第3話 忘れられない時間
ある日、マリエさんが皆を集めて
オープンまでの分担を話し合うことになった。
まず必要になったのは、
お互いのゼスチャーによる意思確認だった。
イタリア語、フランス語のエレナと
英語と大阪弁のジュリアン
フランス語と英語を使えるマリエさんとサオリさん(帰国子女という噂は正しかったようだ)
が居なければ、意思疎通には、絵を描くか、ボディランゲージしかない。
混乱の中、時々ジュリアンが話す「アカン」くらいしか聞き取れない。
とりあえずOKと、分からないの2つのサインの出し方を決め、
スケッチブックにペンを用意した。
当然、お互いが想像もしない勘違いというのは起こる。
メニューの試作のための材料の中に、想定外の部位の肉や、全然違う野菜が届いた時
エレナさんの口から
本場イタリア人のMamma mia!マンマミーア!を初めて聞いた。
そういう時、何かトラブルが起きると
エレナさんはよく
Non ti preoccupare.ノン ティ プレオックパーレ
という言葉を使った。
たぶんそれは、
「心配せんでエエ、大丈夫や!」
という意味だろうとジュリアンと自分は理解した。
エレナさんは届いた材料を味見し、腕を組んで眼を閉じる。
それから袖口をまくり上げて新しい料理の創造に没頭する。
実際に、エレナさんのスペシャルなメニューが2品、そんな風にして生み出された。
29歳の若いシェフの才能と貫禄に、
さすが、イタリアから身一つで飛んできただけのことはある、と感心したものだ。
数々のエピソードを生んだ言葉の問題は、やがて消えていくことになる。
言葉そのものがわからなくても、意図は伝わるようになったからだ。
人間の意識の不思議さ、コミニュケーションの本質について実体験として学ぶ機会だった。
※ ※ ※
内装工事がピッチを上げていくのに、追われるように
それぞれが、開店に向けての詰めを急いだ。
エリナとジュリアンは、用意されたマンションのキッチンで、メニュー作りの格闘を続けた。
マリエさんとサオリさんは、
店の看板からコースターやナプキン、レシートのデザインに至るまで、
店のイメージの表現にこだわった。
自分はといえば、
工事現場で、職人さんたちの缶コーヒーを買いに出たり
漆喰を塗る手伝いをしたりして、とにかく出来ることをやった。
そうして一つの店が出来上がる過程を観ていると、
生まれて始めての興奮に、どうしてよいかわからない感じだった。
親はわけのわからない自分のテンションを気にかけて、マリエさんに状況を訊いていたと後から知った。
おかしな薬にでも手を出したんじゃないかと心配していたらしい。
そして、遂に
「トレビスのエレナ」
の店先の看板が、APERTO(開店中)を表にする日がやってきた。
※ ※ ※
余裕があったのは、最初の3週間だけだった。
どうやって宣伝しようか考えたり、自分たちの時間を愉しむことさえできた。
その後は、まず嵐のようなランチタイムが訪れるようになり、
すぐに夜の仕込みも追いつかないくらい忙しくなった。
当然だったと思う。
トレビスのエレナには「本物」が揃っていたのだから。
まず壁に掛かっていたアートは、どれも本物だった。
マリエさんは「みんなに観てもらった方が歓ぶから」と、個人のコレクションを持ち込んだ。
絵の価値は分からなかったが、
ジュリアンは、それはポルシェくらいで、あれはもうフェラーリ5台だ!
と指差した。
高額なもの表す単位を車以外には知らないようだった。
ただ、そう聞いてしまってからは、
床掃除をしていても、壁に背を向けられなくなった。
コートに袖を通そうとしたゲストが、危なく絵を揺らした時には息を詰めたものだった。
絵だけではない。
TVで見たことのある東洋人チェリストのバッハが店で演奏されたこともある。
他にも、マリエさんの友人の様々なアーティストが、本物の芸術を捧げてくれた。
エレナさんの才能も、間違いなく本物だった。
そして特別な個性があった。
その後、多くの料理に出会う機会を得たが、あの様なコースは何処にもなかった。
例えるならば
ペインティングナイフで描かれたような鋭いタッチの、
原色が美しく絡み合うアート。
一品一品が、美味しさの先に確かな印象を残す。
drammatico!
心を揺らされ続けて、最後にたどり着くのが、
エレナさんの唯一無二のドルチェ。
例外なく、みんなが笑顔になって帰っていった。
ジュリアン。
性格はどこまでもいい加減な奴だったが、仕事は機械以上に正確だった。
自慢の包丁で、寸分も大きさを変えずに材料を刻む。
それも、延々と続けていられる。
店が忙しくなってからは、余り家に帰らなくなった。
下着と寝袋、ヒゲ剃りと銭湯グッズ。
それだけあればどこでも暮らせるらしい。
ほとんどの時間を厨房の中で過ごし、
膨大な量の下ごしらえを、誰にも譲ろうとせずに続けた。
ジュリアンの孤独も本物だったのだろう。
彼はこの店で自分の居場所を見つけ、それを最後まで守ろうとした。
そして、本物の妖精。
サオリさんはテーブルの間を舞うように行き来し、
あの囁く声でオーダーを通した。
どんなに忙しい時も、妖精はまるで別の時空にいるように動き
柔らかな表情を変えることはなかった。
店に来たカップルは、少なくともどちらかが妖精の虜になって帰っていった。
女性が見とれていることの方が多かったかもしれない。
同性が理想として求めるイメージそのままの姿だったからだろう。
口コミや噂が、メディアにまで届くようになると、様々な取材の連絡が入った。
一周年を迎える頃には、雑誌やムックで神戸・阪神間の特集があれば、
かなりの確率で声がかかるようになった。
店が掲載される度、突発的にさらに忙しい毎日が訪れた。
そういう時はマリエさんが、特別な社交能力を存分に発揮した。
ワイン1本で常連のお客様に手伝いを依頼したり、
向かいのビルの空きテナントを、掛け合って日借りして入店待ちの間の待ち合いスペースにしたり。
もちろんそこにも本物の絵と、選び抜かれたアートの書籍が置かれた。
サービスのウェルカムドリンクを片手に、心地よいジャズの調べに浸れた。
「入店待ちをしていることを忘れてました」と、何人のお客様から聞いただろう。
マリエさんはまるで、忙しい芝居の舞台が楽しくて仕方ない女優のようだった。
いつも笑顔が溢れていた。
それはまたみんなを幸せにした。
最後に忘れてはいけない。
マリエさんのパートナー、ケンジさんだ。
ケンジさんは比類ない本物の実務能力を行使した。
実際、経営の素人だけでは店を続けられない。
仕入れ先との交渉、支払い。
月次決算に、口座の管理、税務処理まで、ケンジさんは軽々と片付けていった。
上場企業の役員秘書や、経営企画をしていたことがあると聞いたが、
何をしていてもパーフェクトだったと思う。
伝票のまとめ方、帳簿類の残し方といった基礎から
金というものが形を変えながら、入ってきて、出て行く。
その流れの中で押さえるべきポイントはどこか、
この時に正しいやり方というものをケンジさんから学ばせてもらったことは
今もとても役に立っている。
※ ※ ※
店で過ごした時間の中で
もっとも幸せに感じたのは、
4人の寝顔を見ている時間だった。
夜がメインだった自分が店の裏口からそっと入ると、
引かれたカーテンを通して柔らかな光だけが届く空間に、
4人がそれぞれの姿勢で眠りの世界に入っている。
慌ただしいランチの時間を見送ると
4人はテーブルを囲んで昼食をとった。
前菜にサラダに、パン、ランチメニューの主菜
そして、
マリエさんとエレナさんはワインを少し
ジュリアンは黒ビールをたっぷり、
飲まないサオリさんはエレナさんのドルチェ。
毎日のドルチェは、妖精の姿に少しだけ丸みを帯びさせた。
もっとも、それはサオリさんを、
より優しく魅力的に見せる効果しかもたらさなかったのだけれど。
昼食を終えると、4人は
siestaシエスタ!
と言って、それぞれの場所に別れる。
マリエさんは窓際のチェアー。
肘を付いて、手の平に顎を預けて眼を閉じている。
何かまた、楽しい空想でもしているかのように。
エレナさんは背中を壁につけて腕組みをしたまま
戦闘の再開までの間、塹壕で休息をとる戦士にように。
ジュリアンは、夜も使っているソファーで。
身体を丸めて横になっている。
小さい頃からずっとこんな風に眠っていたのだというように。
サオリさんは。
パイン材のベンチで、
長く美しい指を交差させて祈るように。
4人の安らかな時間を見守っていると
かけがえのない大切な場所に一緒に居られること、
そのことに心から感謝したいという気持ちになった。
今も、あの時の気持ちは色褪せない。
だから、
「トレビスのエレナ」は他とは比べられない。
もう一度、戻りたい店だというわけだよ。
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