第8話 闇金の男

サビに入る直前で、エリカが歌うのをやめた。ぽかんと口を開けたまま、部屋の入口のほうに目を向けている。


 サキも振り返った。


 男が立っていた。オールバックに固めた髪に、太い眉。歳は二十代後半くらいに見える。身なりはそのへんを歩いているサラリーマンと変わらないスーツ姿だ。


 サキはカラオケの停止ボタンを押して、いった。


「お兄さん、だれ?」


 男は答えず、にやにやした顔で部屋に入って来た。カラオケ本やグラスが並んだ長テーブルをはさみ、どっかりと向かいのソファに腰を下ろした。


 レイカがマイクを置き、サキの隣に座った。


「ねえ。あんた誰にことわって、ここに入って来てんの?」


「部屋、間違ってんじゃね」レイカがくすくす笑いながらマキに耳打ちした。


 男が大きく開いた脚の間にだらりと手を下げて、前かがみになった。


「お前ら、佐伯って奴知ってるな」


 予想していなかった言葉に、サキはあらためて男を見た。口元は変わらず緩んだままだが、目だけがぎらぎらと光っている。普通のサラリーマンじゃない、と直感した。


「何だよ、アンタ――」


「レイカ、待って」


 サキは身を乗り出したレイカの膝に手を置いた。


「知ってるけど、それがどうしたんですか?」


 サキは言葉遣いを変えた。あまり刺激しないほうがいいタイプの男だと思ったからだ。


「まあ、ちょっとした知り合いでな。奴からあんたらのこと聞いたんだよ」


「何を聞いたんですか」


 男はすぐには答えず、じっとサキの目を見つめてきた。そのまま上着に手を差し入れ、煙草を取り出した。かちり、とライターの音を立て、火を点ける。わざとゆっくり動いているように見えた。


「ガキのくせに随分、度胸があるんだな」


 煙を吐きながらいい、背もたれに右手をかけた。脚を組む。


 サキは背筋を伸ばした。レイカも男の雰囲気に何かを感じたのだろう。すっかり大人しくなってしまった。


ここで気圧されてはいけない。今までもヤバいことはあった。でも何とかしのいできたじゃない。心の中で思った。


「失礼ですが、名刺をもらえませんか」


「おお、いいぜ」


 男が名刺をテーブルに滑らせた。〝ハッピーローン株式会社 中西誠〟とあった。


「サラ金?」名刺を見ながらいった。佐伯に、サラ金で金を借りろ、と提案したのはサキだった。そうすれば、家庭にばれずに金を作れるからだ。今までこの手でオヤジたちから金を取ってきた。


「まあ、世の中じゃヤミ金なんていわれてるけどな」


 サキは中西の言葉に息を呑んだ。


(あのオッサン、まさかヤミ金から金借りたの? 何で……)


 ヤミ金イコールヤクザという計算式が、サキの頭の中で一瞬で成立した。


ヤバい、本物だ。本物のヤクザが来た――全身に鳥肌が立った。


 ヤミ金のヤクザ、佐伯、とくれば今日の五十万円と何か関係があるのは想像がつく。でも、いったい何の目的で? 佐伯とどんな関係なの? 


 サキの頭の中で、さまざまな考えが浮かんでは消えていった。


 しばらく声が出せないでいた。膝の上で握りしめた拳が震えているのが自分でもわかった。


「お前ら」中西がゆっくりと視線をサキとレイカに巡らせた。「俺の親友に随分ふざけたことしてくれたみたいだな」


「親友……なんですか」ようやく、それだけいえた。


「おお、その親友のことをよ、痴漢呼ばわりしてくれたそうだなあ」


「それは……」


 普段ならすぐにいい返すところだが、今はどう答えていいのかわからなかった。とにかく相手の目的がはっきりしない。


(ひょっとして親友の仕返しに来てる? まさか? 本職のヤクザが女子高生脅すなんてみっともないことする?) 


「お前ら、半グレみてえなマネにして小遣い稼ぎしてるんだって?」


 サキは顔にかかった髪を耳にかけた。唇がかさかさに乾いている。


「どういう意味でしょうか」


「だからあ」中西がソファから背を離し、テーブルに両肘をついた。「適当な奴を痴漢にでっち上げて、会社や家庭にばらされたくなかったら金払え、ってやってんだろうが」じろりと目を剥いた。


 サキは中西の凶暴な視線をまっすぐ受け止めた。ここで目を逸らしたら負けだと思ったからだ。


「どうなんだ、ああ?」


 中西が顔を歪め、さらに顔を近づけてきた。ヤニ臭い息が顔にかかる。サキは戻しそうになるのを必死にこらえ、平静をよそおった。


「それは何かの間違いじゃないでしょうか」どうにかこうにかいった。


「はあ、何だと?」 


 中西が大きく口を開けた。それでまた口臭が鼻を襲った。


(駄目、もう限界……)


 サキは上体をそらした。


「ちょっと。口が臭いんで、もっと離れてもらえません」


 いってから、しまったと思った。恐る恐る目を向ける。中西がフリーズしてしまったパソコンの画面のように、口を開いたまま静止していた。


 部屋の中に沈黙が落ちた。


扉の外から音の外れた歌声が聞こえてくる。


 突然、中西の目だけがぎょろりと左に動いた。目が合ったエリカが「ひっ」と声を上げた。


「あの……」


 耐えられずにサキは声をかけた。すると中西が、またぎょろりとサキに目を戻した。ふっと唇を緩め、顔をうつむかせる。


やがて肩が震えだし、「くくくく」と抑えた笑い声が聞こえてきた。


 サキは、その様子を黙って見ていた。そうしていることしかできなかった。


 中西が顔をうつむかせたまま、目だけを上げた。


「テメエら……ひょっとして俺のこと舐めてんのか」


 呼吸が止まりそうになった。視線に身体がすくみ、動けなかった。


「舐めて……ません……」


下を向いていった。もう目を合わせていられなかった。


「ガキだと思って下手に出てりゃ、いい気になりやがって」ちっ、と舌打ちのあと、中西がテーブルに掌を打ちつけた。「カタに嵌めたろか、オラァ」


 サキはぎゅっと目を閉じ、肩をすくめた。


 部屋の壁がびりびりするほどの、大声だった。テーブルの上のグラスが倒れ、床に落ちる音がした。


 隣で鼻を啜る音がきこえる。薄目を開けて横を見た。レイカがべそをかいていた。


「テメエら。佐伯から取った五十万円よこせ」


 サキは顔を上げた。やっぱりそういうことか。


「どうしてでしょうか」


「理由なんか、テメエらにゃ関係ねえんだよっ」どん、と拳をテーブルに打ちつける。「殺すぞ、こら、おお?」


 駄目だ。もうコイツは完全に頭に血が昇っている。これ以上、怒らせたら本当に手を出してくるはずだ。


 扉に目を向けた。逃げる? レイカを見た。うな垂れてひっくひっくと肩を震わせている。


 サキは鞄を開け、中から二十五万円の入った封筒を取り出した。


「これです」


「よっしゃ、素直じゃねえか」


 中西が右手を差し出してきた。


 同時に、サキは封筒を扉から一番遠い部屋の隅に放った。


「あっ、テメエ、何しやがる」


 中西がサキと、封筒が飛んでいった方向に交互に顔をやった。腰を上げ、封筒に向かう。


「逃げるよ」。


「えっ、えっ」


 レイカが涙に濡れた目を、大きく見開いた。


「早くっ」レイカの手を掴んだ。


 鞄を持ち、扉に走った。


「おいっ、やめとけっ」


 扉を開いたとき、背後から中西の声がした。


「やめるわけねえじゃんっ」


 そう叫んで部屋を出た瞬間、脚がとまった。


「あ……」


 男が二人、前方に立ち塞がっていた。ひとりは坊主頭の肥った男、もうひとりは痩せてひょろっと背の高い男。どちらも両手をポケットに突っ込み、にやにやと口元を緩めている。


「だから、やめとけっていっただろうがよ」


 肩をゆすりながら、中西が部屋から出てきた。「戻るぞ」と顎をしゃくった。


「おい、入りな」


 ひょろっとしたほうがいった。


 サキは大きく息を吐いた。


 それが最後に残った抵抗だった。

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詐欺師万起雄の善行2 @kosukeKatori

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