第2話 エレナ、ジュリアン そして妖精
次は、シェフ。
エレナの話だね。
トレヴィーゾは、ベネチアの近郊にある小さな街だ。
一度訪れたことがあるが、半日もあれば街を一通り巡ることができる。
運河があり、古く美しい街並みはベネチアのミニチュア版のよう。
生活に必要なものは、こじんまりとした範囲の中で手に入る。
すぐに顔見知りができてしまいそうな街だから、
住めばきっと居心地のよい場所なのだろうと思った。
エレナさんはそんなトレヴィーゾの賑やかな家庭で育った。
5 人兄弟の4番目、そして一人娘。
彼女の情報はマリエさんや、他の人から断片的に聞いたものに過ぎない。
イタリア語とフランス語が少々。
それがエレナさんの話す言語だったから。
彼女が料理の世界に向かったのは、
2番目のお兄さんの影響だったらしい。
いつか二人で店を出すこと、それが夢だった。
料理学校を卒業し、
お兄さんの料理に合わせて、ドルチェを用意する。
そのために、製菓を専門に深めていった。
何故トレヴィーゾを出て、マリエさんの店に来たか。
マリエさんは、実家のつてを頼ってシェフを探した。
条件は、イタリア人でどの店にも立ったことがなく、瞳の澄んだ人物であること。
無茶な条件だから、様々な料理学校を回って、卒業生に声をかけてもらうしかなかった。
簡単に見つかるとは思えなかった。
いきなり遠い日本で、しかも未経験なまま店を任されるというのだから。
お兄さんと店を出すという夢が、断たれた理由は誰も知らない。
エレナさんはその時、卒業した料理学校で製菓の授業を手伝っていた。
喪失感が後押ししたのかも知れない。
話を聞いた瞬間、
彼女は、誰も知る人のいない国に行こうと決めた。
電話を受けたマリエさんは、
次の日のフライトで彼女に会いに行った。
マリエさんは料理を口にし、挨拶に来たエレナさんを見て、いきなり抱きついてしまったらしい。
エレナさんのご両親に挨拶をし、
一切の手はずを整え、半月後にはエレナさんを日本に連れて帰った。
日本に降り立ち、最初に迎えた朝、
芦屋の駅近く、借りたばかりのスケルトンのスペースに入って、
マリエさんはエレナさんの手を引き、厨房を予定している位置まで連れて行った。
「エレナ、ここがあなたの情熱を表現する場所よ。
あなたの思う通りにすればいい。
私はすべてのサポートをするから、遠慮だけはなし」
そう約束させた。
こうしてシェフと、店の名前が決まったというわけだ。
※ ※ ※
タトウーにピアス、
ジュリアンと初めて会った時、
マリエさんが、てっきり店の用心棒でも雇ったのかと思った。
セカンドシェフと聞いて、最初、正直大丈夫だろうかと心配になった。
手先もとても器用には見えなかった。
その上、
「アキマヘン、ドナイスマショー」
英語でなければ、酷い大阪弁を話す。
出身はカーディフ。
「アラヘン」
何もない街だということらしい。
そのヒドい大阪弁と、
自分のつたない英語力で聞き取った情報を
なんとかつなぎ合わせると、こういうことだったようだ。
両親が小さい頃からケンカばかりで、クソな家だった。
いろんな店でバイトをして料理覚えた。
家をでてロンドンへ、ニューヨークでも暮らした。
そこで知り合ったショーコと日本へ来た。
大阪の八尾にいたが、ある日、彼女は帰ってこなかった。
難波、梅田、三宮とアチコチの店で仕事した。
腕がいいから、マムに雇われた。
32歳といったが、精神年齢はその半分がいいところだった。
誰にでも、
後ろから手で目隠しをして、
「ダーレイダ」
をやる。
そんな言い方、地球上でジュリアン以外の誰がする?
それでもジュリアン!と当ててもらうと嬉しそうな顔をしてる。
力が抜ける。
ジュリアンは、そんな風に、いつもみんなを笑わせ、リラックスさせ眼を輝かせていた。
おそらく、
家をでて、あてのない放浪を続けるために、
後天的に身につけたキャラクターだったのだろう。
グレーの瞳が、
その実、とても淋しがり屋なことを隠せなかった。
おかしな大阪弁を話す、ウェールズ出身のパンクロッカーのようなセカンドシェフ。
ジュリアンは、
日本のMUM、マリエさんのことを、とてもとても深く慕っていた。
※ ※ ※
もう一人、店には妖精がいたのだ。
「今日から、私のフェアリーが手伝ってくれることになったの。
無理かも知れないけど、恋しちゃダメよ」
いつものように茶目っ気たっぷりにマリエさんが予告をした。
サオリさんが姿を見せた時には、驚いた。
4つ年上のサオリさんのことは、中学の頃から見かけていた。
個人的にではない。
一人の観客として、ステージのサオリさんに眼を奪われたことがあったのだ。
フランス帰りの帰国子女で、
パリ・メゾンのコレクションでモデルをしたこともあるとか、
先輩達の間の噂だったから、どこまで本当かはわからなかった。
けれど、何頭身だろうと思うスラリとした肢体に白い肌、栗色がかって腰まで伸びた髪。
背筋を立たせた動きの一つひとつが、
どんな噂であれ、信じていいような気にさせた。
ボーカルとしては
囁くような、それでいて包み込むような声で魅了した。
特定のバンドに所属していたわけではない。
一度、友人の頼みでステージに立ってから、
いくつものバンドがサオリさんに声をかけたらしい。
高校生のフリをして覗きに行った学祭のステージの一つで、
先輩たちが夢中な理由を理解したのだった。
高校を出た後は短大に進み、
関西のモデル事務所と契約をしたとか、
仕事が増えて、東京に移ったのだとか。
やがて大手のファッション雑誌や、
テレビ画面で見かけることになるだろうとか、
そんな噂だけが交わされるようになっていた。
けれど、結局、誰も本当の彼女を追いかけていたわけではなかった。
サオリさんのお祖父様が、著名な日本画家で
マリエさんのお父様と懇意であったらしい。
マリエさんは、小さい時から可愛がっていたサオリさんのことを
当初から、彼女の計画に巻き込むつもりだった。
そういう訳で
伝説の妖精が、突然眼の前に現れたというわけだ。
マリエさんの忠告に従うまでもなく、
当時の自分には、とても恋などできる相手ではなかった。
ただ、少しでもその素顔に触れることが出来ればいい。
そんな風に思うまでで精一杯だった。
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