スマホ借りるかわりに男の娘の排泄を手伝う話

夏山茂樹

15歳の夏、車椅子の男の娘からスマホを借りた

俺が初めてアトリと知り合ったのは、15歳の高校1年の夏休みだった。東京から仙台に観光に来たときに仙台城址で車椅子に乗った少女を見かけたのだった。

 当時の俺はスマホの電源が切れて、家族と迷子になって公園を彷徨っていた。だが、少女の怒り声が公園内に響き渡る。


少女 おいおっさん! お前どこにおるんや? なあ、ワシはお前が離れてる間に車椅子を押されてわあ、知らんとこまで連れてこられたんや! なんでお前はのうのうと観光しとるんや? 早く迎えに来い!


 彼女は大阪弁と思しき言葉でスマホ越しに誰かと喧嘩をしているようで、彼女の大声に人々は慄き、どこかいやらしいものを見るような目で一瞬覗き込んではまた他の人と顔を合わせていた。

 俺も正直ガラの悪い女の子だと思った。だが、その時の俺は本当にどうかしていた。誰かにスマホを借りないと家族と会えない状況だったから、彼女につい近づいてしまったのだ。スマホなんて誰にでも借りることができたのに。


少女 なんやお前、ワイをそんなチラチラ見つめよって。気持ち悪いわ……

基 えっと、あの、実はスマホの充電が切れてしまって、誰かから借りれないかと思ってたんです……


 すると彼女は自身のスマホを黙って俺に手渡して、服の裾を引っ張ってきた上で耳打ちした。


少女 スマホは貸したる。だからやあ、手伝ってほしいねん。……トイレ行きたいんや


 恥ずかしそうにそう話す彼女はどこか顔を赤くして、いかにも恥ずかしそうな様子で俯き、黙り込んだ。トイレなら普通に行って、自分で用を足せばいいのに。そう思っていたのだが。


少女 ワシな、車椅子になってまだそんなになってないんだわ。排泄が自由にできんのや……恥ずかしいことやけど


 ああ、なるほど。要は事故の後遺症で脚が自由に動かなくなったり、神経が麻痺してしまったりということなのだろう。それにしても家族が目を離す間に彼女をここまで連れてきた奴は、いったい何を考えてそんなことをしたのか? 

 確かに電話では彼女が気の狂ったクレーマーのようにも見えなくもなかったが、なんというか、目を話す隙に車椅子で身内が連れて行かれるのに気づかない身内もドンくさいのは事実だ。

 でもなぜ車椅子なのだろう、理由が推測できるのに、つい俺は興味本位で聞いてしまった。


基 その、あなたはなんで車椅子なんですか?

少女 それを聞くか? まあ、教えたる。


 それから彼女の話を聞きながら車椅子を押してトイレに向かった。その時間はとても長く感じられ、どうしてかあまり聞きたくないことまで聞いてしまったような気分になった。人は偏見でそこまでやるのかという気さえした。


基 あの、名前は……

少女 アトリや! 花鳥風月の花と鳥を取って漢字を書く

基 花鳥ちゃん……

花鳥 ワイは男や! 勘違いすんなボケ

基 すみません……。で、車椅子なのは、なぜですか……?

花鳥 それは……その、1ヶ月前のことや。駅前のTSUTAYAとマツモトキヨシの間に横断歩道があんやけど、前で待ってたら「あいのこ」って言われて突き飛ばされたんや。運が悪いことに赤信号でな、60キロオーバーの車がオレの体に乗ってきてやあ、気づいたら体が動かなくなったん……絶対に許さん、あのマヌケ……


 それから花鳥が泣き出して、俺はさっきまで怒りをあたりに喚き散らしていた彼が可哀想に思えた。1ヶ月前ということはきっとまだリハビリ中だろう。黙りこくって泣いている彼の顔を拭いてやろうと正面を向き、彼の顔を見た。


基 花鳥、こっち向けるか?


 だが彼の顔は動かない。俺が彼のアゴを持って左側に向ける。すると、驚いたことに彼の目の色が下にいくにつれ青くなり、思わずワッと声を出してしまった。


花鳥 なんやねん。お前もワイのこと、あいのこっちゅうんか?

基 いや違う……世の中にはこんな綺麗な目をした奴がいるんだと……

花鳥 そうか、そう言われたんは、今が初めてや

基 顔から出る物全部出てる。このままじゃ綺麗な横顔が台無しだわ。俺が拭いてやるよ。

花鳥 すまんなあ、トイレの手伝いまでしてもらう上に顔まで拭いてもろて

基 いいわ、気にすんな


 花鳥の顔を拭いてやるのは別に嫌な気がしなかった。美術館に飾られた、芸術家の絵に写る女性のような横顔が動いているのがやけに生々しくて、白い肌にほんのりと赤みが増している。そんな顔の少年を世話するのも悪くないと思ったのだ。

 東京にはたくさんの人や、色々な種類の人々が魑魅魍魎として住んではその狭い土地を分け合っている。俺はその中で生まれ育ってきたわけだが、伊達政宗だけがウリの田舎で異国情緒あふれる少年と会うとは思いもしなかった。まあ、彼は関西弁を話すが。


花鳥 兄さん、ホンマにあんがとさん……

基 顔もキレイになったな。さあ、トイレ行こうか

花鳥 うん……


 それからトイレに向かう途中で、花鳥について軽く話題になった。彼は自分のことを聞かれて、どこか意外に感じているようだった。

 話すたびに「あっ」だったり「やっ」だったり、ちょくちょく言葉が途切れ途切れになって、顔が見えなくても彼の戸惑いが耳でよく聞こえた。きっと自分に自信のない子だったのだろう。少なくとも当時から。


基 花鳥くんは大阪の人?

花鳥 ちゃうで。生まれも育ちも仙台や。母さんが大阪の人で、いま世話に来てるおっさんも大阪の人やからな、一緒に行動してるうちに移ってもうたわ。アホらし

基 そうなんか、話好きなところが大阪にいそうな人って感じだからさ、勘違いしてしまったわ

花鳥 親父も出身はここなのによお、大阪っちゅうか関西っちゅうか、そんな言葉を話すんや。母さんと同じ大学だからかねえ……?


 花鳥の東北訛りの大阪弁が不思議というか、今までに遭遇した人たちの中でなかなかいない存在だったからつい話が進んでしまう。道案内に従ってトイレまでに着く間、花鳥の話をどんどん進めていく。


基 花鳥の母さんってどんな人なの?

花鳥 そういやお前、いつの間にかタメになっとんなあ。母さんは局アナや。親父はテレビ局とバス会社の株主やって、趣味で不動産屋しとる

基 花鳥くんと話すと自然とタメ口になってしまう。すまんなあ。で、すげえ金持ちなんやね

花鳥 でも今は病院暮らしや。個室におっさんと2人や。

基 それは寂しいな……親は来てくれないの?

花鳥 来るわけないやろ。名誉を重んじる家柄や。障害者になった元ユースなんか誰も相手にしてくれんわ。

基 おじさんは来てくれるんだろ? ならいいじゃん。男2人。楽しい話でもするんだろ?

花鳥 なんでそんなに家の話を聞いてくるんや? まあ、妹の奈緒美は来てくれる。宿題手伝うくらいはする

基 そうか……なんか寂しいな。聞いてごめんな

花鳥 わかってくれるんならええんや。……あっ、ここトイレや


 トイレに着くのはあっという間だった。それから大変だったのは、花鳥を車椅子から下ろして便器に移動させて、下を脱がせることだった。


花鳥 初対面の人間に排泄するとこを見られんの、恥ずかしいわ

基 でも仕方ないだろ

花鳥 そうだけどな、人間として恥ずかしい。当たり前のことができなくなるんは辛いことや

基 文句はトイレの後で聞いてやる。さ、俺の背中に腕回して


 すると花鳥は腕を回して、体重を俺の背中にかけた。意外と重いその体を支えられるか心配しつつも、俺はそのまま花鳥の脚に腕を回して持ち上げた。


花鳥 トイレするだけなのに、これじゃまるで少女漫画のヒロインや!

基 うっさい。ほら、移動するぞ。いっせーのせ


花鳥を抱き上げて、便器に座らせて彼のボトムスを脱がせる。


基 花鳥、浮けるか?

花鳥 兄さん、ちょっと肩貸してけさいん……

基 はいよ


 花鳥に肩を貸している間に、サッとボトムスを下におろす。彼の足首まで落ちた下着とキュロットパンツはが床まで届いているほどくたびれていた。


花鳥 ほら見んといてや! 排泄は見せもんやない!

基 わかったよ

花鳥 ほんならよろしい


 花鳥から少し離れて後ろを向く。視覚がそっぽ向いても、聴覚はしっかりと彼の排泄音を聞き取る。夏の暑い日、庭にホースから勢いよく出る水量をホースの出口で調節するような音が、しっかりと聞こえた。言い換えるなら日本庭園のししおどしから流れる水音のようなものが聞こえたのだった。


花鳥 普段ならオムツ履くのに……

基 普通ならオムツだよなあ。まだ歩けないのに

花鳥 ちゃうちゃう! もう歩けないんや。脊髄損傷や

基 その割にはスマホをちゃんと持ってるし、上半身は動いてるじゃねえか

花鳥 脊髄損傷っつっても、損傷した部分によっては歩ける。ただ、なぜか左半身が動かんし、感覚もせんのや


 花鳥の現状に俺は同情した。サッカーのユースがある日、誰かから背中を押されて車に撥ねられて突然障害者になったら、そりゃ確かに彼のように心は乱れるだろう。

 今までできた行為がある日できなくなる。築き上げた地位の喪失。半ばネグレクトのように血の繋がった親からは放置され、伯父がいるだけ。彼は十分恵まれていたのかもしれないが、ある日不十分な存在になった。

 俺ならきっと耐えられないだろう、もしかしたら、心が乱れているだけで済んでいるならマシなのかもしれない。そんな気さえした。


基 花鳥

花鳥 なんや?

基 その……

花鳥 なんや? 同情ならいらん。してもろても何かいいことがあるわけでもないしな


 きっと彼は同情を受けただろう。受け続けているのだろう。現に俺がその類の言葉をかけようとした。だが、同情されたって何かあるわけでもない。むしろ辛いだけだろう


基 なあ花鳥、お前小だったろ?

花鳥 なっ……! 見てたろ?!

基 後ろ向いてても聴覚は遮れないんでね


 花鳥の頬がみるみる赤くなっていく。まるで彼岸花のような赤い頬で彼は俺から目を背けた。


花鳥 お前のアホ! なんでそんなことすんだよ、もしかしてお前マニアか? 恥ずかしい! 恥ずかしいわ! 死ね!


 とうとう初対面の美人さんに「死ね」とまで言われてしまった。だが俺はそんな花鳥が可愛らしく思えてしまう。明るい色をしたボブ、後れ毛が揺れて幼い雰囲気さえした。少なくとも不名誉な言葉をかけられても俺は、人間関係でその日以上のマニアックな幸福感をかんじたことはなかった。


基 ははは……でも用足すのは助けたろ? スマホ借りるぜ

花鳥 くっ……ほらよ


 きっと事故の時に壊れて買い替えたのだろう。新しい彼のスマホには傷ひとつついておらず、事故の有り様がいかに酷かったがそれでわかってしまうようだった。

 新しいスマホに親の電話番号を入力して電話をかける。すると、3コール目で親が出た。


母 『基? いまあんたどこにいんのよ?』

基 「地元の人からスマホ借りて電話かけた。電源切れたんだよ」

母 『博物館の入り口で待ってるから。お礼はちゃんと言いなさいよ?』

基 「はいはい、じゃあな」


 電話を切った途端、LINEのメッセージが来て思わずそれを見てしまった。


広海乃亜

『ホールで待ってる』


基 ノアって人からメッセージ来てるけど

花鳥 おっさんや。母さんの弟。

基 方舟みたいな名前だな

花鳥 母方の婆さんはウクライナ人や。だからじゃろ

基 ああ、だから花鳥の目も上から下に見ていくと青くなっていくんだな。好きな目だ。俺の彼女より綺麗だ

花鳥 彼女さんに失礼やで

基 ああ、すまんな。アトリ。名乗りが遅くなったな、俺はモトイだ。基

花鳥 綺麗な名前や、モトイ。お前こそ綺麗なもん与えられて、幸せもんや

基 漢字は基本の『き』だ。でもここでお別れだな。ホールと入り口は別方面だから

花鳥 そうやな……ワイ、お前と出会えてよかったわ。彼女さんとお幸せにな


 そう語る花鳥は寂しそうに笑いながら、スマホを受け取るとそのまま片手でスマホに何かを打ち込んでいる。


『おっさん、トイレ前に待ってる。来てけろ』


基 スマホ借りたお礼にホールまで押してやるよ

花鳥 いいわ。基にはいっぱいええことしてもろたし、これ以上借りは作りたかない

基 そうかい。じゃあさよなら。おっさん、来てくれればええな

花鳥 マジそれな。まあ、来てくれるっしょ


 お互い笑いながら、その日は花鳥から去ったのを覚えている。去り際、彼は精一杯の作り笑いで俺が去るのを見つめていた。


 あれから高校を卒業して、東京に彼女を置いてきた。仙台郊外の大学に進学した俺は、そのまま朝の光を浴びて目を覚ました。


? お兄ちゃん……と、えっと、どちら様ですか?


 徐々にハッキリとしていく視界の中、中学校の制服を着たセミロングの少女が『お兄ちゃん』と呼びながら隣で寝ている少女を起こしながら俺をじっと見つめていた。

 そうだ。色は違うがこの瞳はあの日、青葉城址でししおどしの秘密を共有したあの花鳥に似ていた。


基 君の名前は……?

? なんですかいきなり、ナオミです。で、あなたの隣で寝てるこの人は私の兄のアトリです。


 居酒屋の前で2人ねんごろよく寝ていたのがまさかの花鳥だったとは……。俺はただ運命の引き合わせに驚きながらも、花鳥の長く伸びたザンバラ髪を一房手に取って小さく言った。


基 アトリ、ただいま……

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