第5話 この世界のどこかで

「そうだったんですね。

でも、トレビスのエレナが、あったから。

この店がある。そうですよね」


 「もちろんそうだ。

店がなくなった時には、自分の進むべき道に迷いはなかった。

学校には店で働き始めて3ヶ月ほどで復学していた。

経営学も語学も、ちゃんと意味のあるものと理解したからだ。


店にいた頃と同じリズムで、夜は色々な店でアルバイトをした。

大学を終えると、貯金を使って、専門学校に入学した。

料理と店舗経営について学び、卒業すると海外に渡った。


今日にいたるまで、迷いなく来られたのは。

あの店で、大人が本当の情熱を注いでいる姿を見ることができたからだ。

それがどれだけ幸運なことだったかは、

今になってみて分かる」


「その後、エレナさん、ジュリアン、

そしてサオリさんがどうしているか。ご存知なのですか?」


「それぞれの物語はあるよ。サオリさんを除いてになってしまうのだけれど」


※    ※    ※


マリエさんとケンジさんは、

店の片付けに目処をつけると、旅にでた。

最初はアフリカから、しばらくしてインド、ネパール、ブータンからハガキが届いた。

それから、ラオス、ミャンマー、カンボジア。


マリエさんは新しい世界を探しに出かけたのだ。

1年近く旅をして、戻ってくると二人はNPOを設立した。


「ミッションといっても、

お店を出すのだから、楽しいのよ」


久し振りにあったマリエさんは、身に纏うものまですっかり変わっていた。

コットンの柔らかな風合いのカットソーにパンツスーツ。


「熱帯で動き回るためのオートクチュールを創るメゾンはないみたいだから」


マリエさんが始めたのは、途上国の女性に収入を得る機会を創出する活動。

観光地の近くに、カフェをオープンし、手工業品も販売する。

周囲にない洒落たカフェには、すぐに観光客が集まるようになり、軌道に乗る。

地元の女性にトレーニングをし、

経営を任せられるようになれば預けて次の店の準備を進める。


「いくつもの国に、娘ができるような感じね。

娘が100人いるって、世界一のお母さんじゃない?

まだまだ、これから1000人は育てなきゃ」


そう話をするマリエさんは軽やかで眩しくて、

背中には、羽根が生えているように見えた。


エリナさんにも、一度会いに行ったことがある。


いや、本当は自分の店にシェフとしてもう一度迎えられないか、

そう考えてトレヴィーゾに向かったのだった。


私のragazzo男の子が日本から来た!

と歓待してくれたエレナさんも、幸せそうだった。


お父さんも、不自由は残ったのだけれど、元気に回復されていた。

エレナさんは、たくさんの甥や姪の相手をして、美味し過ぎる家庭料理を作る毎日。

料理学校でも、また製菓を教えていた。


結局、肝心の話は切り出せずに帰ってきたが、それで良かったのかもしれない。

「トレビスのエレナ」を再開することを考えていたけれど、

その気持ちに区切りをつけて、自分の店をどう創りたいのか、

それを考えるようになったのだから。


余談だが、

エレナさんには当時、鉄人の料理対決番組への出演依頼が何度もあった。

飛び抜けて個性的なイタリアンを提供する、若い女性シェフ、

エレナさんの料理は、業界でも注目されていたのだ。

しかし、当の本人はテレビ嫌いだったので、どんなにジュリアンが煽っても関心を示さなかった。


エレナさんが、もし違う形の環境を与えられていたら、

恐らく世界的に名を知られる存在になっていただろう。

エレナさんがそういう道を選ばない性格だったことも運命なのだ。

形は違うが、

エレナさんに製菓指導を受けた生徒の中から、有名なショコラティエも育っている。

きっとトレヴィーゾのエレナさんは、今もとても幸せな日々を送っているはずだ。



ジュリアンの消息は、ケンジさんに知らせてもらった。

驚かせてやろうと、連絡をせずに会いにいったことがある。


ジュリアンの説明から、

何もない寂れた港湾都市をイメージして向かったカーディフ。

ライブハウスや洒落たバーが立ち並ぶ、先進的なアート&カルチャーに溢れる街だった。

それが歴史的な遺産である古城や教会の神聖な佇まいと見事に融合していた。


またジュリアンに騙されたと思いながら、

セント・メアリー・ストリートの一軒のパブに入った。

何食わぬ顔をして、カウンターに座った。

想像もしていなかったほど腹回りが大きくなっていたが、二の腕の刺青に間違いはない。

奴がビールを注いでいた。


振り返って眼があったが、しばらくキョトンとして固まっていた。

一度首を振ってビールを客に出しに行った後、後ろに回って「ダーレイダ」をやった。

ジュリアン!と答えると同時に揉みくちゃにされた。


パブ中の客に紹介をされ、飲まされた後、

厨房に連れて行かれ、俺のMUMだと、本当のお母さんに合わせてくれた。


ウェールズに戻って、仕事を探していた時、

日本から一人の女性がジュリアンを追いかけてきた。

ミチさん。

店の常連さんで、

エレナさんのドルチェを口に入れた時の、幸せそうな明るい笑顔が

とても印象的だった素敵な女性だ。

一体、あの忙しい毎日のどこで、ミチさんとそういう関係になっていたのか。


とにかく二人は同棲を始め、子どもが出来て

MUMに知らせに行ったということだ。


10年以上、顔を見せたことのない息子が

小さな日本人女性を連れて現れ、子どもが出来たという。


お母さんはミチさんを優しく抱きしめた後、

息子には渾身のパンチを見舞って、その日からこのパブで働けと連れてきたのだという。


それ以来、ほとんど休みはもらえず、料理はさせてもらえず

下拵えと、ホールと、掃除の毎日。

性分には合っているが、母ちゃんは厳しいとボヤいていた。


マリエさんの新しい挑戦や、エレナさんの元気な様子の話をすると

ジュリアンは本当に喜んでいた。

俺の妖精はどうしちまった?と聞くから、

お前のじゃないが、サオリさんの消息だけは分からないと伝えた。


そう、ある時からマリエさんにも連絡がつかなくなってしまったらしい。

もし、どこかで繋がったら知らせて欲しいと、マリエさんも探している。


みんな、それぞれに幸せな人生を歩んでいる。

あの時間を共にした、

サオリさんの人生にも同じエネルギーが循環しているはずだ。


そういうものはバランスするものだから。

そう信じている。


※    ※    ※


「これが物語の全てだよ」


「オーナーは、この店にいつか妖精が現れるのを待っているのですね」


「いや、もう30年近くも前のことだ。時が経ち過ぎている。

でも、もしサオリさんが現れるとしたら、この店が、トレビスのエレナのように

お客様の歓びに満ちた場所になっている時だろう。

幸運の妖精は、そういう時にしか現れない」


「そうなるといいですね。

私に、これからもそのお手伝いをさせて下さい」


ミサキが立ち上がり、そう言いながら改まって礼をするのに驚いた。


「何を言うんだ。

君がいてくれたから、ここまで来れた。

実際、お客様との直接の関わりの部分は、君に任せている。

本当によくやってくれている。

お願いをするのは僕の方だよ」


「オーナーにもう一度訪れたい店を聞いたのは、

その店を超えるために、どんなところか行ってみようと思ったからなんです。

視察に行ける店ではなかったですね。

でも手強いです」


「手強い?」


「オーナーの初めての店で、その店は想い出のまま消えてしまっています。

まるで、初めての恋人を一番深く愛していた時に亡くしたようなものではないですか。

それを超えるほどに愛されるのは、とても難しいことです。

もちろん諦めません。

私には未来に向けての時間がありますから。

10年後に同じ質問をさせて下さいね」


「君が10年いてくれるなら、それが何より嬉しいし、ここは特別な場所になるだろう。

そうだね。そして、いつか物語のメンバーをここに呼び集めよう。

そこにはきっとサオリさんも、あの柔らかい微笑みを浮かべて戻ってくるはずだから」


※    ※    ※


夜が近づき、厨房の仕込みにも熱気と、緊張感が漂い始めている。


19歳の自分が、道を定めて歩き続けてきて、いまここにいる。

すべての経験を材料に、その時々の特別な感情をスパイスにして

いま提供できるメニューがある。


振り返らずとも、全てが溶け込んだスープのように、

今に生かされ続けている

今日、この夜から、また新しい物語が綴られていくだろう。


「さあ、まずは今日、

最高の時間を、お客様にお届けしよう」


「はい、オーナー。

宜しくお願いします」


そう応えたミサキの瞳に輝く光が、いつも以上に眩しかった。

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トレビスのエレナ 逢坂 透 @toruaisaka

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