弁護士の苗
おしゃもじ
第1話 ビギナーズラック
薄暗いアパートの一室。男性が女性を殴りつける。
泣き叫ぶ、小さな子供の声。
女性が子供を抱き上げ、部屋を飛び出していく。
ーーー
私は
私は弁護士志望だ。
ほんの少しだけ、私のつまらない苦労話を聞いてもらおう。
私は司法試験合格者を多く輩出する有名私大に入学した。周りがサークルだ、飲み会だの言っている間、学校と予備校とバイト通いの日々。
多忙で辛かったが、この大学に受かったことは、夢に一歩近付いたと思えたし、知識も充分な程に身に付き、充実した時間を過ごせたと思う。
順調なまでに、順調なコースだ。
しかし、ここで予定が狂う。
司法試験に受からない! 回を追うごとにプレッシャーが増す。知識は充分過ぎる程にあるのに! 遊んでた知っている奴らが次に次に合格していく! なんたる理不尽!
そんなわけで、私は働きながら、司法試験合格を目指している。
そして今、私の目の前に座って、頭を掻きむしりながら、必死に事務作業をしている男。
これは
……弁護士だ。
5才も年下だが、弁護士なので「先生」と呼び、敬語を使う。司法試験は一発合格だそうだ。
実に面白くない。
私の視線に気付いたのか、加藤田先生がヘラヘラと笑う。
こんなボーッとした奴に、合格の枠を一つもって行かれたのか。
実に面白くない。
ちなみに、加藤田先生と私はこの大手法律事務所の雑用係だ。
都心の大きなオフィスビルのワンフロア全部がシビルロー法律事務所。その端の端の小部屋にこの雑用部署はある。
机2つと、来客の対応がなんとかできる程度の小さな部屋。
小さな案件を専門的に担当し、その他は備品の発注から、会議の資料の準備、お茶だし、顧客への連絡、何でもだ。
そして、今のところ雑用しかやっていない。
私は所長の元で秘書としてバリバリと働いていたが、訳あって加藤田先生のもとにいるのだ。
女弁護士である。佐伯華先生。せめて先生の側で働きたかった。先生は素晴らしい人格者だし、勉強にもなる。
そして加藤田先生は実に事務処理が出来ない。
その上、すぐに忘れてしまうので、声がけが欠かせない。
「加藤田先生。例の訴状の送達はどうなりましたか?」
「私、失敗していません!」
また、これだ。加藤田先生の口癖で、すぐ責任逃れをするのだ。加藤田先生が言い訳を続ける。
「それが、居留守を使われて、どうにも送達することが出来なくて……」
私は加藤田先生の言葉に驚きが隠せない。
「マジですか?」
加藤田先生は、あいも変わらずキョトンとしている。
私は椅子から飛び上がる。
「行きますよ!」
ーーー
マンション前の駐車場。私が、運転席で、加藤田先生が助手席。
5才も年下のボーッとした弁護士の運転手。
実に面白くない。
居留守を使っていても、ある程度の生活の痕跡くらい残すもの。
ベランダには洗濯物がゆらめいている。
私は車から降りてデジカメで、その様子を写真に収める。
ガスメーターもチェックし、それも写真に収める。
車に戻り、デジカメをチェックする。
やはり、助手席の加藤田先生がキョトンとし、そして問いかけてくる。
「権平さん、何しているんですか?」
「マジで言ってるんですか!?」
「え! 私失敗していません!」
「失敗も何も……。書留郵便に付する送達です!」
「へ?」
「居留守を使って、訴状を受け取らないなんてよくあること。こうして居留守を使っている証拠を撮れば、裁判所から送達した時点で、訴状が到達したことになるんです」
「ああー! 思い出した、思い出した!それで、被告が期日に欠席したら即負けするやつですね! 戦わずして勝てる!」
本当に、こいつは大丈夫なんだろうか……。
私の無言の声が聞こえたらしく、加藤田先生が、慌てて答える。
「大丈夫ですよー! ド忘れしちゃっただけです」
加藤田先生のほがらかな笑顔に、余計に不安を覚える……。
なんで私は、こいつと組まされているのだろうか。腹がたってくる。佐伯先生といえども、一言申さねば!
ーーー
私は勝手知ったる事務所を足早に歩き、扉を開け、闊歩し、あっという間に所長室に辿り着く。
ドアの前で呼吸を落ち着ける。
いくら怒っていっても、焦っていても、佐伯先生への敬意を忘れるわけにはいかない。
ノックして所長室にはいる。
大きな窓から、都会のビル群を見下ろす、広々とした一室。佐伯先生がデスクに座って資料を真剣な表情で読みこんでいる。
「佐伯先生! なんですか、あの新人! 本当に司法試験に合格したんですか? 何にも知らないんですけどッ!」
おっと、怒らないって決めていたのに、つい言葉が先行してしまった。
佐伯先生は私の反応を見越していたように、のんきに答える。
「ゴンちゃん、怒らないで。大丈夫。弁護士登録されているし、ちゃんと弁護士。ただ……ラッキーパンチ? ビギナーズラック? だったのかしらね……」
「なんで、そんなの雇ったんですか」
「弁護士の合格者が増えていて、ダブついてるでしょ? どこにも就職先がなくて困ってたの。若くて、そこそこ、可愛かったし」
「そんな、理由で……」
「それだけじゃないわよ! ウチは大きな案件ばかりでしょ? 小さな案件もこなすことも大切。そういう部署を、前々から作りたかったの」
佐伯先生と私は、私が中学生の時からの仲だ。私は少し寂しそうに、懇願するように先生に訴える。
「私は……、佐伯先生と一緒に仕事がしたいです」
先生が私の手を握って説得する。
「ゴンちゃん……。それにね、ゴンちゃんに早く合格してもらいたいの。私の右腕として本格的に活躍して欲しい。私の傍にいたら忙しくてできないでしょ。本試験3ヶ月前の有休は、私の期待そのもの」
そうなのだ。あいつの面倒をみるという交換条件で、私は試験前に有休をもらうのだ。先生の期待を背負って。
こんなにまで期待して頂いているのに、私は何の文句を言っているのだろう。先生の想いに涙が溢れてくる。
「先生……」
「私も優秀なゴンちゃんがいないと大変。でも次こそは合格して欲しいの!」
先生はなんて優しいのだろう。人格者で仕事もできて、私の憧れだ。先生、ありがとうございます。私、頑張ります!
所長室をノックする音がし、若い男性がドアから顔を覗かせる。
「先生、お時間です」
先生が輝く笑顔で、その男性に答える。目がハートになるというのは、このことか。
「ちょっと待ってね。すぐに行くわ」
男性はその言葉を聞くと、笑顔で軽く会釈し、扉を閉める。普通の行動なのに、エレガントさが半端ない。
そうか、そういうことか。私は佐伯先生を冷めた目で見つめる。
まったく、感動を返してくれ。
「先生、あの人は? 見ない人ですね」
「新しい秘書の子なの! ゴンちゃんが移動しちゃうから、新しく雇ったの!」
「いや! 彼が先で、私の移動が後ですよね!?」
「……。期待しているわね!」
先生はデスクの上の資料を手早く集め、さっさと所長室を出ていってしまう。私は空いた口が塞がらない。
先生は人格者で仕事ができるけど、若い男性に目がないのだ!
ああ……、眩暈がする。
ーーー
私はドアを勢いよく開け、加藤田先生の前に勢いよく座る。もう、どうしようもない。目の前のことをやる以外、何もないんだから、仕方がない。
こうなったら、有休だけは絶対に獲得してやる。
「苗、顧客へのメール送信は?」
「ええ! ため口!? さらには、下の名前で呼び捨て」
おっと、無意識に、呼び捨てにしてしまった。でも、まあいいか。もう、どうでもいい。
「加藤田って長いし」
「権平に言われたくないっす」
今後、呼び捨てにする詫びと、これから一応はパートナーとして働くのだ、予測しうる現状は教えてやろう。
「あんた、この部署、長くないわよ」
「え? 何で、ですか?」
「佐伯先生は人格者で尊敬できる人だけど、甘い人じゃない。今のところ雑用しかしてない! ちゃんと案件こなさないと潰れる」
「えええ!!!!」
「うちには、優秀なコンサルタントも付いている。部署ごとの実益を精査して、事務所にとって無用なら、さようなら」
「じゃあ、私は」
「あんた、試用期間でしょ?なんの問題もなく、あんたも、さようなら」
「そんな!」
「そして、私の本試験前3ヶ月の有休もさようなら」
「なんの話っすか?」
「あんたのお守して、良いことなしで終わっちゃうってことよ! とりあえず、目の前の仕事こなすわよ」
「お守って……」
「とにかく、仕事する! で? メールは?」
「私、失敗していません! 今から送るところです」
ああ……。やっぱり眩暈がする!
ーーー
僕は
奇跡続き。自信もなにもない、奇跡なんだから。
一緒に働くのは権平さん。パラリーガルだけど、法律知識も実務経験も豊富。所長の秘書をやっていた人だったとか。
権平さんのピリピリした空気を感じとっては、怯える日々。もう下の名前で呼び捨てだけど、それも仕方ない。
でも、なんやかんや、権平さんは優しい人だ。しっかりフォローしてくれるし、何でも教えてくれる。権平さんの方が実務経験も豊富だから、甘えてもいいか! うん! 仕事も、そのうち覚えていくよね! うん!
気を取り直して、事務所の前にあるポストに郵便を出して、会社のロビーを軽快に歩いていると、小学校低学年くらいの男の子がウロウロしては、不安そうな顔を浮かべている。
ーーー
僕が部屋の扉を開けると、権平さんが忙しそうに会議の資料を並べている。あ、ヤバい……忘れてた!
「苗! 遅い! 会議の資料忘れているでしょう」
「私、失敗していません! 今からやっても間に合うんです」
「法律知識はうっすいわ、事務処理ダメだわ、言い訳するわ……」
権平さんが、あきれてしまっている。汚名挽回だ。
「権平さん! 依頼人です!」
「は?」
そうか、権平さんからは、机が邪魔になって見えなかったか。僕はロビーで出会った子供を持ち上げて権平さんに見せる。
「え! 何!? その子供!?」
「依頼人です。ロビーにいたんです」
「いやいやいや、猫拾ったみたいに。未成年は絶対的訴訟無能力者でしょ!?」
「さすがに、私も知ってますけど。相談したいことがあるんですって。とりあえず聞きましょ? 親御さんにも連絡とらなくちゃ」
「まあ、そうだけど……」
やっぱり、権平さんは、なんやかんや優しい! そして頼りになる! 甘えても大丈夫そう! 良かった!
つづく!!!
弁護士の苗 おしゃもじ @oshamoji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。弁護士の苗の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます