私の周りの狭い空間
上川ながれ
第1話 原付での体験です。
痛烈な体験をした記憶も、しばらく日にちが経ってしまえば、その日の始まりや終わりは綺麗サッパリ忘れてしまって、その体験した記憶のみが頭に刻まれます。しかしながら、その日のことは、1日の始まりからなんとなく覚えています。
思えば、その日は起きた時から不思議なことがおこっていたようでした。いつもであれば、予定がない日は昼頃までグズリグズリと惰眠をむさぼっているのですが、予定がないはずのその日はふと朝早くに目が覚め、いつもならそのまま二度寝してしまうところを、スックリと起き上がることができたのです。
カレールウを使わないスパイスだけのカレー作りに挑戦……これは失敗に終わりカレーの風味はするものの不味い何かが生まれることになりましたが……し、日頃頽廃的な生活を送っている私にしては精力的な日中だったと言っても差し障りはない……私自身が言いますことなので、誰に対して"障って"いるのかはやや疑問の残るところとは思いますものの……と私は考えます。
さらに言うと、その日は1年に1度はくるという流星群がよく観測できると聞く日でしたので、もはや私にとっては日課となりつつある、深夜に目的もなくして原付で走り回るという行為の、それは正当な目的として、この流星群の鑑賞を当てようと思い思い、風よけとして購入した上着と暖かいパンツ姿で出発するなど、およそ考えられる中で積極的な行動を選択したのでございます。
さて、走り慣れた原付を乗り回ししばらく走っていると、どうやら車の数がいつもより、このいつもよりと申しますことは、私が深夜によく走っている道だからこそ思うようなことではございますが、多いような気がして、あるいはこれは私が流星群というイベントで少しフワフワと浮かれていたからこそ、そう見えたという蓋然性を大いに含むところではありますが、私の他にも流星群を一見しようという方がいらっしゃるのだろうと、寒さ対策に着込んできたのは良かった他方で、その日は夜だというのにあまり気温が下がらなかったため、少し重ね着をしすぎたかしらんという思いを持ちながら、一方では私はそう感じたわけであります。
流星群が見られるというその日は、先述したように、私にしては珍しく、星のよく見えるであろう海のあたりに行こうかな、なんといった漠然としたものではあると但し書きを置きつつも行きたい目的地が決まっており、そこに向かって原付でもって愚直に、途中おそらく野生の親子と予想される白いネコ2匹を見かけながら、ゴトゴトと走っていたわけです。
その道中、少し山ぎわの住宅街の坂道を走っていた時のことですが、視界の端にユラリと動く影がありまして、私これに大変ビックリしまして、というのも、灯りという灯りは頼りない街灯の白い光と私の操作する原付の光のみということに加え、山ぎわなだけありまして木が周りを暗く遮るために、何か人知を超えた雰囲気があるなとウッスラと考えていたところでしたので、これは私とてもとても驚いたという運びであります。
ただ、よくよく見れば猫にしてはズングリとしており、しっぽの短い動物がポコポコと走り抜けていくところでした。偶然にも私少し前に猟師の免許について調べており、その中の問題例において、似た動物の種類を問うものとしてアナグマが扱われていたことをフンワリと思い出しつつ、「タヌキだな……」となんとなく、実際の野生のタヌキを見たのはおそらくこれが初めてだったにも関わらず、驚きとは裏腹に正体がわかってからは冷静にそう思いました。
そんな吃驚を乗り越え、原付のヘッドライトをまた目的地に向けて幾ばくか走っていたのですが、空には分厚い雲が横たわっており、見渡す限り切れ目のない暗い雲がどんよりと続いていたために、これは流星群を見ることは叶わないだろうな、と思っていたその時、私は、堂々と4足歩行で何かが歩いていくのを見かけたのです。先ほどとはうってかわり努めて静かな心持ちのまま、遠くの街灯から漏れ出たウッスラとした光を頼りに、ジッと見つめてみれば、野犬と思しき薄汚れた……暗闇の中でしたので恐れ多くも私の勝手な推測ではございますが……痩せた犬が、こちらの様子を伺っていることがわかりました。
先ほどから時系列があちらこちらへといってしまい大変心苦しい次第ですが、私は、ちょうどその日とはまた別の日に地元の廃墟などを調べており、そこから学んだこととして、野犬に襲われると大変危険である……これはどんな感染病や病原体を持っているか分からないという、ある意味、心霊現象より恐れるべきものなのかもしれませんが……ということが挙げられまして、そんなことを薄ら痩けた野犬を見ながら思い出して、襲ってこないことを凝視しながら、その脇を、十分な距離を置いて安全に通過することがあいかなったわけであります。
私はこの辺りで、今日はいよいよおかしいぞ、という風なことを、ついぞ思い始めましたことは、しっかりと強調しておきたい所でございます。いつもなら見かけない、というべきか、野犬もタヌキも私は初めて見かけましたが、現象が相次いで起こっていることは、私自身はっきりと感じてはおりました。ただし、私は、そんなことを分かってはいるものの、どうにか空の高慢な雲の切れ目を拝みたいという一心で、再度原付のアクセルをひねり、動かし始めた次第であります。
しかし私の決心むなしく、再び私の視界の左のはたで揺らいだ何者かが、私の中から勇敢さを奪い去り、まるでうまれたての赤子のごとく無防備な気持ちへと、刹那にしてすり替えたのです。されども、されども、その目の左端っこで揺らいだ何者かは、私の右後ろの街灯が映し出した私と、私の乗る原付のただの影だったということが、勇敢さをなくしたほんの瞬きの後に判明したわけなのです。
その日の空気は、何かいつもと違うものが作用しており、その何某かが私を億劫にしているのではないか、と推定されるほど私は臆病な人間になっておりました。もちろん、初めて見かけるタヌキや野犬に動揺するのはあっていいことではあるかもしれませんが、自分の影に驚くようでは、落語の人物じゃああるまいし、深夜に原付をよく乗っている、なんてことは、もはや恥ずかしくて申し上げられないのでございます。
ここまできて私は、星は見えないにも関わらず、ネコやタヌキ、野犬といった野生の動物ばかりを見かけることに少々参ってしまい、志半ばにして恥ずかしながら……自身の影に驚いておいて、今更これ以上恥ずかしいことはないのかもしれませんが……帰宅を決心いたしました。
この帰り道、雲は厚い厚い雲に覆われており、月明かりなど決して届かないはずなのではありますが、なぜか、遠くの山がボンヤリと浮かんで見えるような、山の輪郭ははっきりと見えているような、そんな不可思議な山を見かけました。原付に乗っていましたのでその時は特に気にしませんでしたが、よくよく思い返してみますと、曇りの空模様が広がる最中、点々と続く街灯程度では遠くを照らすにはか弱すぎるにも関わらず、山の尾根線がはっきりと見えたのは、これはあるいは私の臆病すぎる心が捉えた、せめて帰り道には何か収穫を得たいという願望の生んだ幻覚だったのかもしれません。
ソロソロと走っているとどうやら慣れ親しんだ道につながったらしく、緊張感で満たされていた私の体は、どこか弛緩したような感覚を覚えました。何かが動いた程度でビクビクと驚いていた私はどこかへ消え、あとは帰るだけであると、あれだけ修学旅行へ行く時は騒いでいたはずの学生諸兄らが、帰り道ではほとんど眠ってしまっているかのごとく、静かで、安らかに原付のハンドルを握っていました。
すると、前方から黒い車が2台走ってきまして、この車たち、深夜にありがちなハイスピードを出すわけでもなく、ハイビームを炊くわけでもない、紳士的な運転だな、と思っていると、自分の近くまで来てようやく、それら車が2台ともパトカーであることに気づきました。その日様々なことに驚きおののいていましたが、パトカーだと理解した瞬間が、一番胸がヒンヤリとした瞬間だったように思えます。もちろん何も違反していないことは、ここで明記させてほしいと存じます。
ちょうど家に着く直前あたりで、罪を犯したことを訥々と語り出した容疑者を思わせる雨が降ってまいりました。もし早めに帰ることを決心せず、そのまま走り続けていた場合、雨にシトシトと打たれながら原付を運転した恐れがあったことを考えると、その日は本当にずっと不思議なことが起こっていたと言わざるを得ません。
無事に帰ってきて、こうして記録できることに喜びを感じています。では、また。
私の周りの狭い空間 上川ながれ @uekawa_nagare
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