシーを呼んだ。ホテルから病院まで1時間
半くらいか。
あたしは海から山の緑に変わってゆく窓の外を見つめていた。高速道路に入る。まんじゅうのような山の間を車は進む。トンネルだ。みかんのような黄色の光が手の甲を照らす。また、白い光が目に入る。見慣れた国道のカーブにさしかかる。
ここを曲がると少し下りの坂の途中に病院がある。三年前から何度この道を自転車で行き来したのだろうか。
タクシーに料金を払うと、小走りで病室に向かった。
短いカーテンが下がる病室の入り口に立った。中をのぞく。すでに数名の人たちがベッドを取り囲んでいる。白い白衣を着た見慣れた男性が気配に気づいてこちらを向いた。
「あ、マリさん」
「……」
ベッドサイドへの周りに立つ人たちが下を向いたままあたしに道を開ける。
ベッドの上にはジュンが横たわっていた。
むくんでいた顔は、すっと、静かに落ち着いている。
「マリさん、残念ながら先程ジュンさんはお亡くなりになられました」
「そうですか」
自分の落ち着きに驚いた。
「3年間、目をさますことはありませんでした。残念です」
「はい、それは、わかっています。本当に、ありがとうございました」
さようなら、ジュン。そしてありがとう。
あたしはジュンの顔に手を添えた。少し開いた唇を触る。ぬくもりが残る。
しかし、何かがすっぽり抜け出したあとのようだ。
視線を下げた。胸の上に載せられたジュンの右手が何かを指差すような形になっていた。
「さよなら」
小さく、誰にも聞こえないようにあたしは口のなかでもう一度、言葉を形にした。
自然に涙がにじんできた。セーリングのせいで皮の厚くなった右手の指で涙を拭う。窓の外を見ると、白っぽい光が斜めにジュンの足を照らしていた。
あたしは、ベッドの周りの人達に頭を下げた。誰も何も言わない。そのままゆっくり後ろに下がる、ナースセンターの見慣れた看護婦たちに挨拶する。
ただ、前を向いたまま階段を降りる。メインビルディングへ続く舗装された小道をゆっくりあるいて行く。
「ざくっ」
砂利を踏んだ。あれ、真っすぐ歩いてはずなのに。どうしたんだろう。右足を歩道に戻した。自分の足元をじっと見つめた。
前方から足音がした。大柄な影が視野に入った。
「マリさん、ジュンさん、亡くなられたと聞きました」
アンだ。
「ああ、そうなんだ。結局三年間だ。最後まで意識は戻らなかったよ」
「残念です」
「先生が言っていたよ。人って、こういう状態が続くと、内蔵が弱ってくるん
だって。ジュンは頑張ったんだ」
「マリさん?ごめんなさい」
「なんであんたが謝るんだよ」
「マリさん」
アンが背筋を伸ばした様に見えた。
「うん?」
「決まりました。さっき協会から連絡がありました。私達がオリンピック代表
です」
「そうか」
「執印監督が、自ら抗議を取り下げたそうです」
「そうか」
あたしは、もう一度言った。裏山に反射した夏の光がコントラストを和らげる。
「一日遅くの表彰式を、今日の昼にやるそうです。これから会場にもどりまし
ょう」
「ああ」
アンは自信に満ちた顔をしていた。あたしはジュンの右手を思い出した。
バトンは渡されたのか。
「代表か。オリンピックまであと一年だな、気合い入れて練習しないとな」
「そうですね。そういえば、代表になればナショナルチームになるんですよね」
「そうだよ、国の代表だ。いろんな支援もうけられるんだよ」
「せっかくならセールも新しいのにしたいです」
アンが加えた。
「あはは、ボロ船ともおさらばだな」
「ところで、他のチームはどうなった?」
「二位はイギリス、三位がノルウエーです。ハルさんたちが四位です」
「三位はお前の親父のチームか」
「はい、そうです」
多分、次のライバルは彼らだ。彼女たちペアも風が見える。わかっている。
新な次元の戦いが始まるんだ。
<終わり>
トップ ドッグ (英語で「勝者」を指す) やまさきゅう @yamasakyu
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