薔薇の女王と百合の姫

小津 悠理

第1話 薔薇の女王と百合の姫

 とある街のとある骨董屋。この骨董屋には願いを叶えると噂の人形がある。願いを叶えてほしい人を気まぐれに店主が人形と引き合わせ、人形がその人を気に入れば手を貸してもらえるのだという。そして今日も迷える客がやってきた。


「今度の願いは一体どんなものかしら?」



 カランカラン……。骨董屋『Garden』の扉が軽やかな音を立てて開く。それと同時に、ひとりの女性が入ってきた。


「いらっしゃい。何かお探しかな?」

「あ、その、ええっと……」


 店主に問われて、女性は困ったように視線を彷徨わせる。と、その視線が一点に釘付けになった。


「綺麗……」

「おや、その子が気に入ったのか」

「はい。こんなに綺麗なお人形さん、初めて見ました」


 その人形はカウンターにちょこんと座っていた。ぱっちりと開かれた青い目は澄み渡る空の色。金色に輝く髪は腰の辺りまでさらりと伸ばされ、赤い唇と薄く色づいた頬が暖かな雰囲気を醸し出す。艶のある天鵞絨でできた薔薇の模様の刺繍が施されたドレスを身に纏い、高貴な者であることを伺わせる。


「その子はロゼ。この店の看板娘さ」

「ロゼ……?」

「ああ。君も聞いたことはないかい? この店『Garden』の看板娘ロゼ。願いを叶えてくれるお人形だってね」


 いたずらっぽい表情をしてエリック……若き店主は女性にウインクを送る。その様子を見て、少し緊張が解けたように女性はふっと笑った。そして息をすうっと吸い込んで話を始めた。


「私はリリーと言います。この街で画家をやっています。このお店にはその……ロゼさんに、会いに来ました」

「へえ画家さんか。ロゼに会いに来たってことは何か願いがあるのかな?」


 そう聞かれて、リリーはきっぱりと首を横に振った。


「いえ、違います。願いは……あると言えばありますが、ロゼさんに叶えてもらおうとは思っていません」


 それを聞いてエリックは驚いた。ロゼに会いに来る客は、大抵欲でギラギラと濁った目をしてやってくる。彼女にはそれがない。珍しいこともあるものだ。そして問う。


「そうかい。ではリリー、教えてくれないか。願いを叶えてもらうためではないのに、何故ロゼに会いに来たんだい?」


 そこでリリーは強い決意を湛えた目をエリックに向け、口を開いた。


「実は今度、王宮に飾るための絵を選ぶコンクールがあるんです。王宮に絵を飾れることは、画家にとって最高の栄誉。本来なら、私みたいな名も無き画家にはとても手が届かない存在です……。けれど、せっかくチャンスが頂けたんです。精一杯やってみたい! それで街で話題のロゼさんに会えば、良いアイデアが閃くんじゃないかって……」


 そこまで一息に話して、リリーははっと恥ずかしそうな顔をした。


「ご、ごめんなさい! 長々話してしまって……」

「いや、気にすることはないよ。なるほど、アイデアを探しにうちまで来てくれたのか。それなら無碍に扱うのは可哀想だな。うん、きっとロゼも君に手を貸してくれるだろう」


 エリックの言葉を聞いてリリーはぱあっと顔をほころばせた。


「ほ、本当ですか! 願いを叶えてくれると噂の人形ロゼ……。こうして眺めているだけで、アイデアが湧きそうです!」


 それを聞いたエリックは口元に薄い笑みを浮かべる。


「……もし噂が本当で、ロゼは正真正銘願いを叶えてくれる特別な人形だと言ったら、君はどうする?」

「……え?」

「ロゼ。聞こえていただろう? この可愛らしいお嬢さんに手を貸してやってくれ」


 太陽が沈み、『Garden』に西日が射し込む。暮れゆく太陽はゆっくりと店内を茜色に染め上げた。 最初は僅かな変化だった。僅かだが、しかし確かに変化は起きた。願いを叶えると評判の人形は夕日に照らされ、そっとその目を瞬いた。


「……っ!」


 リリーは驚きに声を忘れた。

 その横でロゼはことりと首を傾げ、エリックを見、リリーを見た。そして膝を曲げて優雅にお辞儀する。


「こんにちは画家のお嬢さん。貴女の話は聞こえていたわ」


 目を見開くリリーに向かい、ロゼはにっこりと微笑む。


「わたくしは薔薇の女王ロゼ。さあ、貴女のお手伝いを致しましょう!」

「……え、えええええー!?」



 そしてしばらく後。


「落ち着いたかい?」

「……はい、取り乱してすみませんでした……。お恥ずかしいところを……」

「無理もないわね。目の前で人形が動いて話したら誰だって驚くわ」


 ロゼはそう言いながら紅茶をリリーに勧めた。


「エリックが淹れた紅茶は美味しいのよ」

「い、いただきます……」


 小さな両手に収まる小さなティーセットで紅茶を飲みながら、ロゼは話をし始めた。


「わたくしはいつもこの店にいて、訪れる人々を見守っているの。そして叶えたい願いがある人に、そっと手助けをしてやる。それがわたくしが存在する理由なのよ」


 そこでリリーの目を見て嬉しそうに微笑んだ。


「でもねリリー、貴女は特別だわ」

「私は特別……?」

「ええ。コンクールで一番にしてほしい、ではなくアイデアを求めにやってきた。ふふ、こんなことは初めてだわ! 喜んでお手伝いをさせてちょうだい」


 リリーは人形が喋るという異常事態に早くも慣れ始め、ロゼの言葉に真剣に耳を傾けていた。


「ありがとうございます……! で、では早速!」

「だあめ。今日はもう暗いわ。そうね、明日の夕方、またいらっしゃい。待っているから。エリック!」


 そこまで話して店の片付けを終えたエリックを呼ぶ。


「リリーを送って行きなさい。まさかうら若きお嬢さんにひとりで夜道を帰らせたりしないわよね?」

「ははっ、もちろんだ。美しいお嬢さんをひとりきりにするのは気が引けるよ。リリーは僕では不満かもしれないけどね」

「そ、そんなことないです……!」


 当の本人であるリリーは真っ赤になっている。


「ふふ、からかい過ぎたかしらね。リリー、ではまた明日」

「あ、はい! また明日!」


 そしてロゼを残し、リリーとエリックは店から出た。

 街灯と月明かりがあるとはいえ、薄暗い石畳の道を歩く。しばらくしたところでリリーが口を開いた。


「あ、あのえ、エリックさん……?」

「ん、なんだい?」

「エリックさんはロゼさんと長いお付き合いなんですか? その、怖いとか思ったことは……。あ、不躾にごめんなさい! 失礼ですよね……!」

「気にしないで。ロゼはね、僕の家に代々伝わる歴史ある人形なんだ。僕が物心つく頃にはもう動いて喋っていたから、怖いなんて思えない。大事な家族だよ」

「家族……」


 家族という言葉を反芻する。


「ああ。僕からもいいかい? リリーはどうして画家に?」

「私は……。祖母が画家で。一部では有名らしいのでもしかするとエリックさんも聞いたことがあるかも」

「へえ。お祖母さんの名前、聞いてもいいかい」

「マーガレットです。マーガレット・フローラ」

「マーガレット……。どこかで聞いたことがあるような」

「祖母の作品は結構数があるので、骨董市とかで目にしたのかもしれませんね」「いやもっと……そんな薄い印象じゃなくて、ずっと昔から知っていたような……。うーん、どこで見たんだったかな……」


 エリックはうんうん唸りながら考え込む。しばらく考えたが、やはり思い出せなかった。


「リリーすまない。思い出せないな……」

「気になさらないでください。何かのきっかけで思い出すかもしれませんし、祖母のことを知っている方に会えただけで嬉しいです」

「すまないね。思い出したら伝えるよ」

「はい」


 そうこうしているうちにリリーの住む古いアパートに到着した。


「送ってくださってありがとうございました」

「いや、気にしないで。じゃあまた明日」

「はい、おやすみなさい」


 リリーは玄関ドアを開けつつ、エリックを見送った。その姿が見えなくなるとドアのなかに滑り込み、自分の部屋へと続く階段を上り始めた。年季の入った古い階段は足音が響く。そうして辿り着いた自分の部屋のベッドにリリーは沈みこんだ。


「今日はすごい1日だった……。おばあちゃん、私頑張るから。見ててね……」


 リリーはことんと眠りに落ちた。



 翌朝、朝日で目覚めたリリーはぐっと伸びをした。軽く身体をほぐし、スケッチブックを手に取る。ページを開くとカリカリと鉛筆を走らせ、下描きをする。絵筆をとる。色を下描きに乗せていく。そうして描き上がった絵は、昨日見たロゼの姿だった。目はいきいきと輝き、色づいた頬は生気を感じさせる。しかしリリーは首を傾げ、納得がいっていないようだった。


「違う……ロゼさんはもっときれいだった」


 そう言って、ぐしゃりと紙を握り潰した。紙をくずかごに放り込むと同時にぎゅるりと腹の虫が鳴いた。


「……はあ。ご飯食べよう」


 画材を片付け、キッチンに立つ。手早くパンとオムレツ、サラダ、牛乳を準備し、さっと食べる。


「いただきます」


 食べ終えると皿を洗い、片付けて着替える。画材と絵を使い古した鞄に詰め込んで、家を出る。石畳の道を軽快とは言い難い歩調で歩き出した。

 しばらく歩き続けて、街に着く。

 今日は月に一度の市場が行われている日で、人でごった返していた。今日はこの市場で絵を描いて出店することになっていた。市場の管理人に出店料を払い、あらかじめ決められていた場所に陣取る。リリーの取った場所は程よく日当たりの良い角の場所だ。支度をしながら隣の出店者に挨拶をする。


「おはようございます、リリー・フローラです。今日はよろしくお願いします」

「やあ。よろしくリリー? 昨日ぶりだね」


 その言葉を聞いてリリーははっと相手の顔を見る。


「エリックさん!」

「君の隣の場所、うちの店の出店場所なんだ。偶然だね」

「えっ、そうなんですか!」

「うん、そんな訳で今日はよろしくね」


 そうして市場が始まると、何人かのお客さんがリリーとエリックの前を通り過ぎて行く。興味深そうに覗きこんではいくものの、買ってくれそうな素振りはない。


「なかなか売れませんね……」

「そうだね……」


 なんて話していると、ひとりの老婦人がリリーの前で足を止めた。お付きを連れて、品の良い服装をしている。


「あら? この絵……」


 そう呟いたきり、絵を見つめて動かなくなってしまった。


「あ、あの」


 リリーがおずおずと声をかけると老婦人ははっと目を瞬いた。


「ごめんなさいね、絵のタッチに見覚えがあったものだから……。この絵は貴方が?」

「はい、ここにあるのは全部私が描いたものです」

「まあそう。素敵ねえ。ねえ貴方、もしかしてマーガレットという画家を知っている?」


 リリーは固まった。こんなところで祖母の名前を聞けるとは! 


「マーガレットは私の祖母です……!!」

「まあ。まあまあまあ! そう、貴方がマーガレットの自慢のお孫さん! お名前を教えてくれるかしら」

「リリー・フローラと申します。失礼ですが祖母とはどういったご関係で……」


 緊張して声が掠れた。


「わたしはマーガレットの古くからの友人よ」

「おばあちゃんのお友達……。あの、ご婦人から見ておばあちゃんはどんな人でしたか? 私はすごく可愛いがってもらったけれど、おばあちゃんは自分のことをあまり話さない人だったから……」

「うーん、そうね。あたたかな人だったわ。お喋りが上手だったり華やかだったりするわけじゃないけれど、そこにいるだけで周りの人を明るい気分にしてくれる人だった。それからすごく頑張り屋さんでね、絵に対しては一歩も譲らない頑固さもあって。本当に素敵な人だったわ」

「そうだったんですか……」


 優しげな眼差しで老婦人はリリーを見つめる。


「貴方、マーガレットの若い頃にそっくりよ。これからも頑張ってね」


 老婦人は微笑んで見つめていた一枚を買い、颯爽と去っていった。


「おばあちゃんに似てるなんて初めて言われました……」

「良かったね。優しそうな方だった」


 そう話している間に市場の終了時間が来た。結局リリーの絵は老婦人が買っていった一枚以外売れなかったけれど、リリーは不思議な充足感で満ち足りていた。


「リリー、ちょうど夕方だ。良ければ夕食をご馳走するから、このまま店においで」

「えっ、でも」


 ご迷惑じゃ、と続けようとすると、そっと頬に手を添えられる。突然の行動に顔を真っ赤にすると、エリックが楽しそうに笑った。


「あんまり遅くなるとロゼが拗ねてしまうから。ね?」


 頷く以外の選択肢は無かった。



「ただいまー」


 closedの札を掛け直して、店内に入る。


「ロゼただいま。何処だい?」

「こんばんはロゼさん。お邪魔します」

「おかえりなさい。遅かったわね」


 カウンターの中からとてとてロゼが歩いてくる。


「リリーに夕食を食べていってもらおうと思って。いいかい?」

「もちろんよ。リリーいらっしゃい。案内するわ。悪いのだけれど、抱き上げてもらえるかしら」

「あ、はい」


 リリーの腕に抱かれ、ロゼはこっちよと声をかけながら先導する。

 招かれたリビングは、質素だが品のいい家具でまとめられていた。


「お店も素敵ですけど、お家も素敵ですね」

「ふふ、でしょう?」


 得意気にロゼが笑う。


「実はね、この調度品は全部エリックが見立てたものなのよ」

「エリックさんが?」


 そこへ皿を重ねて持ったエリックがやって来る。


「恥ずかしいからやめてくれないか……」

「あらいいじゃない。可愛い可愛いわたくしの坊を自慢して悪いかしら?」

「その坊ってのやめてくれ……もう子どもじゃないんだよ……」


 楽しげなロゼと対照的に、エリックは恥ずかしそうだ。


「夕飯できたよ。あんまりからかうとロゼにはあげないからね?」

「それは困るわね」


 温かい具だくさんのスープと、焼きたてのパン。彩りの良い野菜のサラダ。それに鶏肉のソテー。ボリュームたっぷりの食卓に、リリーは目を白黒させた。


「美味しそうですけどすごい量ですね……?」


 そしてはっとした。


「私、何にもお手伝いしてないですね! ごめんなさい!」

「いや、気にすることはないよ。リリーはお客様だからね」

「でも……」


 食い下がるリリーにロゼが声をかける。


「では紅茶を淹れてくれないかしら?」

「分かりました!」


 エリックからポットを借りて、茶葉を入れる。お湯をそっと注ぎ入れるとお湯は鮮やかな色に色づいた。


「じゃあ食べようか」


 食卓を三人で囲み、いただきますと手を合わせて食べ始める。


「わ、美味しい! 昨日頂いた紅茶も美味しかったですし、エリックさんって料理上手なんですね」

「そんなんじゃないよ。両親が早くに亡くなってしまって、必要になったから覚えただけ。全部自己流だしね」

「あの、私失礼なことを」

「ああ、気にしないでいいよ。ロゼがいたから寂しくなかったし」


 そこでロゼが口を開く。


「湿っぽい話はおしまい。ところでリリー、貴女星は好き?」


 リリーは首を傾げる。


「星ですか? 好きですよ。でも、どうしてですか?」

「貴女を夜空に連れて行くからよ」

「え?」


 思わずきょとんとする。


「どういうことですか?」

「それはあとのお楽しみ」


 いたずらっぽい表情をその美しい顔に浮かべたロゼは、それ以上は話してくれそうも無かった。代わりにエリックがリリーに向き合う。


「昨日の帰り、おばあ様の名前を知っているという話をしたと思うんだけど」

「はい」

「家に戻って探してみて見つけたんだ。僕は昔、おばあ様の絵をこの家で見ていた」

「えっ!?」

「僕の父が買い付けていた。ずっと大切にしていて、父の書斎に掛かっていたのを思い出したんだ。父が亡くなったあと、父のものは仕舞いこまれていたんだけど、見つけてきたよ」


 そう言って、食べ終えた食器をキッチンに持って行き、リビングに立てかけてあった布に包まれた絵をリリーに見せた。リリーは震える指で布を解く。絵の全容が見えた瞬間に、その目には涙がいっぱいに浮かんだ。


「間違いありません……。祖母の絵です」


 愛おしげに絵に手を滑らせる。祖母の息遣いを感じるように。そこに秘められた想いを受け取るように。


「ありがとうございます、祖母の存在を思い出せました」


 そう言ってエリックにそっと絵を返す。


「いいのかい? 君にこの絵は返そうと思っていたのだけれど」


 その言葉を聞いて一瞬悩む素振りを見せたリリーだったが、結局ゆっくりと首を振る。


「いいんです。祖母が……祖母の絵が愛されているならそれで。大事にしてくれている人がいたという事実だけで充分です」

「そうかい。じゃあ、これからは僕が大事にするよ」

「はい。よろしくお願いします」

「良かったわね、リリー。それにしてもすごい偶然もあったものね。いや、この場合運命かしら」


 ロゼはそう言って食卓の椅子から降りた。そして小さな足で歩き出す。


「さてそれじゃ、食後のデザートといきましょうか。エリック、あれを出してちょうだい」

「分かった」


 エリックがロゼに指示されたものを取りに行く。女王の風格を纏った人形は、静かにエリックが帰ってくるのを待っていた。


「これだね」


 戻ってきたエリックがその手に持っていたのは、両手にすっぽり収まるくらいの大きさの、黒い球体だった。


「それは?」


 涙を拭ったリリーが興味深そうに覗き込む。


「プラネタリウムというものよ。これを暗い部屋でつけると、部屋いっぱいに星空が映し出されるの」

「へええ……! 素敵ですね!」

「でも。これはひと味違うのよ」


 ロゼがリリーをしゃがませて、その手を握る。


「じゃあ行ってくるわ。エリックお留守番よろしくね」

「ああ。いってらっしゃい」

「え? 今からどこかへ行くんですか?」


 とびきりの笑みを魅せて、ロゼは高らかに告げる。


「さあ、今宵の行き先は星空の世界!」


 その声がリビングに響いた直後、ロゼとリリーの姿は掻き消えた。



 ぽかりと黒よりも黒い闇が口を開けている。そのなかに見えるのは、煌めく無数の星々。ロゼと手を繋いだリリーは、宙のなかに浮かんでいた。


「どうかしら?」


 ロゼがリリーに問いかける。


「何が一体どうなって……っ!? う、浮いてる……!」


 慌てるリリーの手を、ロゼは心持ち強めに握った。


 「落ち着いて。ここはあのプラネタリウムを媒介にして存在している虚構の世界。ここの支配者はわたくしだから、どんなことだって思いのままよ」


 リリーはふっと落ち着いた。そうだ、私の隣にはこの美しい人形がいる。何をじたばたすることがあったのだろう。深呼吸をして、周りをぐるっと見回した。

 天文台で望遠鏡を覗いたような世界が広がっている。遥か眼下には、夕食のときに自分が淹れた紅茶のような赤い星雲。傍らには星よりも輝く青い眼差し。

 何だかこの世界に存在する全てに深く魅入られてしまって、リリーは動けなくなった。それを察したロゼは握ったままの手を軽く引く。


「少し歩きましょうか」


 歩く、といっても踏みしめる地面がない。けれど、綿菓子でも敷き詰めているかのようにふわりふわりとロゼは歩く。

 本来ロゼとリリーの間には埋めきれない身長差があるのだが、浮いているからそんなことは関係ない。崩れそうでもあり、安定しているようでもある見えない足場を、リリーはそっと歩き出した。


「綺麗ですね……」


 あそこに見える大きな輪は土星の輪だろうか。その少し奥の大きな茶色い縞柄の星はきっと木星だ。遠くであかあかと燃えているのは太陽だと、見たこともないのにリリーは直感した。


「綺麗でしょう? 目をよく開いてその目に焼き付けなさい。この経験はきっと貴女の糧になる」


 ロゼは優しい声で語りかける。


「視覚的な美しさだけではなく、星々の歴史、気配、そういったものを感じとって。貴女ならできる。わたくしは信じている」


 ロゼの声を聞いて、リリーの目から堪えきれない涙が零れた。


「そんなすごいことできません……。私には、分かりません……」

「どうして?」


 問われて、リリーはぽつりぽつりと本音を口にし始めた。


「ずっとスランプなんです……。思った通りの絵が描けないし、そもそもアイデアが浮かばなくて……。気分転換してみたり、いろんな人の話を聞いてみたりしました。でもダメだったんです」


 読書をしたり、音楽を聞いたり。近所の人と話してみたり、最終的には絵に関する全てのものを、部屋の奥深くに隠したり。もがいてもがいて、それでもダメで。コンクールの締め切りは刻一刻と近づいてくる。八方手を尽くして、そうして手に入れたのが願いを叶えると評判の人形の噂だった。


「お店でロゼさんとエリックさんに言ったことは本当です。こんな不思議なことができるロゼさんの力を使えば、確かにコンクールで優勝するのは簡単でしょう。でも、それは自分の実力じゃない。そんな曲がった方法を使ってまで、優勝したくはなかった。でも、このコンクールが私にとって一世一代のチャンスなのも確かで。とりあえず会いに行ってみて、それからどうするか決めよう、そう思ったんです」

「どうするかって?」

「コンクールの参加を、諦めるかどうか」


 そこまで話してしまって、リリーは止まらない涙をどうすればいいのか困った。


「好きなだけお泣きなさい。気の済むまでね。けれどわたくしの昔話に少し付き合ってくれる?」


 ロゼはリリーの隣で話し始めた。


「わたくしが作られたのは今からざっと三百年くらい前になるわ。腕のいい人形師でね。大事に大事に作ってくれた。あんまりにも大事に作るものだから、うっかり自我まで芽生えてしまったのだけどね。しばらくその人形師のもとにいたのだけど、ある日わたくしを買うと言った人が現れた。それがエリックの先祖なの」


 昔を懐かしむようにロゼは柔らかく微笑む。


「最初はお父様……人形師は渋っていたわ。そうよね、歩いて笑って話す人形なんて人には見せられない。でもあんまりにも熱心に頼み込むものだから、わたくしがその人に興味が出てしまったのよ。だからその人の前で挨拶したの。ごきげんよう、わたくしはただの人形ではないのだけれどそれでも買うの、ってね」

「それで……。その方はどうしたんですか」


 いつの間にかリリーは泣くのを止めてロゼの話に聞き入っていた。


「ええ、それはそれは驚いていたわ。でもそのあとどうしたと思う? わたくしに挨拶を返してくれたのよ! こんにちはお嬢さん、素敵な笑顔ですねって! それが嬉しくて、わたくしはこの人に買われようと思ったわ。わたくしからも作ってもらった人形師に頼み込んでその人に買ってもらったわ。父同然の人のもとを離れるのは寂しかったけれど、仕舞いこまれて、誰にも知られずに朽ちていくよりずっといい。この人ならきっと大事にしてくれると思えたから、わたくしは買われたの。まさか三百年間大事にしてくれるとは思っていなかったけれどね!」


 うふふと楽しそうに笑う。


「その人は毎日話しかけてくれた。その人の家族は誰もわたくしのことを気味悪がったりしなかったし、雑に扱うことも無かった。子どもたちもわたくしにその日あったことを報告してくれたり、野原でわたくしのために花冠を編んでくれたりしてね。そうしてまるで家族のように扱われてここまで過ごしてきたの」

「そうなんですか……。素敵な家族だったんですね」

「ええ。昔から骨董屋さんだったから、わたくしにも商品を見せてくれてね。そうして目利きの真似事をしていろいろな品物に接しているうちに、自分のなかに不思議な力が眠っていることに気づいたわ。それは、古くて大事にされた物を媒介に、世界を作り出す力。リリーはさっき、わたくしの力があればコンクールでの優勝なんて簡単だって言ったけれど、そんなことはないの。だってそんな力はないもの」

「えっ!? じゃあ噂は嘘なんですか……?」


 リリーは驚いた。リリーの顔を見ながら、ロゼは首を横に振る。さらさらと金の髪が流れる。


「完璧に嘘、という訳ではないわ。わたくしの他にも、自我を持つものはいる。そのなかには、願いを叶える力を持つものもいるわ。だから、わたくしの手には余る、と判断した願いは叶えてあげられそうなものに任せるの。例えば、病を治してほしいという願いを叶える術をわたくしは持たないけれど、医療に携わる自我を持つ道具なら叶えてあげられる。そういうふうに分担しているの。わたくしは偶然が重なって有名になってしまっただけ」

「なるほど、そうだったんですね」

「貴女は願いを叶えてほしいって言わなかったから気になって、ついさっさと正体を明かしてしまったけれど。いつもはもっと、用心深いのよ? あら。ねえリリー、下を見てご覧なさい」

「下? あ、わあっ……!」


 ロゼが下を指差すと、がらっと景色が変わり、視界を埋め尽くす程の星々が輝く。そこは天の川のなかだった。これから先、一生出会うことのない絶景にリリーは言葉を失った。この宙のなかでは、自分がいかにちっぽけか思い知らされているようで。


「貴女の存在は、この星々に似ているわ。あまり目立たないけれど、きらきらと輝いていて、その輝きは誰かを喜ばせることもある。ときには影に隠れることもあるでしょう。けれど、必ずまたその姿を現す。そういう星に、貴女は似ている」


 そう言われて、リリーはやっぱり涙が出た。そしてこの美しく優しい人形を自分の絵に収めたいと思った。……絵を描きたいと思った。

 涙を流して震える背中をロゼはそっと撫でた。その手が余りに優しくて、冷たい人形にも関わらず、温かな温度を宿しているようにリリーには思えた。


「さて、帰りましょうか」


 手を繋ぎ直して、滲んだ視界で宙を見る。その輝きをしっかり目と心に刻み込んで、リリーとロゼは星空をあとにした。



 消えたときと同じく、突然にもとの景色が帰ってくる。


「おかえり。どうだった?」


 エリックが迎える。そしてリリーの顔を見て、慌てた表情をした。


「ちょっと待って、タオルを取ってくるよ」


 泣き腫らした目元に気づいたらしい。 


「すみません。大丈夫です」


 そう言うリリーの目は真っ赤に腫れてはいるものの、迷子のような揺れる眼差しではなく、道を決めた者独特の、据わった眼差しに変わっていた。


「もう大丈夫そうね」


 ロゼが笑う。


「はい。今なら良い絵が描ける気がします」


 リリーも笑う。


「今すぐ絵を描きたくてたまりません……! 今日はありがとうございました。帰ります!」


 きらきらと目を輝かせ、絵筆と紙を与えたら今すぐにでも描き始めようとしそうなリリーの様子に、ロゼとタオルを持って戻ってきたエリックは顔を見合わせる。


「そうね。その気持ちが薄れないうちに行動に移したほうがいい。エリック、送っていきなさい」

「ああ。行こうか」

「はい。ロゼさんありがとうございました!」


 ロゼにぺこりと頭を下げて、リリーはリビングを出た。

 帰り道を歩く間、リリーはずっと話していた。星々を目にしたこと。ロゼの過去を聞いたこと。自分が星に似ていると言われたこと。そして、絵を描きたいと思ったこと。そうして気づくと、いつの間にやら自宅に着いていた。送ってくれたエリックに礼を言い、部屋に戻る。

 服を汚してもいいものに着替えると、畳んでいたイーゼルを開く。イーゼルにキャンバスを立てかけて、思いつくままに書き殴る。気がつくとリリーの顔には楽しそうな笑顔が浮かんでいた。結局その日は朝が来るまで絵を描いた。スランプはどこかへ飛んでいった。

 少しの仮眠を取ったあと、街の画材屋に出掛けて、質の良い紙を買う。コンクール用の絵を描いてしまおうと思った。泣いてすっきりした頭は冴え渡っていて、今ならどんな絵でも描ける。これから描く一枚は、自分にとって大事な絵になることをリリーは予感していた。

 屋台でサンドイッチを買い、食べながら家に帰る。部屋に着くなり食べ終えたサンドイッチの包み紙をくしゃりと丸めて部屋のくずかごに放り投げると、スケッチブックを膝の上に広げ、構図を決め始める。それが終わるとキャンバスに鉛筆を走らせ、細かな模様を描く。そして絵の具をたっぷり絞ったパレットを手に取ると、繊細な手つきで色を乗せた筆を滑らせた。白と黒だけだったキャンバスが次第に色鮮やかになっていく。色が混ざり合わないように細心の注意を払いながら少しずつ少しずつ塗り重ねる。ゆっくりと絵はその姿を現していった。

 そんな調子で二日経ち、三日経ち……。あっという間に一週間が過ぎ去った。


「出来た……」


 リリーの視界には、散らかった部屋も、絵の具で汚れた自分の姿も映っていない。彼女が視線を注ぐのは、たった今描き上がったばかりの最高傑作だ。


「はああああ」


 盛大にため息を吐き出すと、リリーはその場に崩れ落ちた。そのため息には無事に絵が描き上がったことの喜びと、コンクールの締め切りに間に合った安堵と、自分を励ましてくれたロゼやエリックや市場で会った老婦人への感謝など、様々な思いが込められていた。


「ロゼさんたちに見せよう」


 むくりと身体を起こすと、ぐうと腹が鳴った。この一週間まともに食事を摂っていなかったので、それはそれは大きな音が鳴った。ひとり赤面すると、適当にパンを引っ張り出して食べる。食べ終えるととっちらかった部屋を簡単に片付け、シャワーを浴びて、汗と絵の具でべとべとだった身体を洗い流す。身支度を整えている間に乾いた絵を包み、『Garden』へと向かう。市場に行ったときとは全然違う、爽やかな達成感に思わず足音も軽くなる。


「こんにちは!」


 店に着くとエリックが優しい笑顔で出迎えてくれた。


「いらっしゃい。最近顔を出してくれなかったから心配していたんだけど。すごく晴れやかな表情をしているね。ってことは、絵は描けたんだね?」

「はい! これから王宮に絵を提出しに行くんですが、コンクールに出す前にどうしてもロゼさんとエリックさんに見ていただきたくて」


 そう言って鞄から絵を取り出す。


「僕たちが一番でいいのかい」

「もちろんです! あ、でもこんな昼間じゃロゼさんには見せられないかな……」


 人前でロゼが動き出したら一大事になることに思い至り、はっとする。


「それなら大丈夫だよ」


 エリックは玄関に出ると、openの札を引っくり返してclosedの状態にする。それが済むと店のなかに戻って来て、カーテンを全て閉める。


「これでよし。これならロゼが動いたって誰にもばれないよ」

「そうね」


 声がしたほうを見ると、カウンターに座っていたロゼが立ち上がっていた。

「ロゼさん!」

「お疲れ様リリー。よく頑張ったわ。さあ、貴女の絵を見せて」

「はい!」


 カウンターに絵の包みを置いたリリーを囲むように集まる。しゅるっと包みが解けると、ロゼとエリックは思わず目を見張った。

 そこには花が咲いていた。ぱっと見ると藍色の大輪の花に見える。しかし、少し近付いて見るとそれは宇宙の欠片だった。細やかな模様が幾重にも重なり合い、複雑な柄を生み出している。口で説明するのは難しい、繊細かつ大胆な絵だった。


「……こ、れは……」


 たっぷり一分沈黙してから喉の奥から声を絞り出すのが、エリックにとっての精一杯だった。


「素晴らしい……。素晴らしいわ! わたくし、こんなに美しい絵は見たことがない!」


 ロゼはその目をきらきらと輝かせ、食い入るように絵を見つめている。


「褒めすぎですよ……。ちょっと恥ずかしいです」


 顔を真っ赤にして、リリーが照れる。


「そんなことないわ。自信を持ちなさい。この絵なら、きっとコンクールに優勝できる。堂々と出してきなさい」


 ロゼがぎゅっとリリーの手を握る。


「さあ、行ってらっしゃい」



「よろしくお願いします」

「うむ、確かに受け取った」


 王宮の門には、ずらりと画家たちが集まっていた。並んで自分の順番を待ち、無事に絵を衛兵に渡せた。と、そこへ大きな声が響き渡る。 


「静粛に!」


 他の兵たちよりも階級が上そうな男が現れて、高らかに告げる。


「このコンクールの合否は以下の通りの手順で行う! まず第一審査として、王宮に勤める者達で投票をして、全ての絵を五枚まで絞る。その後第二審査として国王陛下や王妃殿下が直々に絵をご覧になり、王宮に飾る絵を描く王宮画家をひとり決める」


 ざわめきが辺りに広まる。この国で一番偉い人に見てもらうためには、まずは勤めている人たちに気に入ってもらわないといけない。しかしもしその五枚に選ばれなかったら? その者はそこで終わりだ。またチャンスを待たなくてはいけない。


「静粛に! 静粛に!! 話はまだ終わっていない! えー、第一審査を通過した者たちの名は、二週間後の正午にここで発表する! そのあとは名前の書かれた紙を張りだすので、きちんと自分の目で確認し、選ばれた者はその日のうちに門番に名乗り出ること! もしも名乗り出なかった場合、合格資格は剥奪とする! 以上である!」


 さっきよりも大きくなったざわめきを残して、その場はお開きとなった。

 どきどきしたまま二週間を待つのはなかなかに苦痛だった。リリーは日に最低二度は第一審査に受かったのに名乗り出られずに合格資格を剥奪される夢を見た。時折Gardenに顔を出してはエリックに心配されるということを繰り返し、ついに約束の二週間後がやってきた。 


「ど、どうしましょう……。もし名前が無かったら私はここで終わりなんですよね……」


 がたがたと震えながら店のカウンターでエリックの淹れた紅茶を啜る。現在時刻は十時。あと二時間が、リリーには永遠にも思えた。


「大丈夫……ではなさそうだね」


 苦笑いして、エリックは紅茶を自分のカップにも注ぐ。


「落ち着いてリリー。君の絵はとても素敵だった。きっと選ばれているよ」


 今は店に他の客がいるので、ロゼはカウンターで動かないままだ。


「で、でも……! 不安です、次の機会がいつになるかも分からないのに」

「今回受かればいいだけだよ。ロゼだって君を応援してる。自信を持って」


 エリックはロゼの腕をとり、ぱたぱたと軽く動かす。


「ほら、頑張ってリリー。わたくしも応援しているわっ」


 ロゼを抱え、裏声で喋るエリックに思わず緊張感を失った。


「ふふ、そうですね。描いた私が自信を持たなきゃいけないですよね! 何だか元気が出てきました。ありがとうございますエリックさん」


 そこまで笑顔でエリックに向けて言うとそっとかがみ込み、ロゼと視線を合わせる。


「ロゼさんもありがとうございます」


小声で囁いた。


「じゃあそろそろ行ってきます。怖いけど、もし合格資格剥奪なんてことになったら嫌ですし」

「うん、いってらっしゃい」


 エリック(とロゼ)に送り出されてリリーは王宮へと向かう。しばらく歩いていくと、同じ方向に歩いていく人が大勢いる。皆自分の絵が選ばれることを信じ、期待し、正午の発表を待っている。

 しばらくしてゴーンゴーンと正午を知らせる鐘が鳴り響く。それと同時に王宮の中からこの間の兵士が出てくる。


「それでは第一審査を通過した五人を発表する!」


 辺りはしいんと静まり返った。


「それでは一人目! アカネ・ヒバリ!」


 やったあと後ろのほうで小さく歓声が聞こえる。


「二人目! シュー・ノギク! 三人目! ヒマリ・サンフラウ!」


 二人目、三人目が発表され、残りは二枠。ぎゅっと固く目を瞑り、手に力を込める。

 どうか、どうか選ばれますように! 


「四人目! ジゼル・フジ!」


 四人目が呼ばれ、それでもリリーは諦めていなかった。次に名前が呼ばれなければ、道は閉ざされる。心のなかでついロゼを呼んだとき、奇跡は起きた。


「五人目! リリー・フローラ!」


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 呼ばれた? 本当に? 

 混乱した頭が落ち着くと、ようやくことを飲み込めた。リリーの様子を見て、合格者だと気づいた周りの人々がおめでとうと声をかけてくれたり、肩を軽く叩いたりする。リリーはその人混みのなかを覚束無い足取りで門番の下まで進み出て、合格証明書を貰う。


「では解散! 合格者には追って連絡する!」


 ばらばらと人々が帰っていく。リリーはしばらくぼうっとしていたが、ふと正気に戻るとロゼとエリックに報告するためにGardenへと走り出した。 店のドアを開けると、息せき切って駆け込む。


「リリー! 合格発表はどうだった!?」


 エリックが座っていた椅子から立ち上がり、入り口に立っているリリーに近づく。肩で息をして、両手を膝についたリリーは話すことも難しそうだったが、深呼吸をひとつするとばっと顔を上げた。


「う、受かりました!」

「本当に!? やったじゃないか!」


 エリックがまるで自分のことのように喜ぶ。気づけば窓からは西日が射し込み、初めてこの店に来たときのようだった。


「よく頑張ったわ。もうひと踏ん張りね」


 声のする方に振り向くとロゼがにこにこ笑っていた。ドレスの裾が太陽の光を反射してこの世のものとは思えない美しさだ。


「あの絵はすごく惹き付けられるものがあったわ。選ばれて当然ね」


 ふふん、とふんぞり返ってロゼが言う。


「あとは第二審査ね。王族の方々の目には、リリーの絵はどう映るのかしら。第二審査について何か聞いている?」

「追って連絡する、とは言われたんですけど詳しいことは何も」

「そう。とにかく今日はおめでとう。第二審査もきっと大丈夫よ」

「はい! ありがとうございます!」


 輝く笑顔を浮かべ、リリーは弾む足取りで家に帰った。



 次の日、昼頃にそれはやってきた。


「リリー・フローラ殿はいらっしゃるか」

「はい、私です」


 王宮の役人がリリーのおんぼろアパートまで訪ねて来て、話をしていく。


「第二審査について、説明に参った。リリー・フローラ殿を含めた五人の合格者は、明日国王陛下の皆様が絵を選ぶ場に同席していただく。そして陛下方が何か絵について問われた場合はその質問に答えていただく。合否はその場で決まる。王宮までは朝迎えの馬車を寄越そう。服装は特に着飾らず、いつも通りで結構だ。何か質問はあるだろうか」

「あ、ありません。よろしくお願いします」

「うむ。それでは失礼する」


 確認事項を並べ立てると、風のような早さで役人は帰っていった。


「いよいよ明日決まるんだ……。緊張する」


 リリーはどきどきと高鳴る心臓を押さえて、その場にへたりこんだ。


「うん、きっと大丈夫」


 立ち上がると、キャンバスをイーゼルに立てかける。落ち着かない心を鎮めるために、何かしていないと不安だった。


「あ、そうだ」


 そう呟くとリリーの顔には笑顔が戻り、楽しそうにある絵を描き始めた。

 そして第二審査の朝がやってきた。昨日聞いた通り、リリーのアパートの前には大仰な馬車が停まっている。

 リリーが呆気に取られていると、御者が乗るように促す。乗り込んでがたごとと揺られているうちに、王宮のなかに入っていた。


「着きました。ご武運を」


 帽子を軽く上げて御者が挨拶してくれる。


「ありがとうございます」


 微笑んで歩き出す。王宮のなかで迷うかと思ったが、案内係の衛兵が待っていて、連れて行ってくれた。


「こちらです」


 部屋の扉を開いて、入るように言われる。


「は、はい」


 部屋には椅子が置かれていて、それぞれが描いた絵が布を被って部屋の中央に鎮座している。


「フローラ殿はこちらの席になります。合格者の皆様が揃うまでしばしお待ちを」「分かりました」


 リリーは早く着いたようで、一番乗りだった。しばらくそわそわしながら待っていると、残り四人が同じように案内係に付き添われて入ってきた。五人目が着席すると、衛兵が告げる。


「これから国王陛下、王妃殿下、皇太后殿下がいらっしゃいます。失礼の無いように」


 どきどきと鳴る心臓は落ち着く様子が無い。深呼吸を小さく繰り返していると、扉が開いた。

 厳かな様子で王族の三人が入ってくる。弾かれたようにリリーたちは立ち上がった。


「良い良い。座って楽にしてくれ」


 それを制するように国王が手を軽くひらひら振る。


「私たちも真剣に選ぶが、そんなに畏まらずとも良い」

「ええ。どうぞ座ってください」


 国王夫妻がにこやかにリリーたちに話しかける。


「し、失礼します」


 合格者たちはそっと椅子に座る。


「では絵を見せてもらおうか」


 国王たちもリリーたちの向かい側の椅子に腰掛ける。

 側に控えていた高位の役人が口を開く。


「それでは王宮画家候補の絵の審査を始めます。合格者の皆さんは自分の前にある絵に掛かっている布を取ってください」


 立ち上がり、布を取る。


「おお、これは……」

「どれもなんて美しいのでしょう」


 王妃がうっとりとため息を漏らす。


「さて、それでは順番に見ていこう。一番のアカネ・ヒバリ殿は、鳥の絵か。何を思ってこの絵を描いた?」

「はい、国王陛下。わたしは……」


 審査が始まり、一人目がどんな絵なのか国王たちに説明している。


「ふむ、なるほど。この絵はそのような願いが込められているのだな。どうもありがとう。次のシュー・ノギク殿は……。これはいったい何のモチーフだ?」


 二人目の説明が始まる。心臓の音は治まるどころかどんどん大きくなっていて、周りが話している声すら聞こえない。そうこうしているうちに、あっという間にリリーの番がきた。


「最後はリリー・フローラ殿だな。フローラ殿の絵は独特だなあ! 花のようで宇宙のようだ。この絵はどこから着想を得た?」

「あ……はい、この絵は……っ」


 喉がからからに乾いていて、上手く声が出ない。国王は苦笑いすると、優しく励ましてくれた。


「そんなに身構えてくれるな。話が聞きたいだけだ」


 それでも緊張が解けないリリーだったが、思わぬところから助け舟が出た。


「陛下。私にお話させてくださいな」

「母上」


 今まで沈黙していた皇太后がこちらに寄ってくる。


「リリーさん。お久しぶりね」


 そう言って優しく笑いかける。その顔にリリーは見覚えがあった。


「……あ! あなたは市場で私の絵を買ってくださった、おばあちゃんのお友達の……!」

「ええそうよ。あのときは素敵な絵を買わせてもらったわ。額縁に入れて部屋に飾っているのよ」

「そ、そんな……。光栄です!」

「さ、教えてちょうだい。この絵はどうやって思いついたの?」


 急かすことなくこちらを見つめてくる視線に安心した。ゆっくりと口を開く。


「この絵は……。私が悩んでいたときに、力を貸してくれた人をイメージして描いた絵です。その人は見た目も中身もすごく綺麗で、憧れなんです。その憧れを詰め込んで描きました。きらきらした憧れは、きっと王宮でも失われないと思ったので」

「そうなのね。題名は決まっているのかしら? 」

「はい。『憧れの花園』です」

「『憧れの花園』……。素敵ね。どうもありがとう」

「こ、こちらこそありがとうございます!」


 ぺこりと頭を下げる。


「さて、これで全員の話を聞けた。私たちは別室で話し合ってくるので、しばし待たれよ」


 国王たちがそう言って部屋から出ていく。へたん、とリリーは椅子に縋って崩れ落ちた。


「それではここでお待ちください」


 役人も出ていって、部屋には五人だけになる。誰も話さないし、動かない。異様な空気のまま、国王たちが戻ってくるのを待った。

 どれくらい時間が経っただろうか。国王たちが戻ってきた。


「お待たせした。王宮画家に私たちが選んだ人を発表しよう」


 そう言って国王は手に持っていた手紙を開く。


「発表する。私たちが王宮画家に選んだのは……。五番、リリー・フローラ殿!」「……え?」


 信じられなくて、つい声が漏れた。


「ほ、本当に……? 私が合格ですか……?」

「ええ。おめでとうリリーさん。これから王宮にあなたの絵が飾られると思うとわくわくするわね」


 皇太后が子どものようにはしゃぐ。それを見てやっと実感が湧いて、涙が溢れた。


「やったあ……。やったあ!」


 ぱちぱちと国王陛下、王妃殿下、役人、他の候補者から拍手が贈られる。


「おめでとうリリー・フローラ殿。君の絵を薦めたのは母上……。皇太后殿下だったが、実は満場一致の意見だったのだ」

「え?」

「他の四人の絵も美しく、素晴らしかったが、君の絵は目が離せないというか……ずっと見ていたくなるというか……。不思議な魅力を湛えていた」

「国王陛下もわたしも、あなたの絵が素敵ねと話していたのです。強く惹き付けられました」

「これからどうぞよろしくお願いしますね、リリーさん」


 にっこりと微笑んで、国王たちは去っていった。



 それから数日。街の画家、リリー・フローラが王宮画家に選ばれたことは、瞬く間に街中に知れ渡った。今まで見向きもされなかったリリーの絵は価値が跳ね上がり、飛ぶように売れた。コンクールに提出した作品『憧れの花園』は、皇太后の計らいによって街の広場に数日飾られた。それを見て、またリリーの絵が売れる。しばらくリリーはてんてこ舞いの日々を送った。それでも眠る時間を削り、リリーはある絵を描いていた。その絵が今日完成したので、これから届けに行くところだ。絵を綺麗な布に丁寧に包み、外に出る。向かう先は『Garden』だ。

 リリーが店に着くと、ちょうどエリックが看板の支度をしている。


「エリックさん!」

「リリーじゃないか!」


 きゃっきゃとふたりで騒ぐ。


「王宮画家になれたんだね。おめでとう」

「ありがとうございます。今度正式に任命式があるらしいので、良ければ来てくださいね」

「もちろんさ! 店を休んででも行くよ!」

「そこまでしなくてもいいですよ?」


 ふとエリックの背に隠されている店の扉に目を向けた。


「あの、ロゼさんは?」

「ああ、いつも通りカウンターにいるよ。行こうか」


 そう言ってエリックとリリーは開店前の店に入る。


「ロゼさん? リリーです」


 リリーの声にふるりと睫毛を震わせてロゼの大きな目が開く。


「いらっしゃいリリー。王宮画家のコンクール、優勝おめでとう」

「ありがとうございます!」

「今日はどうしたの? 自分の口で優勝を知らせに来ただけってわけではないでしょう?」


 リリーはぱちくりと目を瞬かせる。そのあと花が開くように笑うと、軽く頷いた。


「はい。今日は私のお願いを叶えてほしくてきました」

「……わたくしにはそんな力は無いと、話したはずだけど」

「分かっています。叶えてほしいお願いというのは、ロゼさんとエリックさんに私の描いた絵を受け取ってほしいということなんです」

「……え?」


 リリーは鞄から、二枚の絵を取り出す。


「これはロゼさんに。これはエリックさんに」


 布を解いてふたりに手渡す。ロゼは手に収まらないので、傍らに立てかける。


「すごいな」


 エリックがため息をつく。

 ロゼに渡した絵はぱっちりと開いた目、ほんのりと色づいた頬、赤い唇に、豊かな金髪。薔薇の刺繍をあしらった真紅のドレスを纏い、椅子に腰掛けるロゼの姿そのものだった。

 エリックの絵は『Garden』の内装だった。西日が射し込む店内に反射する骨董品たち。絵の奥にはカウンターに佇むエリックらしき人影が見える。


「私が優勝できたのは、励ましてくれたふたりのおかげなので。何とかしてお礼をしたいなって思ったんですけど、絵を描く以外に思いつかなくて」

「いいえ、充分過ぎるくらいよ。ありがとう、とても嬉しいわ」

「僕もだ。この店、こんなに素敵な場所だったんだなあ……。ありがとうリリー。大事にするよ」

「喜んでいただけて嬉しいです。それじゃ私王宮に呼ばれているので、そろそろ行きますね。またおふたりに会いに来てもいいですか?」


 リリーのその言葉に、ロゼとエリックは笑って答える。


「「もちろん!」」



 とある街のとある骨董屋。この店には、願いを叶えると噂の人形がある。最近は王宮画家に選ばれた娘が通っているらしい。あなたも何か願いがあるのなら、この店『Garden』の扉を開けてみるといい。美しい人形と優しい店主が出迎えてくれるだろう。

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薔薇の女王と百合の姫 小津 悠理 @Andalusia8

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