無悪意

平山芙蓉

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 車窓に映った自らの顔を見て溜息を吐く日々に、野々村優香の精神は疲弊しきっていた。彼女を運ぶ電車の中は、横座りのシートのほとんどが空席で、がらんとしている。左右に四対ほど並ぶ座席には、乗客各々の領域が暗黙のうちにあった。見方を変えればある意味でゲストハウスのような状態だ。壁際へ捨てられた人形のような恰好で寝る中年サラリーマンから、ロリータ風の服で着飾ったツインテールの女性まで、様々な人種が仄かに黄ばんだ照明の下で時間を共にしている。暖房が点けられているが、お世辞にも暖かいとは言えない。



 大学を卒業後、大学の友人たちに愚痴をこぼすほど、優香は実家の書店の跡継ぎになるのを嫌がっていた。周りからしてみれば、厳しい就職活動をせずとも、両親からノウハウを教われば、食い扶持を得られるので羨ましがられた。何度かそのまま跡を継げばいい、と説得されたものの、耳を貸さなかった。優香にしてみれば、年々減少傾向にある個人経営の書店は将来的な保障がないからだ。彼女の住む地域にも、昔は実家が経営する書店を含めて四店舗ほどあった。だが、今となってはもう彼女の両親が経営する書店しかない。もちろん、客足なんて呼べるほどあるはずもなく、閑古鳥が毎日のように鳴いている。唯一の救いは、週刊誌や月刊誌などの雑誌を一通り扱っているので、コンビニなどで買いそびれたおこぼれ客を呼び寄せられる程度だ。文庫本や多少の専門書などは棚で背表紙を向けたまま、半ば手に取られることを諦めたかのようにじっとしている。未来のない書店で、いつか直面するであろう、生活に困窮する日を待ち続けるくらいなら、と三年に進級してから就職を決意し、今に至る。


 でも、やっぱりあの時、本屋を継ぐべきだったかな、と最近の彼女は些か後悔していた。窓の向こうの自分と真っ直ぐ目を合わせる。また、彼女は溜息を吐いてしまう。今日だけで何度目だろうか。堀の深い顔ではないのに、眼窩は深く翳っていた。げっそりと落ちた頬は、頬骨が丘のように突き出しており、てっぺんだけが車内の光を独り占めしている。気鬱な顔は実家の書店の書棚に並ぶ文庫本たちといい勝負だ。


 何も、入社してからずっと、こんな生活を送っていたわけではない。寧ろ、最終間近の電車に乗るのは飲み会くらいでしかなかった。入社してから一年半ほどは順調だったのだ。上司から任された仕事をてきぱきとこなし、営業先でいくつもの契約を取ってきた。営業部のみんなから良くできた新人が入ってきた、と期待と注目を浴びる毎日だった。その評価について彼女自身も自覚しており、重なっていく責任に、スリルから来る快感を覚えていた。別段、苦しくもなかった。逆に、自分には恵まれた才があったのだ、という喜びを犇々と噛みしめていた。最初は彼女の就職に反対気味で、早く辞めないかとすら思っていた両親も、楽しそうに仕事の話をする娘を見ているうちに、すっかり心変わりしてしまった。


 徐に速度を落とす列車に合わせて、脱力したほとんどの乗客が傾く。もちろん、優香も例外ではない。まるで乗客それぞれの進んでいる人生が、今どのくらいの調子なのかを表しているかのようだ。

 虚ろな絶望感が、優香の瞳の奥で澱んでいる。怒りや憎しみ、自身に降りかかる火の粉みたいな理不尽。彼女の生活が傾きだした原因は紛れもなく、暖かな春が過ぎ、初めての後輩も仕事ができるようになってきた秋の日のことだ。





 十月に入ってしばらくすると、中途採用の新人が営業部に配属された。前の会社が倒産したらしく、優香の勤める会社の中途採用の募集に応募し、めでたく採用された。しかしながら、その新人はかなりの訳ありだった。まず、優香よりも一回り以上年齢が離れている男性だった。部長を除いた部の平均年齢が、予期せぬ外れ値によって、ぐんと上がった。最初のうちは戸惑いこそあったものの、元々、中小企業で人手不足だったこともあり、注文をつけられる状況ではない。寧ろありがたく思わなければならなかった。

 優香の中に悩みの種がふと現れるのは、決まって男が入社した初日の姿ばかりだ。


『澤井隆司です。皆さんと頑張っていきたいと思っていますので、よろしくお願いします』


 オフィスに疎らな拍手が響いた。みんな社交辞令的な意味合いで手を叩いているだけで、誰も心から歓迎はしていない。それどころか、どこか小中学校の教師の着任式を彷彿とさせる挨拶に、朝からげんなりとしていた。こいつとこれから仕事をするのか、と。

 朝礼の際、営業部の面々は澤井隆司と紹介されたその男に生理的かつ、社会的な嫌悪感を覚えた。部長が紹介をしている間、頭からつま先まで、胸中を悟られないよう注意しながら値踏みしていた。もっとも、鈍感そうな澤井は全く意に介していない様子だったが。


 マッチ棒の先端みたく小さな頭と、そこにある顔は言い表し難い辛苦の表情を常に浮かべている。時折、笑うこともあるのだが、目を背けたくなるような作り笑いだった。鼻先から下は剃り残しの多い青髭のマスクに覆われており、唇だけは梅干しのような奇妙な艶を放っていた。着ている鼠色のスーツは草臥れているせいか、はたまた、痩せぎすの体格に合っていないせいか、服を着ているというよりは、マネキンに服を着せているかのように見えた。しかも、汚れが目立ちにくい(もっとも、既に汚れているようなものだが)色合いなのに、肩には粗塩程度の大きさのフケが散らばっているのが分かった。身体の中心から曲がったネクタイはいつも床のあらぬ方向を指している。靴も手入れの方法を知らないのか、擦り傷だらけで本来あるべき革の輝きなんてものはない。


 彼女は男の服装だけで、どうして人事はこんな人間を会社に受け入れたのか、と呆れた。もしも営業される側で、こういうだらしない容姿の営業員が来たのなら、たとい名誉棄損だと訴えたとしても、一歩も敷地を跨がせはしないだろう。人事に人を選んでくれと抗議しても構わないとさえ思っていた。

 それでもこれから一緒に働く社員なのだから、失礼極まりないことは考えるべきではない、と優香は自分を叱責した。綺麗ごとに過ぎないが、いい大人なのだ。それに、今のご時世は慎重に指導しなければ、パワハラだと言われかねない。優香はあるべき姿を胸に、自分の後輩となった澤井を、形だけでも認めることにした。




 駅に停車した揺れで、優香から見て斜向かいのシートに座るサラリーマンが、肩を飛び上がらせて起きた。獲物を探す鳥のようにきょろきょろと車内を見渡す。どうやら降りる駅ではなかったのか、背もたれにまた身体を預けて、再びドアと同じタイミングで瞼を閉じてしまった。優香はその間抜けな姿に自然と澤井を重ねていた。腹の底が静かに煮える。植物っぽいねっとりとした動きで上がる口元が脳裏をかすめた。思わず、必死にかぶりを振って忘れようと努めた。

 あの時、優香の直感が訴えた澤井に対しての感想は、見事に命中してしまうこととなった。自らが下した全ての判断に対して、後悔するほどに。本当に人事にでも駆け込むべきだったのだ。そうすれば、この生活も少しはいい方向へと傾いたかもしれない。直感を信じずに、同じ部署で働く一員だと許したことが、不運の坩堝へ身を投じる羽目になったのだ。


 新人というものは、多少の才能の差はあれ、どこの組織に足を踏み入れても、指摘の連続を繰り返し成長していく。御多分に漏れず、優香やその同期たち、部長に至ってもそうだ。まずは組織のルール、方針を十分に叩き込まれ、理解できるまで指摘を繰り返される。澤井に関しても同じだった。彼は前に勤めていた企業でも営業をしていたらしい。そこのルールと優香たちの会社のものは、共通した部分があったとしても、完全に同じというわけではない。だからこそ、彼は慣れなくてはならなかった。しかし、専ら彼は倒産してしまった前の会社のルールにしがみついていた。書類の作り方、朝礼の時間、報告の方法、何に至るまでも自分の培ってきたルールを引き合いに出して、優香たちを困惑させた。『井の中の蛙大海を知らず』という言葉があるが、澤井に関しては、井戸の中から放り出されても、そこで得たものに固執していた。いや、ただ固執していただけではない。指摘というものを、彼は攻撃としてみなしていた。自らの育んだ経験が絶対的に正しいものでなければ、降ってくる槍から身を守るための盾にはならないと考えていた。

 当然のことながら、たったの一週間ももたないうちに、周りから距離を取られるようになった。そして、優香は同僚や上司からも憐みの感情に包まれることになる。なぜなら、彼女は澤井の教育担当に指名されたからだ。最初のうちは、できる限りちゃんと接そうと努力をしていた。これも経験だと、自分自身に言い聞かせていた。だが、彼女の心は、彼女が理解しているよりももっと早くのうちに、悲鳴を上げてしまうことになる。

 まず、澤井は端的に表現して、部の中で一番、仕事ができなかった。経験があるにしても、新人として入社してきたのであれば、慣れない環境のせいで多少のミスは誰にでもあるだろう。そんなことには鬼でもない限り目を瞑れる。だが、彼の場合は営業マン、いや、それ以前に社会人としてあるべきではない行動だった。取引先へあの汚らしい恰好で営業に出向き、時間には平気で遅れてたいした詫びもせず、見積書やら資料などは何度教えても穴だらけなのだ。前の会社でよくこの歳まで働けていたものだと、悪い意味で感心してしまった。そして、諸々の所業のしわ寄せは、上司となった優香の元へと行く。先方への謝罪への付き添い、見積書の指導、その他のミスに対しての注意。もちろん、これは全て自分がしなければならない仕事とは別にしなければならない。さらにその状況に追い打ちをかけたのは、澤井が入社してから三週間ほど経った時だった。


 秋に入ってから、仕事の量はどっと増え、彼女の体重はその分減った。優香が生来持つはずの優しさは、あの薄汚れたグレーのスーツのように草臥れていき、傍から見れば物腰が柔らかなのは変わらないが、次第に、それとなく毒を含む言葉を口にするようになった。春先に入社した後輩たちからの印象も、優しい物言いで人を誹る、怖い人と変化していた。そんな折、澤井は社内でお荷物と酷評の嵐を受けていたにも関わらず、定時で上がらせてくれと部長に頼んだ。理由を聞くと、彼には病床に臥せる母がいるらしく、身の回りの面倒などを看なくてはならなくなったらしい。部長はおろか、部内全員の眉間に深い皺を作らせる話だった。施設に入れるなり、ヘルパーを雇うなりして、どうにかならないかとも提案したが、金は持ち合わせていないとの一点張りで、聞く耳を持たなかった。

 誰も強く口出しのできない問題故に、提案を飲み込むしかなかった。営業部の業務は澤井の入社以前よりも膨大な量に膨れ上がってしまった。彼は自分のミスが優香たちに飛び火しようと、悠々とした態度で十七時のベルと共に帰っていく。仕事のできる人間であれば、多少は許されたに違いないのに。そんな生活がもうひと月以上は経った。鬱憤の溜まった部長がいつになったらお母様は良くなるのだ、と問うても、要領を得ない返事しかしない。彼はまさに、安全なところから利益だけを吸い取る、質の悪い寄生虫のような人間なのだ。人事も澤井の正体さえ知っていれば、採用など見送っていただろう。




 澤井は既にぐっすりと眠っている頃合いだろうか。それとも、まだ母の介護を遅くまで続けているのだろうか。どちらにしても、優香が家へ帰る頃には眠っているか、一休みきめているに違いない。だらしのなく、いちいち人の神経に障る男に静かな苛立ちを思い出して、呆然としていた優香は、自分が降りる駅の停車アナウンスで我に返った。空席へ放り出していたバッグを手にして、徐に速度を落とす電車のドアの前へ立つ。足元に車輪の振動を感じる。すっかり脚は棒になっていて、線路の継ぎ目の上を通った時の強い揺れだけで、転んでしまいそうだ。眠る夜の町を背景にした顔は、より濃い影が落ちていた。遠くまで広がる街灯や人の営みの証が申し訳程度の飾りつけの役割を担っているけれど、見慣れた優香にとっては感情が動く余地もない。時計は日付を跨ごうとしていた。彼女は二十四時間後も、寸分違わぬことを考えながら、このゆりかごに揺られているのかと思っても、痛みから逃げられないと悟った犬のように、もうぞっとしなくなっていた。


 青白い白熱灯に照らされた駅に着くと、早く降りろと言わんばかりに、ドアが開いた。しんと静まり返ったホームに吹く寒風が、優香を迎え入れる。降車する客は疎らで、女性客は彼女だけしかいない。踵がタイルの上を叩く音が空しく響く。改札の駅員室はシャッターが下りていて、人の気配はなかった。煌々と輝く駅はそれでいても廃墟のように、人工的な薄気味悪さが漂っている。改札を抜け、外へ出ると夜闇が広がっていた。街灯や民家から漏れる明かりは、どれも心もとない。優香がこの時間に帰りだした当初こそ、暴漢に襲われやしないかと、過敏になっていたが、もう気にしていない。慣れとは非常に良くできた、便利でいて非情なシステムだな、と疲労の溜まった頭の片隅で彼女は考えていた。とは思いつつも、本当に襲われては洒落にならない。なので、先ほど一緒に降りた幾人かの客が、自分の前を歩いていることを確かめて、家までずっと伸びる坂道を上りはじめた。


 前方を歩いていた人々は、すぐに散ってしまったり、遠くまで行ってしまったりで、徐々に人影はなくなってしまった。住宅街にはローファーの音だけがある。今晩はかなり寒い夜だ。優香はポケットから煙草とライターを取り出し一本、火を点けた。誕生日にもらったガスライターの炎が、悴んだ手の平に微かなものの温度を取り戻してくれた。数時間ぶりのニコチンが彼女の肺の中を満たしていく。この瞬間だけは至福のひと時なのだ。喫煙者が嫌われる世の中で、歩き煙草なんて言語道断だろう。優香も重々承知している。だが、こうでもしていないと、ストレスで引きちぎられてしまいそうになるのだ。こんな時間まで仕事をしていれば、土日は寝て過ごすだけになる。もうかれこれ数カ月は友人と遊びに行っていない。彼女にとっての頼れるストレス解消方法は、いつの間にか喫煙だけになっていた。当然、一時しのぎにすぎない。今にも水が溢れ出しそうなバケツの中から、スプーンで水を必死に汲み取っているようなものだ。


 火種はどんどん巻紙を燃やす。吸い込む度、自身の命を削るみたいに、ジリジリという音が立った。先端から伸びる煙は街灯に照らされ、夜の空によく映えている。残業で遅くなっても、煙に彩られる景色だけは意外と気に入っている。

 すっかり短くなると彼女は鞄の内ポケットにある、携帯灰皿を取り出そうとした。しかし、いつも入れてある内ポケットに姿はない。煙草を口に咥えたまま彼女は慌てた。街灯を頼りに、鞄の中をよくまさぐってみたが、見つからなかった。うっかり、どこかに忘れてしまったのだろうか。口の中で充満する煙を吐き出して、手に持つ煙草をどう処理するか彼女は考えあぐねた。ふと、足元に目を遣ると、煙草のフィルターがいくつか落ちていることに気付いた。ここに捨てようという考えが、脳裏を過ったが、優香はかぶりを振って、自分に駄目だと言い聞かせる。煙草を吸い始めてからこの方、歩き煙草はしても道端に捨てることはしなかった。歩きながら煙草を吸っているだけでも迷惑をかけているのに、ゴミまで生むとなれば、流石に気が引けたからだ。だが、この状況を他にどうにかする方法も思いつかなかった。近所にゴミ箱もないし、家まで持って帰るのも面倒だったからだ。一本くらいなら、捨てても大丈夫だ。いや、もし誰かに見つかったりしたら恥ずかしい思いをしてしまう。優香の心では二つの解の上を振り子が揺れている。


 葛藤の挙句、優香は道路の脇へと移動して、周囲の目がないことを用心深く確認してから、格子状の蓋のついた側溝へと煙草を投げた。本来の性格なら、ポイ捨てなんてしなかったはずだ。分別のある大人の取る行為ではないと、はっきりと理解している。だが、運悪く、自分は今日も頑張ったのだ。それに、きちんと悪いことをしていると自覚しているのだ。ならば、これくらいの小さな罪は許されるだろう、と考えてしまった。

 自身の良心が罪悪感に潰される前に逃げるため、立ち去ろうとした時、彼女の背後で鈍い音と共に、空気を震わせる野太い悲鳴が住宅街に響いた。全身の毛穴が開いたのが分かった。耳に届いた瞬間、優香は直感的に振り返らず走り出した。自分の股が開く限り全力で、勝手知ったる道を縦横に駆ける。混乱で整理がつかない。うっかり地獄の門でも開いてしまったかのような気分で、後ろから波のように迫る謎に対して、本能的な恐怖を抱いていた。ただ分かっているのは、脚が棒であろうが、すり減ってなくなろうが、とにかく走り続けるしかないということだけだ。止まるとどうにもならなくなる予感があった。依然として遠くから唸り声が聞こえてくる。逃げなければならないという意思だけが、彼女の身体を突き動かしていた。


 兎にも角にも、何とか自宅の前まで辿り着いた時分には、息も絶え絶えで、冬だというのにブラウスや下着は汗でじっとり湿っており、髪は寝起きよりも酷く乱れていた。玄関へ入るや否や鍵とチェーンロックをかけて、押し入ってくるものが来ないよう、身体をドアに背中を預けた。どこかで鳴いた猫の声にさえ、肩が跳ねる。久々の激しい運動のせいで覚束ない足取りのまま、二階の自室へと上がると、彼女は服を脱ぎ捨てて部屋着に着替え、奥歯を震わせながらベッドと布団の隙間へ潜った。筋肉の節々が痛んでいる。心臓は早鐘を打ち続けており、肺に穴でも空いたかのように息苦しい。喉も渇いていたが、台所へ行く気にさえなれない。ここ数カ月、溜まりに溜まった疲労が、先ほどの体験による嫌な興奮によって、どこかへと吹き飛ばされていた。あれは何だったのだろう。もしかして私のしたことを、誰かが監視していて、怒ったのだろうか。優香はとりとめのない妄想で、いっぱいになっていた。冷静に物事を考えられない。結局、優香は深く布団を被ったまま、朝日が昇り、鳥が鳴きはじめてもなお眠れなかった。


 翌朝(朝とは言っても、数時間後の話だが)、優香は至るところへ刺さる日光に気怠さを覚えながら、営業部にある自席に座っていた。徹夜明けの目で直視するパソコンの光は普段よりも眩しく感じられた。そんな様子の彼女を見た営業部のみんなは、思い思いに心配の声を掛けた。ただ一人、欠勤の澤井以外は。

 昨日まではいつも通りだったのにどうして、と不思議に思った。優香は部長に理由を聞いた。澤井は目を怪我したらしく、今朝がた電話をよこして、二三日は休ませてほしいと申し出たらしい。優香は表では心配そうな素振りを見せつつも、内心では小躍りをしたい気分だった。あの不愉快で不衛生な人間を、たった二三日とはいえ、視界に入れずに済むのだ。その事実だけで、優香は徹夜明けグロッキーだったはずの身体が、心なしか軽くなったのを感じた。しかも、澤井の残した仕事は、どれも彼が復帰してからでも十分、間に合うものだった。優香が自分の業務だけに専念できたのは久しぶりだ。そのおかげで、彼女は時計が定時を指すとほぼ同時に、帰路へつくことができた。これもまた、優香にとっては喜ばしいことだ。


 普段はシャッターの閉じている喫茶店がまだ営業をしていたり、帰宅ラッシュで混み始めた車内だったり、地元の駅で学生たちが夕焼けのオレンジを浴びながら、魚の如く楽しそうに会話をしながら道を歩いているのを見るだけで、すっかり草臥れていた優香にとっては涙ぐんでしまうほど感動的な光景だった。


 その日、彼女はゆっくりと脚を伸ばして湯船に浸かった。帰ってきては化粧も落とさずに着替えて眠り、朝起きてからシャワーを浴びて出社していた日々とは、完全に切り離された今日の入浴は、何物にも代えがたい至福だった。普通の人がいつもできることを、すっかり優香は忘れてしまっていた。一時的だとしても、その生活を取り戻した彼女はぼんやりと、ずっとこのまま過ごせればいいのに、と切に願った。だからこそ、あの澤井さえいなければ、と邪な考えをしてしまう。当然、彼女の立場からそう考えることは正しい。澤井のいなかった今日は、数カ月ぶりに人間性の欠片を取り戻したのだから。何も間違っていない。ただそこに、怪我を負った澤井への優しさがあるかないかだけだ。だが、これまでしでかしたあの不気味な男の不祥事からすれば、自業自得だとも割り切れた。悪意のない迷惑が、彼自身の評価を落としたのね、と考え、優香は自分を納得させた。




 あくる日も、澤井は欠勤のままだった。部長の話によると、医者に少し様子を見るように言われたとのことらしい。優香は彼に邪魔されない日に、内心で万歳をしていた。いつでも重かった身体は、入社当初のように軽くなっていて、帰宅後の予定すら立てられるほどの余裕ができている。さらには、営業部内の雰囲気も明るくなった。あの男は、存在しているだけで深い影を落としていたのだから、その要因もなければ、至極当然の結果だろう。昼食は外で取り、与えられた仕事もしっかりこなせた。充実した日々にはバランスが大事だと実感した。


 定時になり、優香は退勤の報告を済ませた。まだ残業をしている社員もいたが、ここ数カ月の彼女の働きぶりを見てきたのだから、誰も文句は言わない。むしろ、明るく振る舞う姿を目にして、頑張ろうとさえみんな思っていたほどだ。

 駅に停車する度、車内は学生やサラリーマンで混みあっていく。人々の体温に圧し潰されながらも、彼女は自宅の最寄り駅へ着いた。西に沈んでいく太陽が眩しいくらい輝いている。晴れた心だと雑踏さえ心地いい。帰宅後は観たかった映画を消化して、風呂に入って、そうだ、たまには私ほどではないが、遅くまで働いている両親に代わって、店番をしてやろう、と優香はこれから始まる束の間の幸せやちょっとした親孝行に、胸を膨らませていた。


 改札を抜けて、帰路へと向かう人々の中に彼女も混ざった。そんな優香の前に、ふらりと一人の人間が現れた。それは澤井だった。彼女はぎょっとして目を見開いた。こんばんは、と挨拶をしてきた澤井に対し、狼狽えて会釈をすることしかできない。澤井は細長い腕を垂らして、大多数を占めるスーツ姿の中に擬態するかのように、汚らわしい鼠色の背広を着ている。片目は眼帯で覆われていた。部長から耳にした話が、嘘ではなかったことが証明された。頭の中で組み立てていたこの後の予定は音を立てて崩れてしまい、思考は綺麗に漂白されていた。後退りしてでも逃げようか、それとも適当に会話を切って去ろうか、どちらを取るか逡巡できるようになった頃には、既に機を逃してしまっていた。その場からじっと動かない彼と対面する形で佇んでおり、両者はまるで西部劇のガンマン同士の打ち合いを彷彿させる緊張感と沈黙に包まれている。


「澤井さん、家、この辺だったんですか?」


 初めに口を開いたのは優香だった。訊くつもりなんてなかったのに、我慢できなかった。澤井は綿棒の先のような頭を横へ振って、いいえ、と答える。じゃあ、どうして、どうしてこの男はこんなところにいるのだ。混乱でその質問がこんがらがってしまい、上手く言葉に表せない。


「たいしたことじゃないんですけどねぇ。いや、僕にとっては大切なことですが。この辺に腕のいい目医者がいる、っていうのはまあ嘘です」


 回りくどく、ねっとりとした口調に、優香は疑問や悍ましさよりも、苛立ちが勝っていた。彼女は意識しないうちに語気を荒くしながら、じゃあなんでここにいるんですか、と聞き返す。澤井は海苔塩のように青髭の散らばる口元から、夕陽の光も相まってより一層、黄ばんだ歯を剥き出しにして笑った。


「せっかく休みをもらったんですから、ちょっと趣味でも嗜もうかと思いまして。お医者さんには安静にと言われましたが、特に激しい運動を伴うようなものでもないですから。この辺、僕にとってはとてもいい場所なんですよ」


 人が一生懸命働いている間に趣味なんて、いい身分だ。そう言い返したい気持ちを優香はぐっと抑えた。こんな人間に嫌味を言っても、自分の心をかき乱されるだけだ。そう思えるだけの余裕が、幸いにも今の彼女は持ち合わせていた。


「そうですか、まあお大事に」


 優香はそう残して、澤井の横を通り過ぎた。真横を横切った時、彼女の鼻腔を不快な、溝の臭いが突いた。思わず嗚咽を鳴らしそうだった。今日一日、調子が良かったのに、最後の最後で、澤井によって気分を害された。彼自身は、自分の身体から放たれる悪臭に気付いていない。こんな人間と関わらないでさっさと逃げよう。できるだけ早く撒くことが正解だ、と言い聞かせて、そそくさと歩いていく。だが、背後から澤井が待ってください、と優香を呼び止めた。夕方の雑踏の中とは言え、かなり響く声音だった。いくらかの行き交う人が、一瞥をくれる。それだけで、優香は顔から火が出そうだったが、無視するわけにもいかず、不機嫌そうに優香は振り返った。澤井はまたにんまりとした笑みを作る。隻眼には一切の光が届いていない。実は眼帯をしていない方の眼も、義眼ではないのかと疑ってしまうくらいだ。


「なんですか? 私、今日は用事あるので」


 つっけんどんに言い返すと、彼はポケットからあるものを無言で取り出した。深い闇を孕んだ視線は、不機嫌な優香の顔にべったりと向けられたままだ。手の平には短めのチョークくらいのサイズの何かが、横たわっている。優香は目を凝らしてみたが正体が良くわからず、気味の悪さを感じつつも、男の手の平へと顔を近づけた。


「――っ」


 思わず飛び退いてしまい、悲鳴が上がりそうになるのを、理性で押し殺した。まるで手品師にタネも仕掛けも分からないマジックを見せられたかのように驚いた気分でありながらも、もっと大きな恐怖に、感情が急速なスピードで蝕まれていく。時間にすればたった数秒のことだ。簡単な推理みたいなものだった。自分の思考とその範疇外にあるものが、上手く結び付かない。だが、そう考えることが妥当であり、自然であるとしか思えない。万華鏡が何度も姿形を変えるかのような奇妙さに憑りつかれた彼女は、一歩も動けなくなっていた。


「お気づきでしょうが、これは野々村さんが昨日捨てた煙草です」


 紛れもなく、澤井の口から出た言葉は真実だ。彼は一片たりとも虚実を述べていない。口に宛がう部分には口紅がべっとりと付着していて、巻紙とフィルターの間には優香の吸う銘柄のロゴマークが入っている。偶然の一致で片すこともできた。だが、彼女の脳裏では一昨晩の、奇怪な出来事が走馬灯のように再生されていた。信じたくはなかったが、それで全て辻褄が合ってしまうのだ。捨てた吸い殻、叫び声、澤井の趣味、そして眼帯をした左目。

 優香は全身が粟立っている。本気で逃げなければ。彼女の心の片隅に残った一抹の冷静な部分は、どうにかして状況を打破しろと命令をしてくる。それは生命の存続のための、本能的なものだった。だけども、彼女は身じろぎ一つとれず、澤井の手の平で転がる吸殻を、凝視することしかできない。

 澤井は落ち着きをなくし、パニックに陥りそうな彼女の様子を見て、また口角を上げた。汚れた歯に夕日の光が照り返す。まるで一匹の生物のようだ。


「僕は怒ってるんじゃないのですよ。ただ僕の趣味の邪魔をされたことと、こうして怪我をさせたのに謝りもしないあなたに、文句を言わなければ気が済まないのです。世話になっている人とは言え、ね。野々村さん、僕に会社のルールを守れというのなら、あなたも社会のルールを守るべきではないのでしょうか」

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無悪意 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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