第4話 おとぎ話の終わり
ベイフロントのビルの最上階にある店に
夕陽が射し込む時間を迎えていた。
ミサキは
時々頷きながら、ほとんど姿勢を崩すことなく、
長い想い出話に耳を傾けていた。
「この話をしたのは初めてだよ。
こうして話していて、思い出したことも多い」
「オーナー、ありがとうございます。
この店の名前、Non ti preoccupare.のルーツですね」
「ああ、そうだ」
「それから、あの花とワインの送り主は、マリエさんですね。
びっくりして、どんなお知り合いの女性がいらっしゃるのかと、思っていました」
「こちらから知らせたわけではなかったけれど。
ケンジさんが見逃すわけはなかったね。」
「お話しを伺って、オーナーが求めているものが少しだけ分かったような気がします。
けれど、どうしてその店を終わらせることになったんですか?」
「どうして?
どんなおとぎ話にも、終わりがある。
これはマリエさんの言葉だ。
そう、物語に、ただ終わるべき時が来た、まさにそんな終わり方だった」
※ ※ ※
サオリさんが、店に出てこられなくなったのが始まりだった。
理由は聞いていない、とてもプライベートなことだったのだろう。
マリエさんは、もちろん事情を知っていたはずだが、誰にも話さなかった。
2週間ほどして、サオリさんが店に挨拶に訪れた。
どういう表情をして会って良いのか分からなかった。
厨房の奥の事務スペースにいると、
サオリさんが、ゆっくりと厨房を巡りながら近づくのがわかった。
立ち止まったサオリさんは、
いつもとは違う、辛そうな微笑みを浮かべていた。
「ごめんなさい。
ここにずっと、居たかったのだけど」
そう言うと、瞳を閉じ少し上を向いて、涙を抑えようとした。
深呼吸をするように、息を吸う。
それでも、一筋の涙が頰に流れるのは防げなかった。
「ここで過ごした時間のことは、忘れない」
そう囁きを残して、妖精は消えてしまった。
それから1ケ月も経たない頃だ。
その夜、エレナさんが2度も調理をやり直した。
絶対になかったことだった。
マリエさんも、すぐにおかしいと感じたようだった。
閉店を待って、エレナさんに話を訊いた。
何でもないと言うエレナさんの様子には無理があった。
そして実はPapa’が倒れたという連絡があったといって
顔を覆ってしまった。
「すぐに日本を発ちなさい。ここは大丈夫だから」
マリエさんはそれ以外の選択肢を与えなかった。
その夜、エレナさんはずっと厨房を離れなかった。
メニューを絞って任せるジュリアンに、それぞれの調理上の細かい配慮のようなものを伝えた。
明け方になって、寸胴鍋に火を入れベーコンを炒め始めた。
ベーコンを一度取り出し、その鍋で白ネギを炒め水を入れる。
すぐに押し麦を入れて煮立たせ、トロッとなるまで煮込む。
味をみて、最後に塩、コショウを振る。
真っ白なスープに、薄いピンクのベーコンが見え隠れする。
ベーコンと白ネギと押し麦のスープ。
戻ってこれなくなると感じていたのかもしれない。
実際にそうなってしまったわけだが、
ジュリアンと自分は、エレナさんの最後のスープを話す言葉なく口に運んだ。
泣きまくるジュリアンの涙がスープに入ると、
塩気が増してしまうと言う
エレナさんも、袖口で涙を拭っていた。
そうして、トレビスのエレナから、シェフが去って行った。
ジュリアンは本当に最後まで、全力を尽くした。
何人か交代で入った助っ人に指示を出し、素早く調理をする姿は別人のように見えた。
2ヶ月近く踏ん張って、マリエさんも何とかなると思い始めたのだろう。
店の名前考えないとね、とそんな話をし始めた頃だった。
ある夜、たちの悪い酔客が二人、閉店まで店に残っていた。
雑誌を見てきたのに、書かれているドルチェが一つもないと言い出したので、
マリエさんが応対に出た。
料理はともかく、エレナさんのドルチェは、真似などできなかった。
仕方なく、知り合いのパティシエの店から届けてもらっていた。
ウソを書いて騙したんだから、タダにしろという客に対し
シェフが心を込めた料理を召し上がったのだから、それはできない。
お気持ちでも支払っていただきたいといったマリエさんに
一人が小銭を投げたのだという。
額に当たって上げたマリエさんの声に、ジュリアンがキレた。
店から客を外に出そうとして揉み合いになった。
マリエさんが、交番へ行ってと叫ぶのを聞いて
警官を連れて戻った時には、客は床に倒れていた。
そのままジュリアンは事情聴取に連れて行かれ、
戻って来なかった。
ビザの問題か何かで、一度国に戻る必要があったのを隠していたのだ。
翌日から、店は開けなかった。
とうとう3人が居なくなってしまって、
マリエさんは物語を終えることにした。
「魔法が解けちゃったようね」
マリエさんの言葉通り、
トレビスのエレナはあっけなく、この世界から消えてしまった。
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