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「筆を折る」と彼女は宣言した。


 この場合の筆とは万年筆やシャープペンシルのことではなく、「小説を書く」という意志のことだ。彼女はそれを折ることにした。


 あいにくと、ここでその宣言そのものを引用するわけにはいかない。


 彼女の「宣言」は未だネットに残っており、コピペして検索すれば、とある小説投稿サイトの「活動報告ページ」(と便宜上呼ぶことにする)に行き着いてしまうだろうからだ。


「いつか自分の本を出すのが夢です」


 ずっと前に閉鎖された小説投稿サイトのプロフィール欄で、彼女はそう宣言していた。けれど、同じ夢を持ったほとんどの書き手がそうなるように、彼女は自分の才能に見切りをつけたのだ。


「自分がやってきたのは、しょせんおままごとだった」という意味のことを彼女は書いていた。「おままごとで書き続けるのは、他の書き手にも失礼」という意味のことも。


「おままごと」というなら小説なんて全部そうだろう。彼女はその事実から目を背けず立ち向かっているように思えたし、それが彼女の作品の魅力だった。暗い現実の中に灯る希望を「物語」と位置づけ、それを追い求める話を描き続けていた。


 いささか書斎派ブッキッシュな傾向は否めないが、それは彼女なりの誠意であり、先行作品や自分が知らない世界への畏敬の念が感じられた。嘘や演技、そして物語が真実を凌駕していく様をドラマチックに描く術を心得ていた。わたしをはじめ、固定読者も多くいたのだ。


 それでも、彼女は筆を折ることにした。


 そのきっかけとして言及されていたのが、投稿サイトが主催する大がかりなコンテストだった。


 これも詳しいことは書けないが、Web上の公開作品でエントリーできる、公募の新人賞のようなものと考えてもらっていい。もちろん、大賞受賞作は書籍化が確約されている。


 彼女に限らず、書籍化を最大の目標として掲げる書き手は多い。


 もはやプロフィール欄にそのような文言はなかったが「自分の本を出す」というのは変わらず彼女の夢だったのだろう。


 その気持ちは痛いほどわかる。


 わたしもそうだった。


 最終選考に残っても、それは通過点にすぎない。達成感や安堵はあれど、それ以上に不安が勝るのだ。自分はその先に進めるのだろうか、と。隣に名を連ねた彼女もきっとそうだったろう。


 最終選考に残ってからは、ずっとそわそわしながら出版社からの連絡を待ち続けたはずだ。入選したら直接連絡がある、というのが作家志望の間では常識だったから。


 頭の中では常に結果発表までの残り日数がカウントされている。それまでに連絡がなければ、つまり落選したということだ。


 カウントがゼロに近づくほど緊張は増していく。喉がからからに乾き、日が昇る前に目覚めるようになる。


 残り数日になった時点で、落ちたと覚悟はしているのだ。それでも、発表の前日、いや当日の朝までは希望が捨てられない。「何かの手違いで連絡が遅れているのではないか」と非現実的な想像で自分を慰めるものだ。


「そんなことありえないのに」と彼女は書いた。後から振り返ればそうなのだ。しかし、わたしたちの心は本格的な失望を先伸ばしにしようとする。非情な現実があらわになるそのときまで。


「落ちました」


 彼女の宣言を読んでいる途中、わたしは二度吐いた。わたしも望みを捨てきれていなかったのだ。彼女が入選しないだろうことはわかっていたというのに。すでに出版社から連絡を受けて、自分が大賞を受賞したとわかっていたというのに。

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