第1章 サエイレムの新総督
第2話 フィル、九尾に食われる
「…わたし、ここで死ぬのかな…」
大木に背を預け、木々の間から見える空をぼんやりと見上げながら、フィルはつぶやいた。
座り込んだ体の下には血だまりが広がり、左腕はぶらんと垂れさがったまま。
身に着けた革鎧は無残に引き裂かれて、露わになった腹部には間違いなく命に関わるであろう深い裂傷が刻まれていた。
わずか14歳の少女にしては、あまりにも酷い姿だった。
がさり、草を踏む音に身を震わせる。右手に掴んだ剣を音のした方に向けるが、腕には満足に力が入らない。ブルブルと震えて切っ先は定まっていなかった。
「…!」
木の影から現れたのは、背嚢を背負った少女だった。年の頃はフィルと同じくらいだろう。しかし、栗色の髪の上にはふさふさの毛で覆われた獣の耳が立っている。
初めて見る魔族の娘だった。粗末な服とエプロンを身に着け、腰帯にナイフを差しているが、これは武器というより生活用だろう。
とりあえず、自分たちを襲った連中ではないと気付き、フィルは力を抜いた。途端に剣の重さに耐えられなくなって腕が落ち、剣の切っ先が地面をえぐる。
「あの…大丈夫ですか?」
魔族の少女は、恐る恐るフィル近づいてきた。
「大丈夫、とは言えないかな」
痛みに耐えながら、フィルはぎこちなく笑う。
少女は、自分も痛そうな表情を浮かべてフィルの様子を見ていたが、背嚢を降ろすと中から布包みを取り出した。
「…ひどい怪我……効くかどうかわかりませんが、薬草があります。せめて血止めだけでも」
どうせもう動けない。薬草程度で回復できる傷ではないが、フィルはおとなしく体の力を抜いた。
少女は、布に包まれていた薬草の束を小分けにすると、ナイフで刻んで柄頭で潰し、フィルの傷に塗っていく。
「うっ…!」
傷口を触れられる痛みに、フィルの顔が歪む。しかし、薬草を塗られた部分は少し痛みが和らいだ気がした。
少しづつ薬草を潰しては塗る作業を繰り返し、最後にリネアは薬草を包んでいた布を切り裂き、包帯代わりに巻いてくれた。
「ありがとう…わたしはフィル、あなたは?」
痛みが薄れた分、少しだけ楽になったフィルは少女に話しかけた。
「リネアといいます」
「このあたりに住んでいるの?」
「はい、この森に住んでいます」
「村か何かがあるなら、お医者様は…」
「ごめんなさい。私は一人で住んでいるんです。この森に村はありません。お医者様はサエイレムまで行かないと…」
「そっか…」
フィルはふぅと息をついて目を閉じた。やっぱりダメか…内心つぶやく。
「ごめんなさい」
フィルを落胆させたのを察し、もう一度謝るリネア。
「いいえ。…せっかく薬草を使ってもらったけど、わたしは助かりそうもないわ…無駄にしてごめんなさいね」
自らの死を悟った言葉に、リネアは、じわりと潤んだ目でフィルを見つめる。
そんな目で見つめなくて良いのに…ここでわたしが死んでも、あなたには関わりのないことなのに…フィルは、少し煩わしく思った。
「リネア、あなたは早くここから逃げなさい。わたしの血の匂いで、きっと野獣たちが集まってくる」
自分が死ぬのはともかく、リネアを巻き添えにするのは気分が悪い。早く立ち去って欲しい。
「でも…」
躊躇うリネアに、フィルは思わず声を大きくする。
「いいから、もうわたしを置いていきなさい。あなたも死にたくはないでしょう!…う、げほっ!」
途端にフィルは咳き込んだ。傷が痛み、口からは血が垂れていた。
「はぁ…はぁ…お願いだから、立ち去って。リネアを巻き添えにしたくないの…」
だが、フィルの言葉は少しばかり遅かった。
再びがさりと藪が揺れて、現れたのは3頭のマダラオオカミだった。オオカミの中でも比較的体が小さく、弱った獲物や死肉を漁る性質がある。しかし、瀕死のフィルや生活用のナイフ一本しかないリネアで追い払うのは難しい。
「しまった…!」
フィルは、無理やり体を起こして剣を上げる。傷の痛みに悲鳴を上げそうになるが、せめて手当してくれた借りは返して死にたい。
「リネア、わたしが時間を稼ぐから逃げなさい!」
「そんな!」
それでもリネアはフィルの側を離れない。
ぶるぶる震えて怯えているのは明らかなのに、リネアは小さなナイフを握りしめている。まさか、わたしを守るつもりなのかとフィルは驚いた。
「リネア、伏せて!」
飛びかかってきたマダラオオカミの一頭に、剣を振りぬく。しかし、ろくに力も入らない腕で振るった件は空振りし、逆に左腕に噛みつかれた。
「そっちはあげるわ」
フィルは、左腕に噛み付いて動きを止めたマダラオオカミの腹に、右手の剣を突き刺した。すでに皮一枚でつながっていた左腕に感覚はなく、噛みつかれても痛みすら感じなかった。
腹を刺されて痛みに暴れるマダラオオカミに引っ張られ、フィルの左腕が肩からちぎれる。
「くっ…!」
刺したままの剣を捻り、そのまま更に押し込んだ。剣の切っ先がオオカミの背中から突き出す。オオカミはピクリと痙攣して倒れた。、
だが、仲間を倒され、剣を持つフィルよりもリネアの方が襲いやすいと判断したのだろう。残り2頭のマダラオオカミが、一斉にリネアに飛びかかった。
「きゃぁぁぁ!」
悲鳴が森に響き渡る。フィルは慌てて立ち上がろうとしてバランスを崩す。左腕がなくてバランスがとれないばかりか、もう足にも力が入らない。
「やめて!…食うなら、わたしを!」
地面に這いつくばるフィルの目の前で、リネアの服が血に塗れていった。
「リネア…!」
自分の無力さに涙を流すフィルの視界の端で、金色に輝くものが動いた。
それは、金の毛並みを持つ獣。見た目は狐だが、はるかに大きい。狐は前足の一振りで、リネアに襲い掛かっていたマダラオオカミ2頭を薙ぎ払う。たったそれだけでオオカミは吹っ飛び、動かなくなった。
フィルは力を振り絞って這いずり、リネアに近づいた。しかし、すでにリネアはあちこちを噛みちぎられ、血だまりの中に倒れている。辛うじて生きてはいるようだが、助かるような傷ではなかった。
「リネア、ごめんなさい……」
フィルは諦めて剣を手放し、地面に仰向けに転がる。こんな大きな獣と戦う術はない。自分はもうどうでもいいが、リネアを巻き添えにしてしまったことが悔やまれる。食われて死んだら、あの世でリネアに謝ろう。
『助けてほしいか?』
不意に、頭の中に声が響いた。
「え…?」
『助けてほしいかと訊いている』
フィルは声の主を探す。しかし目の前には金の狐が悠然と佇むのみ。
『助かりたければ我に食われるのだ。我の力を得ればおまえたちは死なずに済む』
「食われる?…そうすれば、わたしだけじゃなくて、リネアも助かるの?」
『造作もないこと』
人語を話す獣…魔王国の魔族、魔獣の類なのか…フィルは半ばヤケになって叫んだ。
「わたしを食べていい!…だから、助けて!」
『よかろう、我の意思となれ』
メルの視界に、大きな口を開けた狐が覆い被さった。
ぼんやりとした意識の中で、フィルは目を開く。
視界の中には、二人の少女がいた。
一人は、白金色の髪に金の瞳、長い髪を頭の後で結い上げ、わずかに褐色がかった肌が、健康的な印象を与える。
もう一人は黒髪に黒い瞳。長い髪をまっすぐにたらし、先の方でゆったりと束ねている。肌は白く、深窓の姫という感じだ。
印象は違えど、どちらも美しい娘だった。それぞれが見たこともない珍しい衣装をまとっていたが、二人には似合っていると思った。
そして、その後ろには先ほどの巨大な狐が寝そべっていた。
金色の毛並みは美しく輝き、宝石のような紅い瞳がフィルを見つめている。だが、何より驚くのは、普通は一本だけのはずの尾が、根元から分かれて九本も生えていることだ。
「我は、何千年の時を生きてきた狐の化け物よ。『九尾狐狸精』とか『九尾の狐』などと呼ばれたこともあるな」
狐の声が響いた。
「わたしは、どうなったんですか?」
フィルは、少し警戒しながら尋ねた。
「お前は我が食った。そして、お前は我の意思となるのだ」
「意思になる?」
「我は何千年の時を生き、数多の世界を旅してきた。長い長い時を生きるとどうなっていくか、わかるか?」
フィルは首を横に振る。
「あまりにも長い時を生きているとな、何も感じなくなるのだよ。想像してみよ。やりたいことは全てやり尽くし、見たいものは全て見た。何をやっても、どこに行っても、新鮮に感じることなど何もない」
フィルは考え込む。なんとなくだが、狐の言うことは想像できる。
「それで、わたしがあなたの意識になるというのは?」
「やりたいことが何もなくなり、何にも興味を持てなくなったら、次に何を考えるか、わかるか?」
フィルは少し首をかしげた。何にも興味がないということは、もはや生きる意味もない、ということだ…
「…死にたい、と思うでしょうか?」
フィルの答えに、狐は口の端をにぃっと吊り上げた。
「そのとおりだ。何もやってもつまらないとしか感じられない生に、もはや価値はない。自ら滅びを願うようになるのだ」
「でも、あなたほどの魔獣、いえ神獣とお呼びしても良いほど方が、そんな…」
「化け物たる我も、己の精神の摩耗には抵抗できないのだよ。神仏と呼ばれる者の中には長く耐える者も居ようが、知性ある者は最終的にこの宿命から逃れられぬだろう」
フィルは、そこで狐の目的に思い当たる。
「自ら滅んでしまうのを避けるために、新しい意思を迎え入れて代替わりさせる、ということですか?」
「そのとおりだ。なかなか察しの良い娘ではないか。そなたを食ろうたのは正解だったようだ。我の力と知識はくれてやる。好きに使うがいい。何十年、何百年の先かわからぬが、お前が摩耗し己の価値を見失ったとき、お前は我と完全に同化して溶けていく。そうなる前に、次の者へ明け渡してくれればよい」
「くれてやると言われても、どうしたら…」
「案ずるな。全てはもはやそなたのものだ。最初は慣れぬかもしれんが、力の扱い方はそのうち自然に『思い出す』。時がたち、そなたが我と同化し始めれば、我が蓄えた知識も理解できるようになろう。…善になるも、悪になるも、そなたの心根ひとつ。当代の九尾は後の世にどう語られるのか楽しみだ…」
そこまで言って、狐の姿はすぅっと溶けるように消えた。
その場に残った二人の少女は、ただ黙って微笑み、興味深そうにフィルを見つめている。
「またすぐに会えるから、自己紹介はその時に。よろしくね。フィル」
白金髪の少女が言い、軽く手を振った。
そこで、ハッと目が覚めた。
「わたしは…」
視界に映る景色は森の中。地面に倒れていた身体を、ゆっくりと起こす。
「痛く…ない」
ほぼ全身がズタズタだったはずなのに、傷一つなくなっていた。食いちぎられたはずの左腕もちゃんとあるし、動きにも違和感はない。
ただ、夢ではない証拠に、着ている革鎧や衣服は切り裂かれたままだった。そして、リネアもまた血みどろのまま地面に横たわっていた。
「リネア!」
魔族の生命力のおかげか、まだ小さく息はしているが、意識はなく傷口から流れる血も止まらない。
「どうして?!なぜリネアは治っていないの?!助けるって言ったじゃない!」
フィルは叫ぶ。
「九尾!お願い、この娘も助けて!どうすればいいの?!」
誰も答える者はいない。しかし、何かを『思い出す』ように、フィルの脳裏にイメージが浮かんだ。まるではじめから知っていたことのように、それは鮮明に、やるべきことを示していた。
イメージのとおりに、弱々しく上下するリネアの胸に手を当て、自分の中にある生命力を送り込む。すると、リネアの身体が黄金色に輝き始めた。傷口に光が集まり、怪我が治っていく…いや、治るというより、消されていくという方がより近い。黄金色の光の粒が傷に集まって塗りつぶし、元から怪我などなかったかのように怪我が治っていた。やがて、全身の怪我がきれいに消え去ると、黄金色の光は薄れ、そして消えた。
「…ん」
小さく声を上げて、リネアの目が開く。琥珀色の瞳がフィルの顔を映した。
「リネア、わたしがわかる?」
「…フィル、さん…?」
少し掠れた声。心配そうにのぞき込むフィルに、リネアは自然に笑った。
「フィルさんが助けてくれたんですね。…ありがとうございます」
「……ぅ」
フィルの視界がぼやける。盛り上がった涙がぽろりと頬を伝い、リネアの額に落ちた。
「ぅう、わぁぁ~っ!」
リネアにすがりつき、声を上げて泣き始めたフィルの髪を、リネアはそっと撫でた。
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