第3話 リネアの家にて

 しばらく泣いていたフィルは、ようやく顔を上げてごしごしと涙を拭うと、恥ずかしそうにリネアを抱き起した。

「わたしのせいで怪我をさせてしまって、ごめんなさい。…どこか痛いところはない?大丈夫?」

「はい、大丈夫です。どこも痛くありません」

 破れたスカートの隙間で、柔らかそうな尻尾がぽふりと揺れる。

「よかった。…でも、服もダメにしてしまったわね、…ごめんなさい」

「フィルさんったら、さっきから謝ってばかりですね。助けて頂いた上に、そんなに謝られては困ってしまいます」

 リネアは、可笑しそうに笑う。

「フィルさんだってボロボロじゃないですか。良かったら、家に来てください。粗末な服ばかりですけど、フィルさんにも着られるものがあると思います」

 フィルのお腹と左腕はむき出しの状態で、下半身はまるでボロ布が巻き付いているようだ。フィルの頬が、かぁっと赤くなる。さすがにこの姿では人前に出られない。

「…ありがとう。お言葉に甘えさせてもらいます」

 フィルは落ちていた自分の剣を拾うと、腰の鞘におさめた。


「でも、さっきは気付かなかったんですけど、フィルさんも私と同じ、狐人族だったんですね?」

「え?!」

 ふとしたリネアの言葉にフィルは驚き、慌てて頭に手をやる。

 ふにょん、と柔らかい感触がして、頭の上からくすぐったい感覚が伝わってくる。これは、獣の耳?

「尻尾だって、こんなに立派…、すごいです」

 恐る恐る、身体を捻って自分のお尻のあたりを覗く。そこには、毛並みの良い金色の尻尾が揺れていた。

「どうなってるの?!」

「どうしたんですか?」

 慌てふためくフィルの様子に、リネアは不思議そうに首を傾げた。


 どうしてこんな姿に…メルはリネアの後について、とぼとぼと歩いていた。

 とりあえず、服を貸してもらうために、森の中にあるリネアの家へと向かっているところだ。

「狐の神様に憑りつかれたから、狐人の姿になってしまった、ということなんでしょうか?」

 道すがら、さっき起こったことをリネアに話した。

「たぶん。おかげでわたしもリネアも助かったのはありがたいけど…」

 ただの飾りでない証拠に、フィルの頭の耳は感情を反映したようにへにょんと倒れている。


 しばらく歩くと、森の中に開けた湖の畔に出た。少し先に丸太で組まれた山小屋のような建物が建っている。周りの地面から少し高床になっており、入り口の前にはウッドデッキが張り出している。

「あれが私の家です」

 リネアが指をさす。決して大きくはないが、頑丈そうな作りだった。

「どうぞ、入ってください」

「お邪魔します」

 リネアに案内され、フィルは家の中に入る。ドアをくぐるとすぐに居間になっており、隅にはキッチンも設けられていた。

 部屋の真ん中にある小さなテーブルにはテーブルクロスがかけられ、椅子の上には手作りと思われるクッションが置かれていた。きれいに掃除されたキッチンには、少ないながら食器や調理用具が並んでいる。

 リネアは、背負っていた背嚢を床に降ろすと、早速、着替えの服とタオルを用意し、フィルを湖へと誘った。

 フィルとリネアは、ボロボロになってしまった服を脱いで湖に入り、血や泥で汚れた身体や髪を洗う。互いに背中を流し合い、尻尾を丁寧にすすぎ、きれいになったところで服を着替えた。

 幸い、フィルとリネアはさほど背格好が変わらない。用意されたのがゆったりとしたワンピースだったこともあり、リネアの服はフィルの身体にも合った。

 少しごわつく質の悪い生地の服ではあったが、きれいに洗われており、ほのかに爽やかな匂いがした。

「お茶、淹れますね」

 着替えてようやくホッとしたところで、リネアがキッチンに向かう。

「ありがとう。何から何まで、悪いわね」

「ここに住み始めて、家にお客様が来たのは初めてなんです。私も嬉しくて」

 リネアは照れたように笑うと、お湯を沸かしはじめた。指先にポッと灯した火を枯草に移し竈に火を起こす。

 …魔族には、種族特有の能力があると聞いたけど、なかなか便利なものね…フィルは、声には出さずにつぶやく。


 フィルは、床に転がる自分の革鎧に目を向けた。胸当も肩当も大きく切り裂かれ、右腕の籠手も留め具が壊れていた。左腕は着けていた籠手自体なくなっている。もうこの鎧はもう使えそうにない。

「鎧はもうダメだけど、これが無事で良かった」

 フィルは、剣を吊る革ベルトに括りつけられた革の筒を外し、蓋を開いた。中には丸められた一通の文書。文書が血で汚れていないことを確かめ、大事にテーブルの上に置く。

「お待たせしました」

 トレイにふたつのカップを載せたリネアが戻ってきた。薄い黄色みがかったお茶からは少し薬草のような香りが漂っている。

「森の野草から作ったもので、ちゃんとしたお茶じゃないんですけど…」

 リネアは恥ずかしそうにフィルの前にカップを置く。

「いただきます」

 フィルはお茶を口に含む。野草茶と言っていたが、思ったより飲みやすい。少し苦味はあるが、じんわりと甘みも感じる。

「お口に合いますか?」

「うん、おいしいよ」

 少し心配そうに見つめるリネアに、フィルはにこっと笑い、もう一口、口に含んだ。


「リネア、改めて自己紹介します。わたしの名は、フィル・ユリス・エルフォリア。一応、人間で、帝国の出身です」

「…帝国…」

 リネアが、少し怯えたように繰り返した。それはそうだろう。つい半年前まで、このあたりで帝国と魔王国が戦争をしていたのだから。それに帝国は人間の国だ。帝国における魔族の扱いは決して良いとは言えない。

「安心して。わたしはリネア達、魔族とも仲良くしたいの。サエイレムは帝国領になったけど、わたしは、魔族を奴隷にしたりはしないから」

「あの…フィルさんは、一体?」

 まるで領主か将軍のようなフィルの物言いに、リネアは不思議そうに尋ねる。

 フィルは、テーブルの上で丸まっていた文書を開いて見せるが、リネアは首をかしげた。

「すいません、私は字が読めないんです」

「これはね、帝国皇帝からわたしに宛てた信任状。わたしは、サエイレムの属州総督になったの」

「そ、総督様っ?!」

 リネアが驚いて立ち上がり、ガタリと椅子が音を立てる。リネアは、そのまま床に平伏した。

「ちょ、リネア、やめて!リネアはわたしの恩人なんだから、そんなことしなくていいの!」

 慌ててフィルはリネアの手を取り、立ち上がらせた。緊張するリネアを宥めて、元通り椅子に座らせる。

「でも…でも…」

 小さく震えながら、リネアは上目遣いにフィルの様子を伺う。


 帝国の属州総督、その身分は高い。帝国には、首都を中心とする建国当初からの支配地域『本国』と、その後に戦争などで新たに領土となった『属州』がある。本国は、帝国の頂点に立つ皇帝や貴族で構成される議会である元老院によって直接統治されているが、属州は、功績のあった将軍や本国の要職を退いた高位の貴族などが属州総督として派遣され、統治に当たる。

 属州は帝国の領土ではあるが、本国から課せられる税の上納さえきちんと負担していれば、本国は属州の統治にほとんど干渉しない。属州の政治と軍事の全権を委任された属州総督の権力は絶大であった。

 リネアは、そんな細かいことまで知ってたわけではないが、帝国で総督と呼ばれる身分が街の領主以上の高い地位であることは知っていた。

「リネア、そんなに怯えないで」

「…すみません」

「驚くのも無理はないけど、リネアは私の命の恩人なんだから、もっとわたしに恩を着せていいのよ」

 フィルは、悪戯っぽく笑ってみせる。

「…フィルさん…いえ、フィル様は、総督様なのに…どうしてあんな場所に?…しかも、大怪我まで…」

 しかし、森で見つけた時の様子を思い出し、リネアは心配そうにフィルを見つめる。あれは事故や獣に襲われた傷ではなかった。誰かに傷つけられたものだ。

「わたしを総督にしたくない人たちがいるみたいでね」

 笑みを消し、フィルは小さくため息をつく。

「サエイレムに向かう途中に、襲われたの」

 フィルの答えに、リネアは思わず口元に手を当てていた。

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