弁護士の苗

おしゃもじ

第1話 ビギナーズラック

 薄暗いアパートの一室。男性が女性を殴りつける。


 泣き叫ぶ、小さな子供の声。


 女性が子供を抱き上げ、部屋を飛び出していく。


ーーー



 私は権平直子ごんだいらなおこ29才。弁護士を補助するパラリーガルとして働いている。勤め先は大手であるシビルロー法律事務所。


 私は弁護士志望だ。


 ほんの少しだけ、私のつまらない苦労話を聞いてもらおう。


 私は司法試験合格者を多く輩出する有名私大に入学した。周りがサークルだ、飲み会だの言っている間、学校と予備校とバイト通いの日々。


 多忙で辛かったが、この大学に受かったことは、夢に一歩近付いたと思えたし、知識も充分な程に身に付き、充実した時間を過ごせたと思う。


 順調なまでに、順調なコースだ。


 しかし、ここで予定が狂う。


 司法試験に受からない! 回を追うごとにプレッシャーが増す。知識は充分過ぎる程にあるのに! 遊んでた知っている奴らが次に次に合格していく! なんたる理不尽!


 そんなわけで、私は働きながら、司法試験合格を目指している。


 そして今、私の目の前に座って、頭を掻きむしりながら、必死に事務作業をしている男。


 これは加藤田苗かとうだなえ24才。


 ……弁護士だ。


 5才も年下だが、弁護士なので「先生」と呼び、敬語を使う。司法試験は一発合格だそうだ。


 実に面白くない。


 私の視線に気付いたのか、加藤田先生がヘラヘラと笑う。


 こんなボーッとした奴に、合格の枠を一つもって行かれたのか。


 実に面白くない。


 ちなみに、加藤田先生と私はこの大手法律事務所の雑用係だ。

 


 都心の大きなオフィスビルのワンフロア全部がシビルロー法律事務所。その端の端の小部屋にこの雑用部署はある。


 机2つと、来客の対応がなんとかできる程度の小さな部屋。


 小さな案件を専門的に担当し、その他は備品の発注から、会議の資料の準備、お茶だし、顧客への連絡、何でもだ。

 そして、今のところ雑用しかやっていない。


 私は所長の元で秘書としてバリバリと働いていたが、訳あって加藤田先生のもとにいるのだ。


 女弁護士である。佐伯華先生。せめて先生の側で働きたかった。先生は素晴らしい人格者だし、勉強にもなる。 


 そして加藤田先生は実に事務処理が出来ない。


 その上、すぐに忘れてしまうので、声がけが欠かせない。


「加藤田先生。例の訴状の送達はどうなりましたか?」

「私、失敗していません!」


 また、これだ。加藤田先生の口癖で、すぐ責任逃れをするのだ。加藤田先生が言い訳を続ける。


「それが、居留守を使われて、どうにも送達することが出来なくて……」


 私は加藤田先生の言葉に驚きが隠せない。


「マジですか?」


 加藤田先生は、あいも変わらずキョトンとしている。

 

 私は椅子から飛び上がる。


「行きますよ!」


ーーー


 マンション前の駐車場。私が、運転席で、加藤田先生が助手席。

 5才も年下のボーッとした弁護士の運転手。


 実に面白くない。



 居留守を使っていても、ある程度の生活の痕跡くらい残すもの。


 ベランダには洗濯物がゆらめいている。


 私は車から降りてデジカメで、その様子を写真に収める。

 ガスメーターもチェックし、それも写真に収める。


 車に戻り、デジカメをチェックする。


 やはり、助手席の加藤田先生がキョトンとし、そして問いかけてくる。

「権平さん、何しているんですか?」

「マジで言ってるんですか!?」

「え! 私失敗していません!」


「失敗も何も……。書留郵便に付する送達です!」

「へ?」


「居留守を使って、訴状を受け取らないなんてよくあること。こうして居留守を使っている証拠を撮れば、裁判所から送達した時点で、訴状が到達したことになるんです」

「ああー! 思い出した、思い出した!それで、被告が期日に欠席したら即負けするやつですね! 戦わずして勝てる!」

 

 本当に、こいつは大丈夫なんだろうか……。


 私の無言の声が聞こえたらしく、加藤田先生が、慌てて答える。


「大丈夫ですよー! ド忘れしちゃっただけです」


 加藤田先生のほがらかな笑顔に、余計に不安を覚える……。


 なんで私は、こいつと組まされているのだろうか。腹がたってくる。佐伯先生といえども、一言申さねば!



ーーー


 私は勝手知ったる事務所を足早に歩き、扉を開け、闊歩し、あっという間に所長室に辿り着く。


 ドアの前で呼吸を落ち着ける。


 いくら怒っていっても、焦っていても、佐伯先生への敬意を忘れるわけにはいかない。


 ノックして所長室にはいる。


 大きな窓から、都会のビル群を見下ろす、広々とした一室。佐伯先生がデスクに座って資料を真剣な表情で読みこんでいる。

 

 佐伯華さえきはな先生は45歳。20代に見えないこともないルックスが先生の自慢だ。言わされている部分も多少はある……うん。

  

「佐伯先生! なんですか、あの新人! 本当に司法試験に合格したんですか? 何にも知らないんですけどッ!」


 おっと、怒らないって決めていたのに、つい言葉が先行してしまった。


 佐伯先生は私の反応を見越していたように、のんきに答える。


「ゴンちゃん、怒らないで。大丈夫。弁護士登録されているし、ちゃんと弁護士。ただ……ラッキーパンチ? ビギナーズラック? だったのかしらね……」

「なんで、そんなの雇ったんですか」


「弁護士の合格者が増えていて、ダブついてるでしょ? どこにも就職先がなくて困ってたの。若くて、そこそこ、可愛かったし」

「そんな、理由で……」

「それだけじゃないわよ! ウチは大きな案件ばかりでしょ? 小さな案件もこなすことも大切。そういう部署を、前々から作りたかったの」

 

 佐伯先生と私は、私が中学生の時からの仲だ。私は少し寂しそうに、懇願するように先生に訴える。


「私は……、佐伯先生と一緒に仕事がしたいです」


 先生が私の手を握って説得する。


「ゴンちゃん……。それにね、ゴンちゃんに早く合格してもらいたいの。私の右腕として本格的に活躍して欲しい。私の傍にいたら忙しくてできないでしょ。本試験3ヶ月前の有休は、私の期待そのもの」


 そうなのだ。あいつの面倒をみるという交換条件で、私は試験前に有休をもらうのだ。先生の期待を背負って。


 こんなにまで期待して頂いているのに、私は何の文句を言っているのだろう。先生の想いに涙が溢れてくる。


「先生……」

「私も優秀なゴンちゃんがいないと大変。でも次こそは合格して欲しいの!」

 

 先生はなんて優しいのだろう。人格者で仕事もできて、私の憧れだ。先生、ありがとうございます。私、頑張ります!


 所長室をノックする音がし、若い男性がドアから顔を覗かせる。


「先生、お時間です」


 先生が輝く笑顔で、その男性に答える。目がハートになるというのは、このことか。


「ちょっと待ってね。すぐに行くわ」


 男性はその言葉を聞くと、笑顔で軽く会釈し、扉を閉める。普通の行動なのに、エレガントさが半端ない。


 そうか、そういうことか。私は佐伯先生を冷めた目で見つめる。


 まったく、感動を返してくれ。


「先生、あの人は? 見ない人ですね」

「新しい秘書の子なの! ゴンちゃんが移動しちゃうから、新しく雇ったの!」


「いや! 彼が先で、私の移動が後ですよね!?」

「……。期待しているわね!」


 先生はデスクの上の資料を手早く集め、さっさと所長室を出ていってしまう。私は空いた口が塞がらない。


 先生は人格者で仕事ができるけど、若い男性に目がないのだ!


 ああ……、眩暈がする。


ーーー


 私はドアを勢いよく開け、加藤田先生の前に勢いよく座る。もう、どうしようもない。目の前のことをやる以外、何もないんだから、仕方がない。


 こうなったら、有休だけは絶対に獲得してやる。


「苗、顧客へのメール送信は?」

「ええ! ため口!? さらには、下の名前で呼び捨て」


 おっと、無意識に、呼び捨てにしてしまった。でも、まあいいか。もう、どうでもいい。


「加藤田って長いし」

「権平に言われたくないっす」


 今後、呼び捨てにする詫びと、これから一応はパートナーとして働くのだ、予測しうる現状は教えてやろう。


「あんた、この部署、長くないわよ」

「え? 何で、ですか?」


「佐伯先生は人格者で尊敬できる人だけど、甘い人じゃない。今のところ雑用しかしてない! ちゃんと案件こなさないと潰れる」

「えええ!!!!」


「うちには、優秀なコンサルタントも付いている。部署ごとの実益を精査して、事務所にとって無用なら、さようなら」

「じゃあ、私は」


「あんた、試用期間でしょ?なんの問題もなく、あんたも、さようなら」

「そんな!」


「そして、私の本試験前3ヶ月の有休もさようなら」

「なんの話っすか?」


「あんたのお守して、良いことなしで終わっちゃうってことよ! とりあえず、目の前の仕事こなすわよ」

「お守って……」


「とにかく、仕事する! で? メールは?」

「私、失敗していません! 今から送るところです」


 ああ……。やっぱり眩暈がする!


ーーー


 僕は加藤田苗かとうだなえ。一応弁護士。奇跡的に司法試験に合格し、さらには奇跡的に大手法律事務所に勤めている。


 奇跡続き。自信もなにもない、奇跡なんだから。


 一緒に働くのは権平さん。パラリーガルだけど、法律知識も実務経験も豊富。所長の秘書をやっていた人だったとか。


 権平さんのピリピリした空気を感じとっては、怯える日々。もう下の名前で呼び捨てだけど、それも仕方ない。


 でも、なんやかんや、権平さんは優しい人だ。しっかりフォローしてくれるし、何でも教えてくれる。権平さんの方が実務経験も豊富だから、甘えてもいいか! うん! 仕事も、そのうち覚えていくよね! うん!


 気を取り直して、事務所の前にあるポストに郵便を出して、会社のロビーを軽快に歩いていると、小学校低学年くらいの男の子がウロウロしては、不安そうな顔を浮かべている。


ーーー


 僕が部屋の扉を開けると、権平さんが忙しそうに会議の資料を並べている。あ、ヤバい……忘れてた!


「苗! 遅い! 会議の資料忘れているでしょう」

「私、失敗していません! 今からやっても間に合うんです」


「法律知識はうっすいわ、事務処理ダメだわ、言い訳するわ……」


 権平さんが、あきれてしまっている。汚名挽回だ。


「権平さん! 依頼人です!」

「は?」


 そうか、権平さんからは、机が邪魔になって見えなかったか。僕はロビーで出会った子供を持ち上げて権平さんに見せる。


「え! 何!? その子供!?」

「依頼人です。ロビーにいたんです」


「いやいやいや、猫拾ったみたいに。未成年は絶対的訴訟無能力者でしょ!?」

「さすがに、私も知ってますけど。相談したいことがあるんですって。とりあえず聞きましょ? 親御さんにも連絡とらなくちゃ」


「まあ、そうだけど……」


 やっぱり、権平さんは、なんやかんや優しい! そして頼りになる! 甘えても大丈夫そう! 良かった!


 つづく!!!



 

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